金メダルは取れなかったけれど―999の80年代『THE BIGGEST PRIZE IN SPORT』
はじめに
今、XやYahoo!で「999 punk band」と入力してみる。これといってめぼしいものはない。999というバンドには公式のホームページがあり、ちょくちょく更新されている。バンド自体もほぼ常にライヴをしているし、ウィキペディアには堂々と独立したページが設けられているほどの―ただし日本語ではない-バンドであるはずなのに、世間に出回っている情報量は、同じ70年代パンクでもピストルズやクラッシュとは雲泥の違いである。いやもっとマイナーとされているダムドやバズコックスと比べても・・・・である。ピストルズのバイオ本はすでに80年代に、クラッシュの書籍も90年代には日本で、ダムドのバイオ本はイギリスでは87年頃には公刊されていた。バズコックスについても、バンド自体の他にメンバーのピート・シェリーやスティーヴ・ディグル個人をテーマにした本まで出ているくらいなのである。それに比して、999を直接のテーマにした出版物は私の知る限り、これまで皆無である―向こうの雑誌で稀にインタビューが組まれることはあるが、999単体での出版はない。おそらくパンク・ファンには周知のwww.77.co.uk運営の70年代パンク・バンドを扱ったホームページには、彼らについて裨益しうるヒストリーがあるし、999非公式のホームページ“FEELIN‘ ALRIGHT WITH the Crew:UNOFFICIAL 999 SITE”に載っているニック・キャッシュへのインタビューを中心にした‛Full History by Nick Cash’にも、さらにはキャプテン・オイ!からリリースされている2種類のボックス・セットに付された解説にも、貴重なエピソードが盛り込まれているとはいえ、概説的な域に留まっている。加えて、かつて紙媒体で活字化された彼らの(極めて少ない)情報は、ことごとく入手困難になっている。たとえば雑誌『DOLL』とそのムック本などである。つまり、999というバンドについての情報は、現在質・量ともにまともには手に入れることができないのである。特にメンバーの生い立ちや音楽的ルーツ。これらを知ることは、その音楽を知るうえで極めて有益―時に必須―であるのに、それらを得る手立てを、今の私は有していない。そうした制約の中で、私はこれから999のアルバムについて記そうと思う。当然極めて皮相的な内容になるだろうし、読者は不満を覚えるだろう。それでもこうして記すのは、未だ(特に日本の)メディアから真っ当に扱われず、稀に(日本で)扱われるとすれば「明るい、お気楽路線のロックンロール」で済まされるばかりであり、彼らの音楽性は巷思われているよりもはるかに豊かであることを訴えたいからである。
『THE BIGGEST PRIZE IN SPORT』と999
本稿では、『THE BIGGEST PRIZE IN SPORT』―以下、『ビガスト』と略―前後の999の活動に視点を限定して述べてみたいと思う。バンドの結成時から説き起こそうとすると、どうしても冗漫に過ぎることになるからである。依拠した資料は先に記したwww.77.co.uk運営のホームページに掲載された文章と、‛Full History by Nick Cash’である(その他の参照先は、別途脚注で記す)。先述したように、私の入手しうる999についての文献は極めて少ない。日本語文献に限定すれば絶無である。かつて999が来日した時『DOLL』で小さい特集が組まれ、別冊の『パンク天国』という本でバンド紹介の短文が載った程度であり、それらもとうに絶版である。70年代から90年代にかけて発売された彼らのシングルやアルバムに付された解説も当然、入手困難である。
1978年9月、999はメジャー・レーベルのユナイテッド・アーティスツから2枚目のアルバム『セパレーツ』を発表し、シングル・カットされた「ホムサイド」は全英チャート40位というバンド最大のヒットを記録した。ところが曲のタイトルが「殺人」という意味であったこと、歌詞の中にある“I believe in homicide”の一節が殺人を全面肯定していると解釈され、曲は放送禁止、バンドはイギリスでの一切の公共放送から締め出しを食らってしまう。ユナイテッド・アーティスツとバンドの中はぎくしゃくしだし、レコードの宣伝もまともにしてもらえなくなる。メディアの扱いも芳しくなく、『セパレーツ』はオールド・ロックの再現という書評もあった。「ホムサイド」が放送禁止になったあおりもあってアルバムはチャート入りせず、結局翌年、バンドはレーベルを離れてしまう。イギリスでの活動が制約されることになった彼らは、その打開をアメリカへ求めることになった。一部の同業者からはやっかみも含め、「アメリカに媚を売った」と非難されたが、もともと999はアメリカ指向の音楽性を有しており、かの地を目指すのは自然なことだったと言えるだろう。
