映画『HELLO WORLD』ラストを本気で考察してみよう<中編>:浮かび上がるカタガキナオミ10年の軌跡
(ネタバレあり)映画『HELLO WORLD』は、「ハイスピード青春ラブストーリー」と銘打っでいるだけあって、中盤から突然どんでん返しの応酬に翻弄され、特に衝撃のラストシーンは頭が混乱した方も多いのではないでしょうか(初見で全部理解できた方は誇りに思ってよいと思いますw)。しかしここからがこの映画の真骨頂、本当に楽しい部分のはじまりです。初見で「分かった気になる」タイプの映画では味わえない、考察の楽しみ、背伸びして見えてくる世界の広がり。
あのラストシーンは、いったいどういうことだったのか?
早速、「ガチ考察」してみたいと思います。
※2020.7.26追記あり
<前編>では「おさらい」として、この作品の世界観といくつかの「典型的な解釈」を簡単に紹介しました。映画を観てよくわからなかったけど手っ取り早く頭を整理したい、という方はこちらをお勧めします。
この<中編>では自分なりの考察と、なぜそう考えたか、をがっつり書いていきます。少々マニアックな記事になりますが、考察本体を読みたい方はこちらだけを読んで頂いても全くかまいません。
さらに<後編>では、もうひとつの有力な解釈に対する自分のスタンスを展開します。そして考察するうえで避けては通れないスピンオフ『HELLO WORLD if』についても私論を試みます。
なお、この記事は自説が正解であると主張したり、別解釈を貶めたり否定したりする意図はまったくないことをどうかご理解ください。いくつかの点においてはこれらの説のほうが魅力的だったり整合性が取れていたりしますし、もしかすると真実はこちらなのかもしれません。
自説が正しいと主張するための記事でもありません。あくまで、自分はこう考えてみました、という試論を忘れないうちに書き留めたものにすぎません。間違いや矛盾も沢山存在するだろうと思っています。
結局は個人の数だけ「正解」があって、そしてこれをきっかけにあなただけの解釈をぜひ考えて頂ければ望外の喜びです。
なお、本記事は当然ながら映画本編のネタバレを含みます。ご注意下さい。スピンオフ『ANOTHER WORLD』、『HELLO WORLD if』未見の方にも配慮していますが、履修済みだとより楽しめるかも知れません(スピンオフ情報はこちら)。
はじめに:月面のナオミはいつ脳死になったのか?
映画のラストシーン、月面基地らしい部屋で目覚めたナオミ。どうもこの世界においては、脳死になっていたのは実はナオミであり、月行さん(「月面世界の一行さん」のことを、ネット上のファンの間で生まれた呼称に従って、以下こう呼びますw)がそれを助けようとしていたようです。病室や月面基地の描写、月行さんの大人な佇まいから、この世界がB世界(2037年)より遥かに科学技術が発達した未来世界であることが示唆されます。少なくとも2037年から10年程度は経っていそうです(*1)。
では、月面ナオミはいつから脳死状態になっていたのだろうか?
<前編>ではこの問いに対し、よく見かける典型的な解釈として「2027年脳死説」と「2037年脳死説」を紹介しました。高校生の時に(一行さんではなく)直実が脳死になったという2027年脳死説と、劇中と同じように大人になって一行さんを救った後に脳死になったという2037年脳死説。どちらも説得力のある説です。
自分はどちらの説もありうると思っていますし、もっと言えばこれ以外の説も十分にアリです。ただ、プロット内での整合性、登場人物の行動原理、また自分自身の嗜好も加味して考えると、ナオミの脳死時期は
2037年7月「以降」、
つまり「一行さんが脳死から目覚めた後」
という解釈が有力かな、と個人的には考えています。
これは「2037年脳死説」の一種に相当します。ただし2037年に限定する必要はない、2038年だっていい。なので、以下では「203X年脳死説」と呼ぶことにします。実は一般的な2037年脳死説には本質的にいくつかの矛盾点があるのですが、それらについても説明がつく解が得られたかな、と思っています。ただし完全無欠ではありません(未解決問題およびなぜ「2027年脳死説」を採用しなかったか、については<後編>で触れます)。
