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映画「E.T.」に見る語学学習

今日は、ちょっと英語教員らしいことを書こうと思う。

先週末、30年ぶりぐらいに映画「E.T.」を観た。同年代(私は今、50代だ)の人は、この映画が公開当時、爆発的なヒットだったことは覚えていると思う。以前、授業で教科書にスピルバーグの話が出てきた時、生徒にこの映画の話をした。「町の中で知らない人に人差し指を出したら、相手も間違いなく人差し指を出してくれる」ぐらい流行ったんだ、と言うと生徒は「そんなことはないだろう」と鼻で笑っていたが。

孤独な少年エリオットとE.T.の心の交流がストレートに心に染みる名作だが、今回改めて見て、全く新しい気づきがあった。それは、E.T.が英語を習得していく過程である。いきなり固い話になるが、現行の学習指導要領では英語の授業の言語活動においては「目的」「場面」「状況」を設定することが大切、とされている。つまり、「何のために話すのか」「誰に伝えるのか」等を想定しないと活動の成果があがりにくい、ということだ。
全く英語が喋れなかったE.T.にとって、言語習得の目的ははっきりしている。「早くおうちに帰りたい、と伝えたい」のである。

E.T.が「おうちに帰る」手段を見つけようとしていることが、本作では当初観客に対して明示されない。何となく、のんびり過ごしているように見えるのだ。しかし、徐々に彼の願いが明らかになっていく。E.T.はセサミストリートを観ながら「B」「Good」と口真似をしてガーティ(エリオットの妹)に驚かれるのだが、同時にこの場面で「電話」の存在を発見し、「これでおうちにメッセージを送れるかもしれない」とさらに具体的なゴールを見出していく。ガーティはおそらく小さな先生になった気分でE.T.の「学習指導」をするのだが、ガーティにほめられることでE.T.の学習が加速度的に進んでいくのも、教員としては見逃せない。

コミュニケーションが深まる場面として象徴的なのはE.T.がエリオットの名前を呼び、さらに自らのことを「E.T.」と呼ぶ場面である。実は初対面の時にエリオットは一生懸命自己紹介してE.T.の気を引こうとするのだが、言葉が通じないE.T.は反応しなかった。(心中察するに、相当なフラストレーションが溜まっていただろう。異文化の環境に投げ出された人間と同じである。)互いを名前で呼び合うことは親密なコミュニケーションの始まりだ、という当たり前のこともこの映画は教えてくれる。

E.T.はついに「E.T. phone home」と発することに成功し、エリオット達の助けを借りて「おうちに帰る」という目的を達成する。しかし、彼はそれだけではなく、でエリオットとの別れのつらさ、感謝の気持ちを片言の英語で表現する。エリオットとただ抱き合うだけでも気持ちは通じたかもしれない。しかし、E.T.はやはりエリオットやガーティが教えてくれた「言葉」で伝えたかったのだと思う。そしてそれはエリオット達が住む世界・文化への彼なりの敬意の示し方だったのだと感じる。

現在、AIが加速度的に進化し、言語学習不要論まで出てくるようになった。私たちは何のために英語を教えているのか。異星で懸命にコミュニケーションをとろうとするE.T.を見て、改めて考えた週末だった。


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