ところが78年の11月、パブロ・ラブリテンが自動車事故で重傷を負い、ドラマー欠員の事態となる。急場を救ったのが999の親衛隊The Crewにいた当時17歳だったエド・ケイスであった。彼は元々運送業に勤めていてプロ・ミュージシャンとしての経験はゼロだったが、999の全レパートリーでドラムを叩けるほどのセンスを有していたのが幸いした。彼の一時的加入で999はライヴに穴をあけることなく、レーベルを失ってただでさえ台所事情の苦しかったときに、物心ともに大いに救いとなったのである。
79年に入って、999は2度にわたるアメリカ・ツアーを行い、所属レーベルという後ろ盾がない中であったにもかかわらず各地で好評を得た。そのツアーが充実したものであるのを証明するのが、2016年にリリースされた4枚組のCD『BAY AREA HOMICIDE』で、ディスク1~3が79年4月と7月に、アメリカのローカル・ラジオ局が実況録音したライヴがソースとなっている(ディスク4はラブリテン復帰後の80年3月の録音)。
ツアーでの手ごたえをつかんだバンドは、アメリカのポリドールと契約を交わす。同じポリドールでもイギリスではなくアメリカであり、イギリスのポリドールと契約を交わさなかったのは当時のバンドの、イギリスでの扱われかたが反映していたと解釈できる。事情はどうあれ、本国イギリスでレコードが出せないのは深刻であった。この時期のバンドとイギリス・メディア両者のゴタゴタが、80年代に入ってからのバンドの低迷につながる一因とみるのは、不思議ではないだろう。
79年8月、ドラマーの座はエド・ケイスのまま、新作アルバムのレコーディングを行なう。これがアルバム『ビガスト』であり、クレジットやスリーヴ写真にはパブロ・ラブリテンとエド・ケイスの両者が含まれ、5人体制と明記もされているが、実際のレコーディングはラブリテンを欠いた4人で行なわれている。レコーディングに参加していないラブリテンをもクレジットに加えたのは脱退していないのだから文句は付けられないが、聴き手に混乱を与えることになった。後になってこの時期の999はツイン・ドラム編成だと、評論家からの誤解を生んでしまったりもしたのである。プロデューサーはドクター・フィールグッドやモーターヘッドでお馴染みのヴィック・メイル。マーティン・ラシェント、スティーヴ・リリーホワイトと並ぶ、70年代以降のブリティッシュ・パンク~ニュー・ウェーヴ期を代表するレコード・プロデューサーである。
ラブリテンは79年10月から復帰。負傷から約1年かかったことになる。相当な重症であったとみるべきなのだろうが、それにしてもあまりにも長い。2006年のライヴ映像につけられたインタビューにおいても、ラブリテンが負傷した模様は語られているが、療養中のことについては、リハビリに専念していたというだけで、どうやらほとんど触れられていないようである(重要なことが語られているのかもしれないが、私のヒアリング能力がてんでダメで、インタビュー内容の大半が理解できないのである!いと悲し)。何か重大なことが、ラブリテンをめぐって起こっていたような邪推を抱かせる。結局は無事に復帰することにはなるのだが。
翌80年1月18日、アルバム『ビガスト』はアメリカのみでリリースされることになる。ラブリテン復帰もそうであったが、アルバムもレコーディングからリリースまで、約5か月という長いインターバルがある。イギリスでのアルバム配給を果たせなかったということが、このインターバルに反映されているのではないか。
アルバムは順調に売れたと、999をひいきする側の人間は評しているが、実際のところはなかなかに厳しかったと言わざるを得ないだろう。アメリカ・ビルボード誌での最高位は177位だったのであるから。売り上げ枚数はどれくらいだったのかはわからないが、アメリカで精力的なツアーをしたにもかかわらず、レコードの売上には結びつかなかったと、素直に解釈するべきだろう。そういえば、かつてデビュー・アルバムを出した時にも、彼らは精力的にツアーを展開した記録があるが、全英チャートでは53位にとどまっている。[1]