この<中編>では、いくつかの前提をもとに、なぜこの解釈に至ったかについて、自分なりの考察を展開してみたいと思います。
また、同時にこの記事では思考のプロセスをあえて記述することで、考察の楽しさみたいなものを少しでも伝えられたらと思っています。作品の中の事実から仮説を組み立て、それを検証し、矛盾が出てきたらまたそれを説明する仮説を考える、というのは本当に楽しい作業でした。そのワクワク感や、ひたすら考えた先にカチリとピースが嵌った時の高揚感を何とか伝えたい。結論だけをただ伝えるような記事にはしたくないというのがいまの正直な気持ちです。その分、読みにくい点は何卒ご容赦下さい。
(その楽しさを少しでも伝えるために「会話形式」の記事も試してみましたが、見事に爆死しました……。ただ、この記事にはある意味、試行錯誤している最中の自分の「生の心の動き」が一番現れているような気はします)
(注意)本稿の解釈が公式設定と一致していない可能性は「大いに」ありますのでくれぐれもご注意下さい。スピンオフなどを見るとむしろ「2027年脳死説」が公式設定である可能性もかなり高いと踏んでいますし、全く新しい第三の説である可能性も十分にあります。制作陣の意図が今後明かされることはないでしょう。しかしだからこそこのような自由な解釈の余地を残してくれていることに感謝しつつ、あえてここでは独自解釈を試みます。
アルタラは「現実世界の複写」である
まず、A世界(2027年の直実の世界)、B世界(2037年のナオミの世界)、C世界(以下、月面の世界を便宜的にC世界と呼びます)の関係について再確認します。
ここではアルタラという装置の性質をかんがみて、「B世界はC世界(月面世界)の(ほぼ)完全な複写である」という大前提に立ちます(ただし厳密にはこの解釈は正解とは言い切れないところがあります(*2))。この作品の世界は入れ子構造になっており、直実のいるA世界もまたB世界のほぼ完全な複写だったことを思い出すと、これは自然な解釈であると考えられます。
とすると、C世界は少なくとも2037年まではB世界と同様の歴史を刻んでおり、C世界のナオミもまたB世界のナオミと同じ半生を歩んできたことになります。
「器」と「中身」の同調とはどういうことか
もう一つの前提は、ナオミが蘇生するには「器と中身の同調が必要」であり「精神を事故当時の状況に近づける必要がある」というものです。これは、朝霧橋での先生の台詞やラストシーンの一行さんの台詞を裏付けとしています。
より具体的に言うと、B世界から連れてこられたナオミの量子精神(中身)と、C世界で脳死になった瞬間のナオミの物理脳神経(器)の状態が非常に近い状態でなければならない(*3)。ここでいう「近い」は、「ほぼ同じ人生経験とメンタリティを有している」ということだと自分は解釈しました。その瞬間の心情はもちろん、それを形作る彼自身の経歴、年齢等も含めて近い状態。この考え方に立つと、C世界のナオミはやはりB世界とほぼ同じ半生を歩んできた、すなわち高校時代に一行さんの落雷事故を経験し、『ANOTHER WORLD』で描かれる壮絶な10年間を経て、一行さんを救うために全てを捧げてきたと考えられます。また、この立場では203X年説の亜種である「2037年まで何も起こらなかった説」も否定されます。
ナオミ脳死の経緯は「あえて描かない」というスタンス
続いて気になるのは、ナオミは「なぜ」脳死になったのかという点です。劇中には全く手がかりがありません。これまでにネット上で見たことがあるのは、
・何度もダイブしたことによる後遺症
・量子変換にまつわる何らかの事故にあった
・京都駅ビル大階段から落ちそうになった一行さんを庇って落ちた
・既に月面基地で働いていて、何らかの事故に遭った
……などの説ですが、いずれも推測の域を出ないのは確かです。
これについては自分は、
この映画は「ナオミの脳死の経緯はあえて描かない」というスタンスを取っている。なぜなら、それは物語の本質ではないから。
という見方をしています。
