この旅の先で
実家から最寄駅に向かう、朝8時前。
通っている音楽専門学校の全時間割のなかで最も難しくて、最も好きなのが、水曜日の1限だ。
徹夜で修正した楽譜を全員分印刷し、授業開始と共に演奏が出来るように準備しておく。
いつもより早い時間に歩く見慣れた町は、私の心を映したように、不安定で、煌めいている。
家から徒歩1分の必ず通る小さな公園は、小学生の頃に水風船を投げ合う遊びをした場所だ。
私は絶望的に体を動かすことにおいての才能が無く、よく水風船を投げても相手に届かず地面にベシャッと落としてしまっていた。
ドッジボールが主な遊びだった当時、運動神経が良かった友人達はよく私と遊んでいてくれたなあ、と、切なくなる。
あの頃遊んだ子達はまだ眠っている時間だろうか。
大学生になって、美しい恋をしているだろうか。
やりたいことを見つけただろうか。
いつも引っかかる信号のすぐ側には、ビビッドなオレンジ色の建物がある。
小さい頃に何の施設なのか想像してワクワクしたこともあったが、後に美容室だと知った時は、少しガッカリした。
今日も青い空がよく似合っている。
朝日と傾いた影がくっきりとした線で隔たる中で、足早に駅へと赴くサラリーマンと、身体を引き摺るように歩く作業服の男がすれ違う。
ふと、進路について話し合った時の友人の言葉がよぎる。
「私は君みたいに、例え全てを失っても音楽を続けたいとは思わない」
それが当たり前だとでも言うかのように吐き捨てた彼女が、心底羨ましかった。
こんなに心から好きなことを諦めても構わないほど、手元に置いておきたいものなんてあるのだろうか。
皆んなはそんな大切なものを普通に持っていて、私が持っていないだけなのだろうか。
あの日の言葉を言わなければ、あいつを許すことが出来ていれば、私も持っていただろうか。
いいや、そんなことよりも、「お前の事が理解できない」と突き放された気がして寂しかった。
いいや、そんなことよりも、「お前なんかの音楽は金にならないから、いずれ何もかも失う」と侮辱された気がして腹が立った。
いいや、本当は、似た悩みを語り合って、もっとあの子の近くに立ってみたいだけだった。
朝から暗いことを考えてしまった自分と、強い日差しに目を細めながら顔を上げると、信号はとっくに青に変わっていた。
慌てて歩き出した横断歩道の真ん中で、しかめっ面の私と、真っ直ぐな瞳をした自転車の学生がすれ違う。
セーラー服も、ブレザーも、プリーツスカートも、かつては全てが煩わしかったのに。
今日という日もいつの日か、愛おしく感じるのだろうか。
その時、できれば隣に居てほしい顔を思い浮かべながら、今日も私は駅へと向かった。
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