愛おしい児童文学 トムは真夜中の庭で
子どもの頃も、大人になったいまも、ずっと児童文学が好きです。
お気に入りの多くは、子どもの頃からなんども読んでいる物語ですが、大人になってからやっと出会った作品もあります。
そのひとつが、『トムは真夜中の庭で』です。
フィリパ・ピアースの作品で、1958年のイギリスで発表されました。
あらすじは・・
物語の大部分は、トムとハティが無邪気に遊ぶ描写ですが、次第にトムの疑問がふくらんでいきます。「なぜ夜になると庭園があらわれるんだろう?」「なぜ他の人は知らないの?」「どうしてあちらでぼくの姿に気づくのはハティだけなんだろう?」そして、ハティと庭園の生きる世界が、ずっと昔の出来事であることを発見するのです。
ハティにこう聞くのはトムです。ですが、ハティはこう答えます。
つまり、ハティからしたらトムこそ幽霊だし、トムからしたらハティや庭園に生きる人々は「過去の幽霊」なんです。
ですが、「どちらが幽霊?」という話ではないんです。どちらも生きている。
トムは、弟のはしかが治ってついに帰ってくるように言われるまで、毎晩庭園へ出かけます。そしてついに帰る日を翌日にひかえた最後の夜、どうしてか、庭園につながるはずのドアを開けても、嫌な匂いのするアパートの裏庭があるばかりでした。庭園に行けなくなってしまったトムは、さめざめとアパートの玄関で泣きました。そして「ハティ!」と叫びます。
そのあとの、ハティとの再会。
私が子どものころこの物語に入り込めなかったのは、年月とともに子ども時代を失ったハティの気持ちが、あのころはわからなかったからかもしれません。
幼少期時代の親友が、そのままの姿で胸に飛び込んで、両腕でつよく抱きしめてくれる。
変わってしまった時代のなか、ひとりで暮らしていたハティの心はどれほど震えたことだろう。庭園の夢が生きていたことを知って、どれほどの喜びが胸に満ちただろう。
庭園をメタファーとして読み解くこともできるかもしれないけれど、わたしはそのまま、土地の記憶の永続性、場所のたましいのようなものが描かれていると読むのがすきです。
年をとったハティの見た夢は、いまを生きるトムと共有され、ふたりはふたりとも子どもとして、一緒に庭園で遊んだ。その出来事は、「庭園」は決してうしなわれないこと、をあらわすのではないかと思うのです。
ハティはいいます。
ハティの育った広大な邸宅が、果樹園が、牧場が、子どもたちがすみずみまで自分のものにしていた庭園が、時代とともに切り分けられて売られてしまう。木は切られ、芝生はめくられ、そのうえには小さな家が建てられる。それぞれの家には、新たに住み着いた家族の笑顔があるかもしれないけれど、ゆたかに走りまわる子どもたちの姿はもう見られない。「何もかも変わってしまう」と気づいたときのハティの心は、邸宅が売りに出されたとき、すべてを手に入れたハティの行動があらわしているでしょう。変わってしまうけど、なるべく、ゆっくり。
それでも、庭園と子どもたちの夢は、階段をかけあがったトムのように、ハティのもとに戻ってきました。
東京に生まれ育ったわたしは、庭園をしりません。遊び場といえば、当時住んでいた祖母の家の、ぐるりにある狭くてうっそうとした庭(庭というより、すきま)。トムとハティが遊んだ庭園とは似ても似つかぬものですが、それでも子どものころは虫をとったり塀にのぼったりしてさんざん遊んだものでした。
いまの日本には「庭園」から想像される広大な敷地など、叶わないのかもしれません。
ですが、この物語に出会ってから、わたしの心のなかに「庭園」が生きはじめたのを感じます。
こんなことは、むずかしいかもしれないけど・・
わたしは、自分の子どもに庭園を与えてやりたい。裸足で走りまわるやわらかい土を、登り、ともに大きくなるための木々を、さわやかな木陰を、せせらぎの聞こえる小川を、鶏を、山羊を、熟れた杏やりんごを。
ハティの庭園で遊んだトムのように、あたらしい世代が、ゆたかな庭園を走りはじめる。そんな世界を創造できるのかもしれない。夢から現実へ、起こすことができるかもしれない。
児童文学を読む時間は、子どものわたしと大人のわたしが、「いま」に一緒になれる時間。
大人になっても、親になっても、愛おしい物語を心に持ちつづけていたい。これは、そう思わせてくれるわたしの大切なお話です。
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