ナオミの脳死を描いてしまうと、完全に物語の軸がブレます。そっちに観客の意識が行ってしまう。主人公の直実を差し置いて、映画全体の感動をナオミと月行さんが持って行ってしまう。なぜならそれこそがこの物語の発端であり、大変強い力を持ちうるエピソードだからです。もはやこの映画のセントラルクエスチョンは「ナオミを助けること」に置き換わってしまう。そして相対的に、A世界やB世界での直実の冒険活劇の意味は薄まり、ナオミを助けるためのサブプロットに過ぎなくなってしまう。
そうであってはいけない。あくまでこの物語の主人公は直実で。
それぞれの世界に優劣はない。A世界もB世界も現実世界のためのサブプロットなんかではなく、等価な存在としてあまねく肯定されていなければいけない。
それが『HELLO WORLD』という作品における基本的な目線だと思うのです。
だからこそ映画は脳死の原因を描かず、代わりに観客の想像力に委ねているのではないでしょうか。実際、伊藤監督は
”「大人ナオミがなぜ眠っているのか」という問題が関わってきていて。そこに関しては受け手の想像に委ねるという形をとっている”
——『HELLO WORLD』伊藤智彦監督BD&DVD発売記念インタビュー | アニメイトタイムズ
と述べており、綿密に設定しつつも物語を成立させるためのミニマムなロジックだけを提示するからあとは想像よろしく、という本作品のスタンスが見て取れます。
ここから先はあまりに自由度が高すぎて手も足も出ません。もはやそれは考察というより二次創作の領域に足を踏み入れることになってしまい、この記事の扱う範囲を超えるからです。可能な限り妄想を廃して映画本編の要素を足がかりとするというタイプの人間にとっては、思考停止するしかないのです。語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。
ただし確実に言えることがひとつだけあります。「貴方は大切な人のために動いた」——月行さんの言葉です。少なくとも「大切な人のために動く」という精神状態において脳死になっている。それが具体的にどのようなシチュエーションなのかは完全に想像するしかないですが、ナオミはB世界と同じように壮絶な努力をして一行さんを救ったはずなので、その時の精神状態そのものなのかもしれませんし、あるいは全く描かれていない何らかのイベントが別にあったのかもしれません。
※2019/7/25追記:あえてこの自由度の中で「月面で脳死になった」説についてちょっと考えてみました。顛末をこの記事の末尾に追記しています。
203X年脳死説のパラドックス——月面ナオミは「どこ」にダイブしていたのか?
203X年脳死説は、A世界はB世界の複写、B世界はC世界の複写…というとてもシンプルな構成をしています。初見時にこの解釈にたどりついた人も結構いるのではないかと思います。
しかし、よく考えるとそこには一つの矛盾があることに気付きます。
C世界のナオミは一行さんを蘇生させるためにB世界に介入したはずです。
なのに。
B世界において、高校生の直実の前には「10年後の自分」なんてものは現れなかった。
B世界の直実は独力で一行さんと恋人同士になり、その直後に落雷で一行さんを失っています。最強マニュアルもグッドデザインも存在しなかった。だからこそ、B世界で大人になったナオミは自分が記録世界にいるとは夢にも思わなかったに違いありません。
じゃあ、いったい、C世界のナオミは一体「どこ」から一行さんの量子精神を奪ってきたのだろう、というパラドックス。
もしかすると直実に一切会わずにこっそり一行さんをさらってきたのかもしれませんが、それができるならB世界のナオミもA世界に対して同じことをするはずです。それに、B世界の一行さんは実際には誰にも連れ去られずに落雷に遭ってしまっている。
このパラドックスがずっと頭の中で引っかかっていたのですが、この図を書いている時、突然、ひとつの成立解が見えました。ナオミの行動原理を考えたら、至極当然の簡単な話だった。なぜ気付かなかったんだろう。
C世界のナオミは、無事に一行さんを蘇生させたあと、次に何を行うと思いますか?
