ナポリタンのお店

Dec. 6, 2021

ついに引っ越し。住み慣れた部屋を離れるのは少し寂しいけど、愛着があるというわけでもなかった。単に生活がこの部屋とともにあっただけで、特別な思い出もないような気がする。自分でも薄情だと思う。でも、誰を迎え入れるでもなく99%の時間を一人で過ごした部屋というのはそういうものだと思っている。何というか、僕にとって一人で過ごすというのは、時間が存在していないのとほとんど同じことなのだ。時間が存在していないのなら、特別な感情を抱くことだってないし、その必要がない。

朝早くから引っ越しは始まったが、荷物の移動が終わり、転入届の申請を済ませた頃にはお昼になっていた。洗濯物がたまっていたので、取り付けたての洗濯機を動かす。心なしか出てくる水が澄んでみえる。

洗濯している間に荷解きを始める。いくつかの段ボールを開けてみて今日中に片付けるのは無理そうだなと思う。几帳面なくせにガサツなところもある自分だから、一つの段ボールに本、キッチン用品、電化製品、服なんかをごちゃごちゃしたまま入れている。そのくせ段ボールの一つ一つに「本」だとか「夏服①」だとか丁寧にメモを残しているものだから笑えてくる。「夏服②」はない。

とりあえず洗濯物を部屋干しして、気持ちをリフレッシュさせるために買い物に出かけることにする。濃いこげ茶色の木材でできた平屋のお店に入ってみる。そこには品のいいグラスと陶磁器のカップやお皿が並んでいて、入ってすぐ左手で若い女性二人が商品をまじまじと見つめていた。僕がお茶碗を見ている間に二人はレジの方に向かったのだが、一人はレジの中に入っていく。

二人とも客だと思っていて、ちょっと驚いて二人に背を向けた。でも驚いたのは女性がレジに入ったということではなくて、店員は男性だろうとどうしてか思い込んでいたのに気づいたからだ。照明の薄暗い店内で、こだわりの品を並べていて、職人気質のセレクトショップの店員は男性。そうだと決め込んでいる自分が恥ずかしくなって、二人の女性から逃げたくなった。

先入観の強い自分を卑下しながらもやはりお腹は減ってくるもので、孤独のグルメの五郎ちゃんも顔負けの勢いで昼食が食べられるお店を探すことにした。

はじめは歩ける範囲で店に目星をつけていったのだけれど、観光地周辺を歩いていたこともあって少し値段が高い。引っ越しのせいで懐に不安があるしどうしようかと悩んでいたところで、電車の定期圏内の駅に定食屋があったのを思い出した。そこはどうも一日中定食を出している様子だったので、午後3時をまわっていたが大丈夫だろうと思い、電車に乗った。

こういうときって、大丈夫だろうと思ったらたいていその反対のことが起こる。自分の人生だもの、それくらい分かってる。お店の前まできて、まず窓が開いていないことに気づき、続いて貼り紙があるのを発見した。本日は休業とさせて頂きます。

ここにきて一気に疲れが汗のようににじみ出てきた。朝からチョコレートくらいしか口にしていないし、早起きだっただけに、体も夕方の気を緩めるタイミングをうかがっているようだった。こういうときはスマートフォンの出番。資本主義に嫌気がさしていてもすでに手にしてしまった文明の利器は使いこなさなくてはならない。

以前グーグルマップでチェックをつけていたお店が近くにあることを確認。几帳面にチェックしたところをピンで残していたところは自分を褒めたい。でも褒めるよりも先に食べることを優先する。一心不乱に歩いて、お店の前まで来た。

外から見ると、店内は誰もいないようだった。いつもの自分なら躊躇するのだけれど、お腹がすいているので迷わずドアを開ける。店内はL字型になっていた。入り口から死角のところにおじいさんが座っており、お店のおばちゃんと話し込んでいた。僕は少し離れたところに座り、ナポリタンとコーヒーのセットを注文した。

吉本ばななの『ハードボイルド/ハードラック』をバッグから取り出し、最初の数ページを読んだところでサラダとお水が運ばれてきた。それには手をつけずにさらに10ページほど読み進めたところで、今度はナポリタンが運ばれてきた。ケチャップ色のソースにパスタの薄いクリーム色が透けて見える。玉ねぎと手指の関節ほどに切られたソーセージが入っていて、昔ながらのナポリタンだと思った。

おじいさんはおばちゃんに対して絶えず何かを話し続けていたが、うっすらと内容を聞きながらも僕はナポリタンを食べることに集中していた。僕が半分ほど食べたところで、おじいさんは次に行くところがあるからと店を後にした。そうすると店内はおばちゃんと僕の二人きりになった。静かになったのに少し安心して、残りの半分も味わって食べた。

食べ終わったタイミングでおばちゃんがコーヒーを運んできてくれた。コーヒーの味は少し苦くて、特別でない喫茶店のそれだった。僕にはそのことがとても心地よく思えた。おばちゃんは小さな音量でテレビをつけて、僕は本の続きに戻った。

30分ほど本を読んだ時点で、外が暗くなり始めていたのでお会計を済ませることにした。僕が上着を羽織ろうとしているのを見ておばちゃんがレジの方に向かっていた。目が合ったのでありがとうございますと言うと、少し僕の顔を眺めて、
「前に来たことがありますか。」
と尋ねてきた。
「はじめてですね。」
「あらそう。前に似たような雰囲気の人が来たような気がするんだけど。」
「そうなんですね。」
「でも、サウスポーですよね。」
サウスポーという言葉が、すでに使い古されたものにもかかわらず新鮮に聞こえた。左利きの男の子、というくくりで以前に来た別の誰かのことを覚えているのだろう。

なおもおばちゃんは首を傾げている。
「最近引っ越してきたんです。荷物がぐちゃぐちゃで片付いていないので、家にいるのは落ち着かないんです。」
「あらあ、そうなのね。早く落ち着くといいわね。」
続けてこう言った。
「ここは田舎でしょう。何というか、下町。」
「ええ、いいところですね。」
と返した。下町、と言ったときのおばちゃんはマスクの上からでも分かるような笑顔だった。

特別じゃないナポリタンは、今日から僕のお気に入り。

ありがとうございますと言って店を出て、新居まで下町の景色を眺めながら帰った。

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