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ハッピー立春!『ハチドリゴミ拾い部』始めます。
2月、バンクーバーも雪な日々です。
日本も大寒波、みなさん足元気をつけてお過ごしくださいね。
なぜ、ゴミ拾い?
ギブネスを研究し始めた数年前、ゴミ拾いの深さに気づいてから
時々ゴミ拾い活動していたのですが…
ゴミ拾いって、やればやるほど、深いんですよな…。
「ゴミ拾い=福拾い」っていう
「ご利益」的なことにとどまらず
やるたびに、マインドフルネス、仏教、ギブネスetc…
なんだかあらゆる方面からの気づきが、ズドーンと。
そしてね
海外(私はカナダなうですが)は、
日本と違って、本当にゴミが落ちてる。
街でも、通りでも、公園でも、学校の校庭でも。
タバコのポイ捨てとかもはや、
「タバコはハーブやから自然に還るやろ」と思ってるっぽい。
「場(自分の領地であってもなくても)を清らかに保つ」
「たつとり あとをにごさず」
っていうのは、日本特有の文化だとしみじみ思います。
最近、わたしの言霊&日本叡智の師匠
大江 亞紀香さんとお話する機会があり
「リーダーこそ、自らゴミを拾っている」
「ゴミ拾いを、世界的な文化にしたい」と話していて。
「やっぱりいいなーゴミ拾い🎶」と
思いたったが吉日立春ってなわけで。
『ゆる部』として、一緒に参加してくれる人募集します♡
【ハチドリゴミ拾い部 参加方法】
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「いいやん!」と思ったらあなたは部員。↑のロゴ画像をダウンロードしてね♡
グループもイベントもありません。いつどこでやるかは自由♡
「部活」したら、ゴミちゃんから得た気づきをロゴ画像&「#ハチドリゴミ拾い部」と一緒に投稿♡
「マイトング」に名前をつけたら、さらに楽しい♡
ただいまの支部長たち…
東京🗼 大江 亞紀香さん
神戸⚓️ パン長
NY🗽 おざわひとみさん
NYブルックリン🗽 Juniちゃん
シアトル☕️ ナギちゃま
ドイツ🌿 堀岡朋子ちゃん
オーストラリア🐨 Coburnあこちゃん
まあ、部長も平社員もないDAO集団なんやけど…
名乗りあげてくだされば、
あなたがあなたの街のブチョーです🎶
さ、ご一緒に♡
ゴミ拾い部への想い
ギブネスとゴミ拾いの関係性
「捨てた人が拾う」でもなく
「お金もらってるから拾う」でもなく
「ただ 拾う」。
「命がひとつながり」であったならば
目の前に落ちてる「誰か」が捨てたゴミは
「わたし」が捨てたもの、とも言える。
だから、わたしが拾う。
わたしと、わたしとひとつながりの命のために拾う。
ギブネス的な世界で言うと、そもそも
「お金」を含むすべてのリソースは「無限」にあるのだから
ただ、自分を開いておけばいい。
「これをやった」から「これをあげる」
という、1対1の「交換」における
「誰が誰にあげる」「いついつまでにあげる」
と言う「枠」をはずして
ただ森羅万象の一部として、在り、為るだけ。
でね それって、
「ゴミ」も一緒ちゃうん。
って思ったんですよ。
「ゴミ」もまた「リソース」であり「みんなのもの」。
だから、ただ わたしが 拾う。
世界のゴミも、思考のゴミも、ただ拾って捨てる
昔は(今も時々)腹立ってたですよ。
「あ!タバコポイ捨てしやがって〜!!
拾って首の後ろにジュッてしたろか!!」
とか 思ってたですよ。(せえへんけど)
今でも、あまりにも通りにゴミが多いもんで
「なんでやろ…悲しいなぁ…」
とか 思うんですよ。
捨てる人の心の中の 昏い闇。
捨てられるゴミという存在が孕む 悲しみ。
でもね…
「それ思う暇あったら、拾おか」
に切り替えると
あら不思議、ただただ爽やかなんですよ。
「あ、ゴミがある」
→拾う→捨てるべき場所に捨てる。
それだけ。
これって マインドも同じで
わたし達は「ひとつながりの命」だから
アカシックレコード、素粒子、阿頼耶識、
なんでもいいけど、すべてを「共有」してる。
だから、目の前のゴミをただ拾うように、
浮かび上がってきた「思考のゴミ」(恨み妬み嫉みetc…)も
ただ拾って、ゴミ箱に入れてあげる。
まるでそれは
海水からプラッチックの粒を一粒一粒取り除くみたいな
果てしない作業だ。
でも ただやる。
誰のために?
自分のために。
=自分とひとつながりの命のために。
ゴミ拾いは「慈悲喜捨瞑想」である(仮)
※実験寺院 寳幢寺の松浪龍源さんに教えてもらった
「慈悲喜捨」の瞑想は、以下の四つを無限に願い、
その願う心を行動に移していくというもの。
「→」以降は、ゴミ拾いと照らし合わせると、なわたし的解釈。
「慈」
わたしと わたしのひとつながりのすべての命が
ともに より幸せを 安楽を得られますように。
→
すべての命は、役割を持って生まれてきた。
それは、目の前のゴミも同じ。
人の手によって命をさずかり
人の役に立つことで
そのモノ自身も「幸せ」を感じていた瞬間があった。
「悲」
わたしと わたしのひとつながりのすべての命が
ともに 苦しみと悲しみを減らしていけますように。
→
が、今は「もういらない」「役に立たない」
=ゴミとして、道端に捨てられている。
誰も見向きもしないどころか
「あーゴミだ、やだな」とか思われてる。
行き場もなく死ぬこともできないその存在ごと
拾う。
そしてあるべき場所(今の所ゴミ箱かリサイクルではあるが)
に返してあげる。
「喜」
わたしと わたしのひとつながりのすべての命が
ともに 他者の喜びを自分の喜びとし
自分の喜びが他者の喜びと繋がりますように。
→
ゴミの一つ一つが感じさせてくれる
「慈しみ」と「悲しみ」を
ただただ味わう。
人でもモノでも、すべての命が
「喜び」と共に生き
「喜び」と共に死んでいくには
どうしたらいいのかな。
「捨」
わたしと わたしのひとつながりのすべての命が
ともに 苦しみを生み出し 喜びを消し去る原因となる
自己や自説にこだわる執着の心を 捨て去ることができますように
→
ただ拾う。
「わたしが拾ってんだから、捨てんなよ」
とも思わず、ただ拾う
「アホやな、無駄なことを」
と思う人がいてもいいし
「オモロイやん、うちもやるわ」
と思う人がいたら なおいい。
ただ わたしの喜びのために拾う。
わたしとひとつながりの命の喜びのために 拾う。
ちなみにこれ、
「ゴミ」のところを「人」と置き換えることもできて…
(長くなるのでそれはまた)
まあそれにしても こんなにもゴミが生まれすぎてしまう
この世界の仕組み、我々の意識に根本的な原因があるよなあ…
...という「思考」もまた、
ただ現れたら拾っていく(=祈りと行動)のです。
愛より愛コメ
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