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バズコックス『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』スペシャル・エディション解説訳文

アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン
 
皆さんが手にしているのは今から30年ほど前に発表され、パンクの一大傑作として歴史にその名を刻んだ『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』その改訂版である。ここには熱気、知性、哲学的な詩作、かつ、性的な制約を乗り越えようとする気概、同時にバズコックスが他から傑出した存在にさせることになったサイケデリック感覚が横溢している。
 
現代の音楽シーンにおいて際立って不可思議なこととして語っておきたいことがある。―評論家の間で―バズコックスは正当な扱いを受けていない。例えば、ジャムはセックス・ピストルズとクラッシュに続くパンクの第3グループに位置付けられている。しかしそれは間違いである。バズコックスこそ、その地位を得るにふさわしい力量を備えているのだ。
 
それを証明するのが、これら改訂版アルバムである。本作―3作の拡大版、その最初を飾る1作―には、『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』全曲にシングル曲、同時期のジョン・ピール・セッションからのテイク、さらにディスク2にはデモ録音に1977年10月エレクトリック・サーカスで行なわれたライヴを完全収録している:このライヴは同ライヴハウス最後の夜を、かつ、バズコックスが全国区にその名を知らしめようとするまさにその時期の記録なのだ。
 
彼らはもはや、マンチェスターの秘宝ではなくなっていたのだ。

見栄っていうのは興味深いものだよ。少なくとも努力をするよう、人を駆り立てる。やる気があれば、いつしか自分の能力を弾き出さずにいられなくするものさ。
ハワード・デヴォート、1988年ジョン・サヴェージとのインタヴューより

 

バズコックスの物語は1975年という、幽玄の彼方であり、かつ魅惑的な年に生まれる。その年の10月、ハワード・トラッフォードはボールトン産業技術インスティテュートの掲示板に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの“シスター・レイ”を演奏したい人募集という広告を出した。それに応募してきたのが。同じ学校の生徒であり知り合いのピーター・マクネイシであった。2人は曲を書き、練習し、グループ結成に乗り出した。

 

ハワードはストゥージズの『ロウ・パワー』に深く影響され、ピーターは70年代の初頭より作曲を始めていた。情熱はいや増しに高まった。1976年2月24日発行のNME誌に載ったニール・スペンサーのセックス・ピストルズ評が決定的であったとデヴォートは回想している。「彼らはストゥージズの曲を演奏し、自分たちのやっているのは音楽じゃない、カオスだって言っていると書いてあって、―へえ、面白いやとね。それで私たちはロンドンに出かけて行ったというわけだ」

 

その週末、2人は二度セックス・ピストルズを観、バズコックスは生まれた。ピート・シェリーは次のように語っている。「ピストルズを観た晩、リビングで僕とハワードが寝ているときだった。眠りに落ちようとするときに、ハワードは僕にたずねてきた。もしバンドを始めるとして、その後どうする、ずっとそれを続けていくべきなのか、趣味としてやっていくのか、それとも生業にしていくのか、とね。僕はこう答えたのさ。それなら僕は一生の仕事にするよ、とね」

 

タイム・アウト誌に載った新しいTⅤドラマ・シリーズ『ロック・フォリーズ』の紹介見出し「それがThe Buzz,Cock(ブンブンうなる、チンポ)」からその名前を付けた結成間もないバズコックスは、マンチェスターのレッサー・フリー・トレード・ホールでの2回のセックス・ピストルズ公演から得た感銘をテコにして活動を開始した。―この1976年6月4日と7月20日、2回の公演は以後マンチェスター音楽シーン生誕の苗床となるイベントとして伝説化していくのである。

 

ピストルズ2度目のショウを迎える直前、バズコックスはヴォーカルにハワード・デヴォート、ウールワース製「スターウェイ」ギターを持ったピート・シェリー、ベースにスティーヴ・ディグル、ドラムスにジョン・マーという4人編成のバンドとなった。スクリーン・オン・トレント、100クラブでのパンク・ロック・フェスティバルと2度のロンドンでのライヴを経て、その年の秋はレンチの十代向けのゲイ・バーやコリーハーストのエレクトリック・サーカスなど、マンチェスター周辺でライヴ活動に勤しんだ。

