おうちに座って、どこが悪い―バズコックス「シッティン・ラウンド・アット・ホーム」についての一解釈
Sittin‘round At Home
Sitting round at home, sitting round at home
Sitting round at home, watching the pictures go
Sitting round at home, sitting round at home
Sitting round at home, watching the pictures go
I watch the news at one, I do it every day
They always find someone to take my mind away
It's a family show, ten part serial
Something for everyone, tea on end part one
Whatever turned you off, was it the turning on
Ideal state of mind, increase your perception
Sitting round at home, sitting round at home
Sitting round at home, watching the pictures go
Sitting round at home, sitting round at home
Sitting round at home, watching the pictures go
I'm sitting [x21]
バズコックスのサード・アルバムに収録されている「シッティン・ラウンド・アット・ホーム」である。ネットを覗くと今や簡単に歌詞サイトにアクセスできる。下手な教科書よりこういうサイトを利用した方がよっぽど英語の勉強になる。ほんと、いい時代である。
せんだって999のことを書きながら、この曲を繰り返し聴いていたら、今度はこちらについて書きたくなった。以前にも同じテーマで書いたことがあるのだけれど、内容の不備から削除してしまっていた。今回はその全面的な書き直しという意味もある。
バズコックスというと、ピート・シェリーによる恋愛や人間関係の苦悩や挫折感、疲労感を描いた歌詞がつとに有名だが、その一方でもう一人のソングライター、スティーヴ・ディグルの存在は軽視されがちである。しかし彼の書く歌詞はシェリーとはまた違った妙味を醸し出し、バズコックスの音楽をより重層的にしてきたことは、もっと評価されるべきである。近年の彼の作詩はより社会派というか、社会に対峙する個人をテーマとする傾向を有しているようだが、その一方で、この「シッティン~」のような、他愛もない、ろくでもない日常をスケッチした歌詞もまた味がある、いや、バカバカしくって笑ってしまうと同時に、よく読むと、そこにはメタファーが巧妙に隠されていることに気付かされるのだ。というわけで、この歌詞を吟味してみたいと思うのだ。間違いなく、中学や高校の英語の授業―あと、小学校の―ではこんな歌詞は教材として使用されないだろう。使用したら楽しいと思うが。いや、けっこうやばい表現が散見されるから、やはり使えないか。但しここでの解釈は、あくまでも私の個人的なものであって、これが絶対だとほざくつもりはない。他にいくらでも違った読み方ができるだろう。教えていただければ幸いである。
歌詞の内容は、表面的には家でまったり過ごす男の、平凡な日常である。自分の家でウダウダやりながら、真昼間からテレビを眺めるのだ。男は世間一般のサラリーマンではないことは昼の1時のニュースをやってると言っているところから明らかだ。失業者か?いやいや、ここは作者のスティーヴ・ディグルと考えた方がいいだろう。彼は毎日この時間はテレビのニュースを見てるんだよとも言う。午前中はおそらく寝ているのだろう。ここの「ドゥ・イット」の文言。早くもここからしてやばいのだ。スラングで一発かます、つまり性行為ともとれるのである。テレビの1時のニュースも、人間の性の営みも、欠かすことなく世の中ではやってますってことを言っているのだ。俺は毎日やってる、あそこは元気いっぱいだぜ、ってことなのだ。前の晩はさぞお盛んだったのであろう。
この直後の文言。直訳すると「彼らは、私の心を連れ去る誰かをいつも発見する」・・・・てんでわからない。しかしよく考えてみる。するとこれもおやおやとなる。「私の心を連れ去る」?どこにだ?おそらく、これはドラッグでぶっ飛ぶことだろう。「彼ら」はドラッグのディーラーか、ドラッグをいつも一緒にやってるお仲間だろう。つまり、ディーラーかラリパッパなお友達が、今日もドラッグを調達してきてくれるんだよと言っているのだ。
その後の「ファミリー・ショー~」素直に訳すとテレビのバラエティー番組で、10部構成と読める。もちろんそれでいいのだろうが、そこはひねくれ者の私である。ここはドラッグのディーラーや語り手スティーヴ・ディグルの悪友が10人ほど、とっかえひっかえやってくるんだぜ、ともとれる。みんなして、今日もこれからドラッグをってことか。控えたほうがよろしいのではないかスティーヴ。
次の「ホワットエヴァー~」は決定的にドラッグだと判ってしまう表現である。「ターン・オフ/オン」である。ドラッグが切れる/注入してハイになるという意味になる。つまりここではドラッグが切れて気分がダウンな状態だろうがそうでなかろうが、いつだってぶち込めるぜ、いつだってハイになれるのさ、というわけだ。「理想的な心的状態だ。知覚が研ぎ澄まされるぞ」この文言はウィリアム・ブレイクの「忘れがたき幻想」の一節、いや、ハクスレーの『知覚の扉』を十分に想起させるだろう。あぶねえなあ、ほんと。
こうやってひねくれた解釈をした後でも、やはりバカバカしい歌詞だなあと思ってしまう。バカバカしくて、しようもない男の日常だ。しかしそのバカバカしさを、しようもなさを、実はやばいよなっていう内容を、こうして巧みに、且つ堂々と作品化して発表してしまうスティーヴ・ディグルはたいした男なのである。
ここはより盛り上がるライヴ録音を貼り付けておく。このストップ&ゴーを繰り返すアレンジ。メロコアを軽く10年は先取りしていると思う。
こちらはゴリラ・ビスケッツのカバー・ヴァージョン。この人たちも、よくわかっていらっしゃる。