アートとデザイン
長い間クリエイターをやってきて
50年近くもクリエイティブを発揮する時のスタンスというか
心持ちのことで思い巡らせ考えてきたわけです。
長く生きてきてたくさん考えてきた人の意見や所感の方が
まだ若い人たちのそれと違って正しいんだ!
ということは決してなくてね。
物事の考え方に正義の制約を押し付けることはむしろ悪だと思っています。
ただ一つ言えることは
長い間考えてきたことの経緯で起こる本質の変容や
その推移自体が真実であり正義だったんだということを
長く生きてきたからこそ俯瞰できるのではないか、ということです。
つまり、その時々で感じてたことやぶつかっていたことは
全て間違いではなかったし
若いも熟練も関係なくその時々に踏ん張ってることは正しいこと。
でも、それを俯瞰して観れるかどうかの能力は長く踏ん張った人の方が上手いんじゃないかということなんですね。
だってこれは仕方ないんです。
これこそかけてきた時間が大事な経験というものなんですから。w
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10代の初めの頃から曲を書いていました。
もちろん音楽で食っていくということを夢見ていたわけなんですが
僕には才能がありながらも(笑)、その当時の
「歌謡ポップスを作らないとデビューできません」という
大人たちの商業ハラスメントに辟易していたんですね。
とはいえ、僕の作る音楽はポップスでありロックだったわけです。
まったくの商業音楽ではあるんですが、
でもその中でも「既存のヒット曲の◯◯風じゃないとダメ」という
大人たちの常識はとても窮屈で、
もっと僕のポップスやロックで表現してもいいんじゃないですかね?
というアーティスト寄りの承認欲求が強かったんだと思います。
もう業界の評価を聞いたりコンテストに応募するのはやめて、
アルバムを作ってライブして、
僕がいいと思えるものをいいと言ってくれる人たちだけを
とことん相手にしていてもいいんじゃないか。
そんな風に思ったら音楽活動が楽になって
楽曲のオリジナリティも爆発するし、
女子高生や女子大生にもチヤホヤされるし(笑)、
クリエイティビティ・シップがとても充実した感覚になれましたからね。
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京都・恵文社のギャラリースペースで絵画展をやった時もそうでした。
ひょんなきっかけで絵画展をやることになって絵を描いたのですが
基本的にこういう絵画というものは自己完結していい世界の創造物なので、全てが僕の「アーティスト」としての側面で満たしていい世界なんですね。
会場に感想を書いてもらうためのスケッチブックを置いていたんですが
褒めてくれたり気に入ってくれたりする言葉の中には
僕のことを知らない人が発する悪口や
その人の感じた否定的な言葉が書かれてたりするんですよね。
まあ今でいうクソなヤフコメ民みたいなものです。w
反対意見や誹謗中傷も受け止めて参考にしたほうがいいよ、という
誰かが言ってたような一見正しいかのような言葉を吐く奴もいましたが
果たしてそうでしょうか?
別に絵で生きてゆこうと思ってないし、
思ってたとしてもこの場の絵画は「アーティスト」としての発露の場だし、
僕が絵の仕事を得るためのポートフォリオでは決してない
湧き出る創作欲求に従った世界を創ったものですから、
そういう反対意見が参考になることは一生ないんですよね。
反対意見は全く読めないように全て真っ黒に塗りつぶしましたけどね。笑
心地よくない言葉は僕のクリエイトに
何のいい影響も与えてくれませんからね。
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デザイナーになった若かりし当初は、
まさに「アーティスト」としての自分を発揮していればいい
というようなスタートだったので、
これこそ僕の天職かと思うような仕事で満ち溢れていたんですが、
広告や企業の広報関係のデザインをやり始めた時はものすごくショックでした。
だって僕の個性なんか必要ないんだよっていう担当者と
常に仕事をしないといけない世界があるなんて
それまでのデザイナー人生では全く思いも寄らなかったですから。笑
でもそんな世界で仕事をするうちに、
僕にお願いしたいと思ってくれる担当者を増やしていって、
僕の「クリエイティビティ」が
成果物に与える影響を認めてもらえるようなケースを増やしていって、
何とかクリエイティビティ・スピリッツを少しでも満足させながら
頑張れるようにはなっていってました。
それでも、僕の「アーティスト」としての才能はこんなものじゃない!って思うような場面がたくさんあって、
しんどい思いをたくさんしてきたのを思い出します。w
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僕は自分の「アーティスト」としての才能を
100%発揮することは出来ないクリエイトを生業として生きてます。
中には本当にクリエイティブとは言い難い丁稚仕事もありますが、
それも僕の仕事の範疇でのことなので全く卑屈になるものではありません。
それでも僕の中の「アーティスト」としての才能やセンスは
間違いなくどんな仕事にも役立ってるし、
それによって生み出される成果物に
揺るぎない個性と影響を与えることを証明もしてきました。
なので、「アーティスト」としての承認欲求も、
長く生きてきた過程で十分に示してこれたし傍受もしてきたと思えるので、
そこを求めて傷つくということはもうあまりなくなりました。
それは、長く生きてきたからこそ辿り着けた場所のような気もしています。
そして、長く生きてきて感じること。
音楽エピソードでの
「歌謡ポップスじゃないとダメだよという世の中への不快」や、
絵画エピソードでの
「思うままに描いた世界をわざわざ否定する奴らの存在への不快」、
広告業界エピソードでの
「デザイナーの個性なんて必要ないんだよということが成立する代理店界隈への不快」を振り返った時、
やっぱり時代や背景が変わっても、
僕のクリエイトにおいて貫いて感じてきたことは
全て同質のものだったんだなという俯瞰と、
その時々で思ってたことは全部
その時の自分にとっては正しかったんだということです。
それでも、改めて感じること。
僕の「アーティスト」部分は、
世の中へ間違った歩み寄りのために
否定されたり滅却されたりすることはあっても、
相反するものではない、ということなんです。
相反する時代もあったとは思います。
反してないと自分じゃないと感じる時代もあったかも知れません。
でも長く生きて長くクリエイトをしてきた今だから感じることは、
今はどんなに自由で束縛なく
自分の生み出したい欲求に従った作品だとしても、
それをクリエイトしてる時は、
この作品をいいねーって共感してくれたり
気持ち良くなってくれる人がいるだろうということを
想像しながら創ってますからね。
「アーティストの作るもの=世の中とは無関係の作品」
ではないよな、と思っているのですね。
最近は特にそうですね。
自分が何者なのかを証明しなければ生きてゆけない
という段階ではとうになくなっている僕が、
何を指針としてクリエイトをしてゆくのか。
それは、それこそが、
「誰かが喜んでくれるんじゃないか」という視点から派生し、
僕のセンスや力量を通してのみ生み出される
「アート」的なデザイン・ワークなのではないかと思うのですね。
辛かった若かりし頃の制約や評価が実は全てこの
「誰かが喜んでくれるんじゃないか」という視点につながっているのだと思うんですよね。
結局上手く落ちてないけど。
考えがまとまらずに書き始めるからこうなるんだよな。。。ww
まあ、察してください。
言いたい感じの本質を。ww (他力! 笑)
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