 

1976年12月下旬、バズコックスはマーティン・「ゼロ」・ハネットと共にスタジオに入り、いまだかつてない記念すべきレコーディングを行なう。その4曲入りEP『スパイラル・スクラッチ』はマネージャーであったリチャード・ブーンの設立したバンド自身のレーベルであるニュー・ホルモンズから発売されたが、これは正真正銘イギリス初の自主製作盤であり、音楽の創作、流通販売に甚大な影響を与えることになった。

 

しかし1977年2月、ハワード・デヴォートは突然脱退してしまう:彼は当時をこう感じていたと思い起こしている。「我々の活動が軌道に乗って、もうそれだけで十分だった。言いにくいことだがね。あのレコードで周囲の目がまるで変ってしまった。予想もしていなかったことだった」この年の暮れになり、デヴォートは新たにマガジンを結成、第一線に復帰することになる。

 

バズコックスは直ちに再編を果たした。ベースにガースを加入させ、スティーヴ・ディグルはギターに転向、ピート・シェリーがフロント・マンの任に当たることになった。バンドは名だたるパンクのイベントのいくつかに参加した。―もっとも知られているものとして4月のロキシーへの出演。これはレコーディングされ、アルバム『ライヴ・アット・ザ・ロキシー』に結実した。5月にはクラッシュの「ホワイト・ライオット」ツアー。―初夏を迎えるころにはメディアの熱狂に当て込んだレコード会社数社から勧誘を受けることになった。

 

業界で豊富な経験を持ち、熱心な誘致をし続けたアンドリュー・ラウダ―のいるユナイテッド・アーティスツが契約に取り付けた:「アルバムをまず3枚、それが済んだら2枚、という契約だった」とシェリーは回想している。「創作活動の完全な自由を得ることができたね」バズコックスはすぐさまスタジオに入り、古典となる一曲“オーガズム・アディクト”をレコーディングしたが、そのタイトルでは放送される見込みはなかった。[i]

 

1977年11月に発売された“オーガズム・アディクト”には才人リンダーの手によるモンタージュ-アイロンの頭をした女―をとり入れた、パンクの新たなスタンダートとなった写真がスリーヴにあしらわれていた。やがて今日のバンドが取り入れている自らのイメージを象徴させるヴィジュアル・デザイン、その嚆矢となるものの多くをマルコム・ギャレットが担当することになるのだが、彼の作品は「付け加えられたAssorted諸感情images」と命名され(他の作品には異なった多くの呼び名が使われた[ii])、バンドの美的センスに欠かせない部分を担うことになった。

 

こうした創作は音、ビジュアル・イメージ、そして彼らの姿勢が一体となって生み出されたものだった。:その歌にはあらゆる性的イメージが盛り込まれていた。―とりわけシェリーによる、レンチにおける人間観察が基になった。何よりも優れていたのは、シェリーが他のパンク・グループのような男らしさを強調する姿勢を避けたことであった。「明確な性的線引きを歌の中で示すのは避けるようにしてきた。男らしいとか女らしいとか云々するのはうんざりなんだ。そうすることでより権威主義的になるし、そういった考えにはいつだって反対だね」

 

1977年冬、バズコックスはガースをパーディ・ガーヴェイに交代させ、ファースト・アルバムと次のシングルのレコーディングに専念、清冽なポップ・ソング“ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?”は1978年2月に発売。初のトップ40となり今ではパンク系ディスコの定番曲となっている。B面の“オー・シット”は再びその辛辣なタイトルと歌詞のお陰で検閲に引っ掛かることになったけれども、今なお多義的な解釈を可能とする傑出した攻撃性を有している。

 