……C世界のナオミとB世界のナオミが同じであるならば。同じメンタリティを持っているならば。
蘇生の次に、彼は。
同じことを行うはずだ。
つまり、アルタラのリカバリを行うはずだ。
劇中のナオミと同じように、記録世界での3ヶ月を思い出して彼の手はきっと一瞬ためらいを見せるでしょう。でも、ナオミはきっと「Y」ボタンを押すはずです。この解釈は「現実世界の複写」だからこその帰結です。B世界のナオミがやったんだから、C世界のナオミもやっているはず、という必然性。
その結果、何が起こるか。
C世界は真の「現実世界」(いわゆる「基底現実」)である、と解釈すると(*4)、劇中のB世界で起きたようなカタストロフィは起こりえません。C世界は記録世界ではないのだから、狐面が現れて一行さんを襲撃することはないのです。誰も邪魔をすることのないリカバリは淡々と進みます。B世界の直実は、絶望のうちにリカバリによって消滅するでしょう。金のカラスは助けに来ません。2階層上の世界なんて存在しないのだから。京都の街が、世界が、みんなきれいさっぱり消えます。
そしてリカバリが完了したアルタラは再稼働を開始します。再構築された記録世界の京都が、なにごともなかったかのように動き出します。
「2周目」のB世界が、開始するのです。
2周目のB世界の直実の前には、10年後の自分は現れません。だってC世界の一行さんはもう蘇生しているから。この2周目のB世界こそが、きっと劇中のナオミの世界線なのだ、と考えるとすべてのピースが収まります。
リカバリに巻き込まれて消える直実を考えるといたたまれない、と思う人も多いでしょう。でも劇中のナオミがやろうとしていたことはまさしくこれであって、この冷酷な結末が事実であってもおかしくない、と思っています。ちなみに「202X年脳死説」に基づくスピンオフ『HELLO WORLD if』でも「記録世界のリセマラ」は繰り返されているはずで、恐らくこの救いのない筋書きはアルタラを人の蘇生に使う際には避けられないのかもしれません。
なぜナオミが蘇生したのが204X年だったのか?
実は、B世界がリカバリ後の2周目だったと考えることで、なぜナオミが蘇生したのが204X年だったのか、の説明もついてしまいます。
一行さんを蘇生できるだけの技術が2037年に現存したのであれば、その後ナオミが倒れた時にも同じことをやればすぐに蘇生できたはず。2040年代まで待つ必要もないはずです。もちろん、ナオミが秘密裏に開発していた量子変換技術に一行さんやアルタラセンターのスタッフが気づいてキャッチアップするにはそれなりの時間は必要だったでしょうが、ナオミの技術力を遥かに凌駕する千古さんの助けがあればそう難しいことでもなかったはずなんです。
でもそのとき、アルタラがリカバリの真っ最中で、それが完了するまで待つ必要があった、とすれば。
映画の劇中において、アルタラのリカバリは手動作業に80時間、復旧が完了するには「その1,000倍」の時間がかかる、と語られています。80時間の千倍とはどれほどの時間なのか。
80,000時間。
3,333日間。
つまり、9.13年。
9年以上ものあいだアルタラが使えなくなるという冷酷な事実を、この数字は端的に示しています。
正直言うと実は、自分はこの試算の意味するものが腑に落ちません。もっと言うなら、信じていません。リカバリを決断するときの千古さんやセンターのスタッフの様子が、とてもそんな風には見えなかったからです。どう見てもあのノリは、せいぜい数ヶ月の作業です(原作では「数千時間」と書かれていて、それならば良く分かるんです)。産官学の巨大プロジェクトが9年間も「一時中断」するなんていうことが許されるのか? いやそれ以前にセンターの研究員にとって、アルタラが復旧するまでの9年間は研究者生命を完全に断たれる、絶望にも等しい年月なのではないか? たとえばですよ。あなたの仕事の対象(モノでも、システムでも、サービスでも)を、9年間完全にストップさせるかどうか今ここで決断してくれと言われた時、はたしてあなたはあのノリで決断できますか?