アルバム『ビガスト』がアメリカで受け入れられなかったのは、そのアルバム・コンセプトにもあったと思える。1980年はモスクワ五輪が行なわれた年である。タイトルにもあるように(最大のスポーツ大賞!)モスクワ五輪をテーマの主軸に据え、バンドのツアー生活~人々の交流とそこから発生する軋轢を描いた曲が加わってアルバムを構成する。スポーツ・イベントとバンドのツアー、どちらにも多くの人が集まって皆で楽しもうとする。もめ事も起こるがそれもまた人生のありようなのだ、もめ事が起こっても、人同士の交流を求めあうことを止めることができない、と999は歌う。ところがモスクワ五輪は旧ソ連のアフガン侵攻により、参加資格のあった88か国のうち66か国がボイコット。その中には当時999が精力的にツアーをしていたカナダとアメリカも含まれていた。ちなみにイギリスとフランスにおいては、国家としてはオリンピックに反対するも、オリンピック委員会が個人資格での参加を認めたので、国家代表としてではなく個人として参加した選手もいた。オリンピックをコンセプトに掲げたことで、アメリカの国民感情を刺激しチャート・アクションに影を落としたのではないか。さらに、イギリス・ポリドールが999と契約を結ばなかった原因の一つにも、この件が響いていたのではなかっただろうか。
999の音楽はラウドではあるがポップでキャッチ―な音とメロディを持ったロックンロールが主体である。特に『ビガスト』はこれまで以上にコマーシャリズムを意識した音作りが成され、1曲の演奏時間も3分未満のコンパクトな曲が半数を占め、残りの半数もすべて4分未満である。これはラジオでの放送を意識してのことだろう。つまりそれだけ受け入れられやすいはずなのだがチャート・アクション上で大々的に成功しなかった。ポップでキャッチ―なのに、コスモポリタン的な扱いをされない『ビガスト』。一種矛盾している状況に本作をとどめ置くのは、上記のような間の悪さが与かっていると思われる。
それだけではない。999自身の業界~社会とのかかわり方が、自ら損をするように仕向けているところもある。「ホムサイド」を巡る一件である。歌詞の一節を変えて歌うようにBBCから要請されてニック・キャッシュは突っぱね、曲は放送禁止、さらにはバンドもBBCに出入り禁止となった。このトラブルがなければ、曲はチャートで40位よりさらに上に行ったはずだ。そして当時所属していたユナイテッド・アーティスツとの関係もこの時期に悪化しなかったはずだ―パンク人気の衰退で、いずれは首を切られただろうが。[2]アルバム『セパレーツ』がチャート入りしなかったのも、当然この件が尾を引いていただろう。表現者としての矜持を守り通したことは、その後の名声に箔をつけることにはなったが、当時においては自分の首を絞めることになってしまった。「音楽は万人にあるものだ」とは、94年に来日した時に『DOLL』誌のインタビューに答えたニック・キャッシュの言葉だが、その言葉の主が率いる999の音楽が幅広く世人に受け入れられなかったことは、ある意味皮肉である。
アルバムの音楽面で損をしているとするなら、その音の質感、特にドラムにあるだろう。先にも記した通り、本作で担当しているのはエド・ケイス。そのプレイは確かに的確であり、そつがないのだが、パブロ・タブリテンのような太く、しなるようなビートと比べるとどうしても淡白に過ぎる。そこが現在インパクトに欠けるとされ、評価が低い要因なのではないか。[3]とはいえ、他のメンバーの演奏は好調を維持しており、楽曲の水準も高い。ヴィック・メイルのプロデュースは下手に音を重ねず、バンドのロウな部分を強調することに定評があるが、本作ではビートが淡白な分、ロウな要素が希薄になってしまってはいるが、簡素な音ゆえに、楽曲の良さをいっそう強調させることに成功している。
アルバムの特色を上げるなら、ガイ・デイズが積極的にヴォーカルを担当していることである。「トラブル」と「ファン・シング」ではリード・ヴォーカルを取っている。近年、特にライヴではバッキング・ヴォーカル以外では―いやそれも、とすべきか―積極的に歌わなくなってしまったガイ・デイズだが、本作では積極的に歌う。彼の声質はほとんどのリード・ヴォーカルを取るニック・キャッシュの弟であるからかよく似ており、曲によっては聴きわけが困難であり、それもあってか彼のヴォーカルについてはまるっきり取りざたされてこなかったように思う。キャッシュに比べて彼の歌いっぷりはより素直というか、癖がない。ニック・キャッシュが時として声色を意識的に変え、演劇的な要素を出して聴き手を煽る傾向があるのとは対蹠的である。ニック・キャッシュとガイ・デイズのツイン・ヴォーカル体制をこの時期に打ち出したことで、バンドの表現がより重層的になったのは事実だろう。