ファースと・アルバム『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』—タイトルはリンダー作の肖像画のモンタージュ写真から取られた―は1978年3月に発売された。バズコックスの活動が止むことはなかった。ツアーを続けることで2本のギター・サウンドは磨かれ精密機械のようになり、プロデューサーのマーティン・ラシェントは彼らのパンク的な勢いを鋭敏に、かつ永きにわたって聴かれるものにする音像と味わいを完膚なきまでに創り上げた。「ごく早い時期から、彼らのレコーディングではそれまでの決まりきったやり方を変えてみようとした」とラシェントはギャヴィン・マーティンに語っている。「ドラマーを高い位置に座らして、他のメンバーをその周りに-普段のライヴと同じ配置にして、普段と同じ演奏をしてもらった」“オーガズム・アディクト”の音には満足できなかったラシェントは、バーンズにある洞窟のようなオリンピック・スタジオに作業場を移した。:「バズコックスには大音量で鳴らせる環境が必要だった。彼らの演奏の特徴はノイズを反響させ合うことだった。だからギターを互いに溶け合い混ざり合うようにした」

 

多くのファースト・アルバム同様、バズコックスもその制作を短期間で終了させた。:収録曲の内、“ラヴ・バッテリー”はトップ30にランクインしたコンピレーション・アルバム『ライヴ・アット・ザ・ロキシー』ですでに発表されていた。セックス・ピストルズやクラッシュといった同時代のバンドと比べると、バズコックスは日常生活や市井の人々の恋愛・情念のもつれ、それらが孕んだ問題に争点をあてていた。

 

個人的な人間関係はパンク的思考にあっては等閑に付される傾向にあったが、シェリーはそれに異を唱え、積極的にその普遍的なテーマを歌詞に取り入れ、自らの表現豊かでハイピッチなヴォーカルと非男性主義姿勢でもって、テーマを内包した新時代を生々しく表現した。とりわけ淫らな‶ゲット・オン・ユア・オウン“(性的興奮を示すヨーデルが聴ける)や‷ラヴ・バッテリー”では直截に、〝フィクション・ロマンス“では恋愛における世間一般の理想と現実との落差を辛辣に描き出した。

 

人間本来の知性に問いかけるということ(ゆえに一連の歌はすべて人との交わりを扱っていた)、これはパンクにおいては重視されてこなかった。これこそがバズコックスの特異性であった。アルバムは最も有名な曲“ボーダム”のさわりを聴かせるところから始まり、終わりにあたって再びこのさわりは登場し、フレーズをひたすら繰り返しながら音が上昇していく。サード・シングルとして発売された「人生は一遍の夢」という歌詞で始まる“アイ・ドント・マインド”はめでたくトップ30入りとなった。

 

成長することへの不安に苛まれるさまを歌う“16”は中間部にテンポダウンし混沌とした音像となる。冒頭から一丸となって演奏してきたバズコックスの面々はここでは勝手気ままにしているが、その嵐のような荒れ狂った音が再びまとまり、軍隊長のリズムに統制され、末尾の叙事詩に収斂していく。「今の音楽なんて嫌いだ。ディスコ、ブギ、ポップ。立て続けにやってくる。どうやったら止められるんだ!」

 

もう一つ、怒涛のように攻め立てるのがスティーヴ・ディグル作の‟オートノミー”であった。:「人の二面性を歌っているんだ」とディグルは当時私に語った。「自分自身の行動規範はいかなるものかってことなんだ。何かに夢中になると自制が効かなくなるっていうね。―自制なんて効かなくなるもんだよ。そういうことっていっぱいある。例えば今何かをやっていたとする。タバコなんて吸ってはいられないってわけさ。両方やりながらなんてね。余裕がなくなるということさ」

 

‟アイ・ニード”でバズコックスは真のアナーキーとは何かを直感で理解しそれを肯定する態度をとった。この歌は欲するものと必要とするものとの違いは何かを考察する内容である。つまりセックス、愛、酒、ドラッグ、食べ物、カネ・・・・についてである。アルバムの最後を飾るのは6分半に及ぶ“ムーヴィング・アウェイ・フロム・ザ・パルスビート”。この長尺のナンバーではギターがパワー全開に鳴り響き、サイケデリックなインプロヴィゼーションを彩る―パンクの常識をやすやすと叩き壊す一級のダンス・ナンバーである(限定で12インチシングルも発売された)。

 