しかしこのあまりに非現実的な数字は、ナオミの蘇生時期を考えると辻褄が合ってしまうのです。2037年に開始したリカバリが完了するのは2046年。個人的には全くしっくり来ない数字なのですが、数字上はリカバリが実行されたことの強力な傍証となってしまうんですよね。月行さんはすぐにでもナオミを蘇生させたかったに違いない。けど、肝心のアルタラから再びデータを取り出せるようになるまでに9年も待つ必要があった、のかもしれない。もしそれが本当であれば、センターの研究員だけでなく月行さんにとってもつらい忍耐の時間だったはずです。あまり信じたくない気はしますが……。
これが「203X脳死説」の最終形態だ
以上の議論をまとめると、自分の解釈(203X年脳死説)は下記の図のようになります。B世界の1周目のレーンが増え、作品中で描写されていたB世界は「2周目」であることに注目して下さい(クリックで拡大)。
ざっくりまとめると、以下のようになります。
・月面世界のナオミはB世界と同じように瑠璃を落雷で失い、10年間の苦労を経てアルタラを利用し蘇生に成功した。
・ナオミはその後アルタラ(B世界)をリカバリするが、何らかの理由により脳死に陥った。これが203X年頃。
・B世界はリカバリされ「2周目」が始まった。これが映画本編のB世界。
レーンが1本増えることで、オッカムの剃刀的にはかえって複雑になりすぎたのでは?という意見もあるかもしれません。しかし、できるだけ想像をまじえずに「アルタラは複写である」という原則だけから必然的にリカバリの存在を導くことができるという意味では、そこそこ説得力がある解釈かなと思っています。
アニメ評論家の藤津亮太さんはSFマガジン2020年2月号『アニメもんのSF散歩』第32回において、本説とほぼ同様の2037年脳死説に沿った解釈を4ページにわたって丁寧に論じておられます。リカバリや「2周目」については触れられていませんが、基本的な構造や月行さんの介入の仕方について非常に説得力のある論が展開されています(上記の図の一部に藤津さんオリジナル解釈も書き入れてみました)。
なお、冒頭でも書きましたが、自分の解釈にはきっと色々な穴や矛盾も残っているだろうし、公式設定と一致していない可能性はかなり高いです。これを読んだあなたがもし別の解釈を思いついたなら、どうかそれを大切にしてください。人の数だけ解釈がありうるのが『HELLO WORLD』という作品なんです。
さて、いよいよ<後編>では、もうひとつの有力解釈である「2027年脳死説」をどう考えるか、スピンオフ『HELLO WORLD if』をどう解釈するか、そして「203X年脳死説」に依然として残っている謎についても語っていきます!
* * *
追記(2020.7.26):ナオミは月面で脳死になったという説はありうるか
ナオミの死因や時期については、話の軸がブレるからあえて語らないようにしているのだろう、という推測については既に述べました。自分のこのスタンス自体は今でも変わりません。しかし、最近やり取りさせて頂いているやすきさんという方の考察記事を拝見したところ、それまで正直「どんな状況やねん」と思っていた「月面で脳死になった説」が俄然輝きを放つようになってきたんです。
この方はなんとうちのnoteに触発されて考察記事を書いて下さったそうで、本当にありがたくnoter冥利に尽きますし、しかも自分の<後編>で引用していたグレッグ・イーガンの解説がこの方の昔のブログだったという偶然も相まって、不思議な縁を感じながらじっくりと読ませて頂きました。その中に
一行ルリが、アルタラ2の開発チームの中核メンバーであり、その強い希望があったとしても、脳死状態の人間を地球の重力圏から脱出させ、生きているだけで膨大なコストがかかる月面で面倒を見てくれるとは到底思えない。
なので、考えられるのは、B世界でナオミが行ったように、自分の努力でアルタラチームに入り、月面でミッションを遂行してた。その中の事故で、脳死状態になってしまった、と考えるのが妥当ではないだろうか。
という指摘があり、これに妙に説得力を感じてしまったんですよね。これが正解とまでは言い切れないにしても、確かにありうると思わせてくれる新説。
確かに、いくら宇宙開発が進んでいて、たとえ海外旅行並の感覚で月面に行けるようになっていたとしても、脳死の人間を家族の元から離して月に連れて行くというのは技術的にも心情的にもかなりのおおごとです(*5)。
また、月面世界の発展の度合いから考えても2037年には月はかなり開発されていた可能性が高く、国際記録機構が月に拠点を持っているとすると、アルタラセンターのトップ技術者が派遣されてもおかしくありません。何より、上述した「リカバリ中の空白の9年間」という違和感があっさり解消してしまう。リカバリのせいで9年間アルタラが使えない間は、アルタラセンターの人的・金銭的リソースを月面での作業につぎ込めばよく、センター職員も高いモチベーションを維持できます(京都のアルタラはどうなったのか…月に持っていったのか、月は月で新たに作ったのか、それなら京都アルタラのリカバリが終わるまで蘇生を待つ必要ないんじゃないかとか、謎は残りますが…)。
