続・同じ原著でも―アダム・スミス『国富論』⑤
故・山岡洋一氏主宰のホームページ『翻訳通信』の中で、『国富論』の翻訳をめぐって、たくさんの考察がされているのを、うかつにも拙稿『『国富論』③』を投稿し終えた後に知った。私のとは比べようもないほどの精緻な分析に、さすがプロの翻訳家は違うわなあとすっかり感心してしまった。ただ、これまでの『国富論』の翻訳に対して、あまりにも辛辣な批評に、少々戸惑いも得た・・・・と記すと、お前もナイーヴだなとせせら笑われるかもしれぬ。私としては大内兵衛/松川七郎版も、大河内一男版も、水田洋/杉山忠平版も、それぞれに味があって肯定的にとらえたいと思ってしまう甘ちゃん読者であり、先人の訳者の肩を、どうしても持ちたくなる。肩を持ったところで、氏には到底太刀打ちできないのだけれども、ここは素人ゆえの暴言ということで、お許しいただくことにしよう、と勝手に前置きし強引に筆を進めることにする。
山岡氏は、これまで流布してきた『国富論』の邦訳を総括して「訳者は読者に寄り添った訳文を草していない、彼ら訳者は読者が本文を読んで理解できないのもやむなしとし、その欠は解説なり訳注なりで補えばよいとする傾向があった、それは訳業本来のあるべき姿勢とは反するし、訳者の思い上がりである、訳書は解説も訳注もなしで、その本文だけで内容が理解されなくてはならない」、という意味の意見を述べておられる。だが山岡氏の、解説・訳注がなくてもその本文だけで「国富論」の内容が理解できるような訳書でなくてはいけないという姿勢は敬服に値するが、国・文化も時代も、そして言葉も、今日の日本とはまるで異なる背景から生まれた『国富論』である。私自身、素人ながらにスミスの原著と、各翻訳を見比べてきて思い知ったのは、外国語―ここでは英語だが―を日本語へ真に正確に移し替えるのは不可能だということである―だからこそ、氏の翻訳には巻末に専門家による解説が付されたのだろうが―。不可能であるからこそ、これまでの『国富論』の訳者たちは、ならばせめてもと、より原語に近い表現、つまり逐語訳、一対一式の対訳に取り組むことで、英語のニュアンスを可能な限り読者に伝えようとしてきた。そして、英語と日本語の間に生まれる、いかんともしがたい懸隔、理解しがたい部分を埋めるべく―かつ、その本が生まれた歴史的・文化的背景を知らしめるべく―、解説や訳注が施されてきた。翻訳のありかたとして、むしろこれは読者にとって手厚い(?)サービスともいえる。小説やエッセイの類なら、本文だけ読めば、たとえ原著の細かいニュアンスが完全にわからなくても事足るのかもしれないが、『国富論』は、小説・エッセイとはまるで性格の異なる本である。『国富論』は文学ではない。社会科学の本である。その訳文は、科学の本とうたっている限りは、正確性を求められる。読みやすさを追求するために正確性を欠くのは、その内容がまるでわかってもらえなければ訳書の存在理由がゼロになるから、ある程度は仕方ないとしても、本来ならば慎まねばならない。ある程度の意訳は必要である。だが読みやすさばかりを狙っての訳文では、社会科学の規範―正確であるということ―に背くことになってしまう。だから正確さ・厳密さにのっとった先人の訳書を、否定してしまうことはできない。そのような、読者を退けるような訳書はいらない原著を読めばよいと山岡氏はおっしゃるだろうが、もしそれで、大河内版などの訳書がなくなったとしたら、果たして今日まで『国富論』が、ここまで日本の読書会に浸透しただろうか。山岡氏も、歴史的に見て、「読みにくい」これまでの『国富論』の訳書の存在意義には、一定の評価をされているようではあるけれども。
いや俎上に上げた各訳書はそれ以前の問題で、訳そのものが問題だらけなのだよ、もう今の世の中、これまでのような訳文ではだめなのだよとも、山岡氏はおっしゃるだろう。だがである。その訳文の問題をも含めて考えることこそ、古典なのではないか。この文章を意味するのは何だろうと、いちいち立ち止まって自分の頭で考えること、それを要求してくる本は、訳書の存在も含めて古典の資格がありはしまいかと、私は最近つらつらと考える。ここで考えるという行為を断念し、読むのを中止することがもし、あるならそれならそれでしかたあるまい、その本との縁もここまでの話である―と、私がこうほざくと、山岡氏から、何と乱暴な奴と罵倒されるかもしれぬ。だが私のように、断続的にそれこそ40年近くにわたって、一再ならず躓きながらも読んできた者だっている。「意味が分からない」ことを、訳書を通じて思い知ったからこそ、私は何度となく『国富論』を読み返し、50もはるかに過ぎて原著にも触れるようになったのである。―原著を手に入れたもともとの動機は違っていたが、それは前にも触れたので、今回は触れない。だとするとこれまで流布してきた訳本―私の場合は大内/松川版と大河内版、それに水田/杉山版だけだったが―は価値あるものであったわけであり、これら先人の訳書の存在があったからこそ、今日まで読み返してこれたのである。もちろん、山岡氏のコンセプトによる訳書は重要であるし必要でもある。だが、大河内版に代表されるアカデミックな視点に立った訳書もまた、必要だと思う。もちろん、あまりにも読みにくい、いや読めない、何が書いてあるのかわからない文章はごめん被るけれども。
山岡氏と私とでは、翻訳、いや文章作法に対する意見が根本から違うのだろう。だからどこまで行っても交わることはないのだろう。それでいいと思う。どちらの考えも是とすべきであるとしたい。読みやすさ―本文理解のしやすさ―を追求した訳文と、正確性・厳密性を追求した訳文。この両方を味わえる環境が整ってこそ、古典は真に古典として読者の間に定着するだろう・・・・と、一人勝手に喚き散らしているなら、今は黙殺されるか、もしくは全否定されるだろう。しかし私の意見はあながち、まるっきり的外れではあるまい。