さらに、ニック・キャッシュが「インサイド・アウト」に「ボイラー」でギター・ソロを取っていることも触れておこう。元来、ニック・キャッシュのミュージシャンとしてのキャリアはイアン・デューリーのキルバーン&ザ・ハイローズのギタリストとして始まったのである。999のバンド・サウンドを考えたとき、ニック・キャッシュのキャリア事始めがギタリストであったことは意外に(?)重要である。バンドのスタジオレコーディング作品をつぶさに聴いていくと、ギターのちょっとしたフレーズの組み立て、特に2本のギターの絡みに腐心しているものが多い。ライヴではニック・キャッシュがヴォーカルに専念していることもしばしばであるからか、この辺も注目されることはないが、たとえば「ボーイズ・イン・ザ・ギャング」の歌中で、ニック・キャッシュが低音でリズムを刻んでいるときにガイ・デイズが高音でオブリガードを挟み込んでくるアレンジは、簡潔だが相当に考えられている。ギターが2本いるバンドならではである。近年のキャッシュのほうは、これまたライヴではギターを熱心に弾かなくなってしまっているようで残念ではある。
スリーヴ・アートワークについて触れておきたい。999のデビュー・アルバム、ならびに最初期のシングル群のスリーヴは、アート・スクール出身のニック・キャッシュの意向が存分に反映された力作ぞろいなのだが、『セパレート』以降80年代までのアートワークの大半は制作費をけちったのか、はたまた時間がなかったのか、凡庸でいただけない。『ビガスト』もまた然りである。それなのに担当がマルコム・ギャレットであるのは驚くに値する。かつてのレーベル・メイトであったバズコックスのビジュアル・アート専属担当であったギャレットをあえて採用したのは、バズコックス~ユナイテッド・アーティスツへの意趣返しともとれるが、バズコックスとの仕事のどれもが秀逸であったのに、『ビガスト』のアートワークには冴えが見られない。ギャレットにあっては、バズコックスと999との関係を慮り辞退してしかるべきところだったのに、何故この仕事を受けたのだろうか。写真に写るメンバーも、いかにも気乗りしていない様子である。ガイ・デイズに到ってはタバコを指に挟んでいたりする。アートワークについて、メンバーの発言は残っていないからどこまでも推測でしかないのだが、彼らバンドにとって不本意なものだったのではないか。
ここに貼った「ファン・シング」だが、アルバム収録ヴァ―ジョンではなく、80年のライヴから。こちらのヴァージョンの方が断然出来が良い。特に復帰したパブロ・ラブリテンの叩きだすビートは格別である。ストーンズの「ザ・ラスト・タイム」を参考にしたと思しきギター・リフに、どうしようもない人生だが生きざるを得ないとする歌詞。今となっては貴重な(?)ガイ・デイズのヴォーカル。非凡なバンドだと思う。
スリーヴは凡庸であり、ドラマーのアクシデントによるビートの淡白化、チャート・アクションは褒められたものではなく、本国イギリスでのリリースもなされなかったという具合に、制作中も世に出てからも不遇をかこった『ビガスト』だが、内容は999ならではの味がしっかり出た良作である。彼らが語られるとき、いつもきまって「アイム・アライヴ」「ナスティ・ナスティ」といった最初期のシングルやデビュー・アルバム『999』ばかりが俎上に載せられるのは片手落ちである。その後の作品群にも聴きどころはたくさんあるのである。
その後、999は本国BBCでの出入り禁止が解かれ、あらためてイギリスでの活動に力を入れるべく、自ら所属するマネージメント会社アルビオンが興したアルビオン・レーベルとも契約して再びヴィック・メイルのプロデュースの元、4枚目のアルバム制作に乗り出すが、80年代の999はパンク・ムーヴメントの退潮~ニューロマンティクスの台頭で、さらに苦しい道のりを歩むことになる。
[1] この時の販促の仕方に不備があったのか、それとも別の理由-注2を参照―があったのか定かではない。
[2] 当時、すでにパンク・ムーヴメントは下火になっており、所属するパンク系アーティストを切るべく、レーベル・メイト同士であったバズコックスとのチャート争い―厳密にはつぶし合い―を、それぞれのレコード発売の時期をバッティングさせることで、ユナイテッド・アーティスツがけしかけていたふしが多分にある。「ホムサイド」を出した時点ですでに大勢はバズコックスの勝利に決まっており、ユナイテッド・アーティスツは近々に999を切ろうとしていたのでは、とは私の勝手な見立てである。ただ、もしこの時点で「ホムサイド」が大ヒットとなっていたら、999との契約はさらに延長された可能性はあるだろう。
[3] Trouser Press, Retrieved 23 December 2023. Trouser Pressの評論によると、『ビガスト』は「トレブリーで精彩に欠ける」とされているが、精彩に欠けるはともかく、AMラジオは概して音がこもりがちであり、999側としてはトレブリーな音にすることで中和を計ろうとしたと解釈することもできる。