元来のSF好きで、月に手を伸ばしたけど届かないなんていう幼少時のエピソードも原作にあるナオミは、月に派遣と聞いたらかなりテンション上がって一も二もなく承諾するでしょうし、一行さんも高所恐怖症とは言え、持ち前の冒険小説好きと宇宙への憧れ(*6)を胸に、冒険を「二人でやってみましょうか」と思って一緒に月へ向かった…というシナリオは確かにありそうです(この時点で一行さんが既に国際記録機構の一員なのか、それとも単に恋人についていっただけなのかはわかりませんが)。そのまま想像力を飛ばすと、月面で何か危険な出来事があり、ナオミが身を挺して一行さんを守ろうとして(「大切な人のために動い」て)、脳死になってしまった、という流れが想起されます。二人がどうやって月に行きそこで何が起こったのかについては想像の範囲を超えますが、とてもエモい物語がいくらでも生み出せそうな素地があります。
この説で未解決の点を挙げるとすれば、まず脳死になった時点でのナオミの人生経験や精神状態は果たして同調条件を満たすのか、月面行きという大きな出来事を経験することによってだいぶ差異が出てきてしまうのではないかということ。それから、蘇生したナオミが月面での記憶を持っておらず、せっかくの二人の月世界冒険譚がナオミから失われるかもしれないことへの哀しみ、でしょうか。まあこのあたりは蘇生が量子精神の上書きインストールなのか、昔の記憶も残って混在するのか、によりますね。後者だとすると、C世界の一行さんとの冒険譚とB世界での直実との共闘の記憶という、本来なら同時に起こりえない二つの時間軸の記憶を両方保持しながら生きていくナオミ、というこれまたエモーショナルな物語が爆誕します。
真相はわかりません。地球で脳死になった可能性はいまだ十二分に残っています。しかしひとつの思考実験として、「月面脳死説」は決して荒唐無稽でもない。むしろリカバリ時間の違和感を払拭し、かつたくさんの物語を生み出すポテンシャルのある解釈として、こりゃなかなか面白いぞ、と思うわけです。そんな気づきを与えて下さったやすきさんに感謝します。
* * *
*1:BDのビジュアルコメンタリーで伊藤監督が月行さんを「三十はてな歳の一行さん」と称していることから、ここではC世界は2040年代だろうと考えています。ただし自分としてはそれを決めつけるつもりはなく、遠未来という解釈もありうると思っています。なお、『HELLO WORLD if』では、C世界を明確に「2047年」と設定しているようです。
*2:これは、アルタラが「現実世界の完全な複写」であるというナオミの台詞に基づくものですが、実はあまりここに論拠をおくべきではないのかもしれない、と最近思いつつあります。例えば
アルタラが記憶装置というのも、あくまで子供の直実の世界での話ですから。
——『HELLO WORLD』伊藤智彦監督BD&DVD発売記念インタビュー | アニメイトタイムズ
全く同じでないといけないなどとは、誰も言っていない。
——野﨑まど『遥か 遥か先』
という部分は一つのヒントを与えてくれます。あるいはA世界とB世界のわずかな差異(直実の出身中学校の名前、直実のクラスの違いなど)からも、確かに「完全な複写」ではないということは窺い知ることができます。
*3:物理脳神経と量子精神を「器」と「中身」と見なして別個に扱う本作品は、完全に心身二元論に基づいています。この考え方は最新の脳科学の知見では主流ではないため、この心身二元論自体を疑うという立場もあり、その場合はまた別の解釈になりえます。
*4:月面シーンだけを手描き作画にすることで、C世界が基底現実であるらしいとそれとなく示す演出となっており、伊藤監督からもそのような演出意図が語られています。とはいえ、それが唯一解と言い切らないようにしているところは感じられ(実際、脚本初稿は月面すらも記録世界かもしれない可能性を匂わすものだったようですし、スピンオフ『遥か 遥か先』などにもその片鱗が感じられます)、アルタラ二重螺旋説などの優れた考察を育む余地となっています。本稿ではオーソドックスにC世界=基底現実、という解釈です。
*5:「脳死の人間を月面に運ぶのが非現実的すぎる」というあたりを、説得力とエモさをもって描くのに成功している二次作品として、sshさんの『月世界旅行』があったりします。(かきまぜぼうさんの『HELLO NEW WORLD』所収。この本に収録されている作品はどれも大変クオリティが高くお勧めです)。
*6:一行さんのスマホケースは土星がモチーフになっていました。またどこかの舞台挨拶で「一行さんは宇宙に憧れがある」という話があったと聞いています(自分は未確認)。
* * *
「スキ」(♡)頂けると励みになります!
(noteのアカウントなくても匿名で押せます)
* * *
壁打ち状態なので、「スキ」(♡ボタン)やコメント頂けるとものすごく喜びます(アカウントがなくてもスキできます)