明るいオレンジとメタリックな銀色でパッケージされた『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』の初回出荷分は大文字でPRODUCTと記されたポリ袋に入れられた。アルバムは最高15位、11週間チャートにとどまった。しかしバズコックスを生み、存続させてきた文化はなし崩しになっていった:ピート・シェリーは語っている。「いったん業界に身を置いたとたん、皆で力を合わせてなんて空気は消えてなくなってしまったよ」

 

バズコックスは最も見どころのある新人グループ達をサポートすることでパンクの理念に忠実であり続けた。1978年3月、「アナザー・ミュージック」ツアーにはスリッツとプレフェクツを参加させている―実に魅力的な出演陣だ―が、それぞれが団結していくより孤高の存在となっていくことは避けられなかった。生き残り成長していくために、バズコックスは深く内省していかねばならなかった。続きはシリーズの次作アルバム『ラヴ・バイツ』にて綴ることにしよう。

                        ジョン・サヴェージ 



[i] バズコックスのマネージャー、リチャード・ブーンはマンチェスターにあるピカデリー・ラジオで放送する約束を取り付けたと記憶しているというのだが―朝の4時に!

[ii] バズコックス自身の冒険心あふれる活動に合わせて、ギャレットはシングルごとに記載する文言を変えていった。例えば“オーガズム・アディクト”は「勝手気ままなArbitrary 諸感情images」,‟アイ・ドント・マインド“は「幾重にも重なったAssembled諸感情images」,‟ラヴ・ユー・モア”は「引きつづいていくAuricular諸感情images」といった具合である。Assortedはリチャード・ブーンの提案によるもので、最終的にはこのフレーズが定番としてその後も採用されることになった。



訳者後記

本稿は2008年にイギリスEMIから発売されたが、日本発売は見送られたバズコックスのファースト・アルバム『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』、その30周年記念の拡大版に付された、ジョン・サヴェージによる解説文の全訳である。本作を含む当時EMIから発売されたいずれも2枚組CDとして発売された3セットのアーカイヴはユナイテッド・アーティスツ時代、いわゆるヴィンテージ期のバズコックスのほぼ全容を伝える優れた質・量を誇るものであったが、これらの作品の価値をいや増しに高めていたのがジョン・サヴェージ執筆による3本の解説であった。サヴェージはバズコックスが、当時のブリティッシュ・パンク勢にあっていかにユニークな存在であったかを流れるような筆致で描き出してみせる。詳しい内容は本文を参照していただければここでわざわざくりかえす必要はあるまい。
 ただし、データ的な部分においてサヴェージの原文では不足を感じる箇所がある。特にベーシストのガース(・スミス)の脱退~スティーヴ・ガーヴェイの加入(原文ではパッディ・ガーヴェイとなっている)の経緯については極めてあっさりと記されているのみで、この時期のライヴやレコーディングの混乱ぶりは当然読み手側としては予想されるのだが、そういった情報を一切伝えてくれていない。また、アルバム『アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』のレコーディングも短期間に終わった、レコーディングは実際のライヴと同じように演奏したのを録音したと記されるのみで、実際のレコーディング作業での、細かいギミックについての言及もされていない。これらの情報を補完するためには亡きピート・シェリーへのインタヴューを基にしたルイ・シェリーによるピート~バズコックスの評伝『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(2021年)が有益となるであろう。
 本解説は、後続の2本の解説と共に、ヴィンテージ期のバズコックス並びに70年代ブリティッシュ・パンクの盛衰を知るための重要な資料と言えるものであるが、残念なことにヴィンテージ期のバズコックスの音源がすべて配信扱いとなった今、フィジカルの形でのみ付されていたこれらサヴェージの解説は正規に流通されることがなくなってしまった。特に日本では、語学の壁という問題もあり、バズコックスや70年代パンクに対する精確な情報を知りうる機会がこのまま失われたままになると訳者は判断し、ここに訳出することにした。
 訳出にあたっては、できるだけ読みやすい文体にするよう心掛けたが意に満たぬ部分は多々ある。また思わぬ誤訳を犯している箇所もあろうと思う。大方の批判を願ってやまない。

2023年元旦 訳者記す