君を忘れても僕は連れてくよ——『ヘブンバーンズレッド』の雑な感想と幻覚強めの妄想(2章まで)
(2章までのネタバレあり)別にゲーマーってわけじゃないんだけどゲームは本質的に結構好きです。そんな中で今かなりハマってるのが『ヘブンバーンズレッド』(以下「ヘブバン」)、Keyの麻枝准さんとWFSが手がけるスマホ用RPGです。
ゲーム内のとあるキーワードが「Hello world」であると知って、この文字列をフィーチャーする作品にハズレはない!という確信でプレイを開始した次第なのですが(同タイトルの映画を観たきっかけもそれでした)、「いい予感」は当たるもので、ゲームもシナリオも世界観もかなりぶっ刺さりましたのでここに早口オタク駄文を書き連ねる次第です。
特に、Nalさん(@nal_rtd)とやすきさん(@yasuki)の感想記事が実に秀逸で、他の方の妄想から自分の妄想が誘発されるという幸せな体験をさせて頂きました。自分の言いたいことをかなり代弁して下さっているので、本格考察などはお二人の記事にお任せすることとして、この記事はそこに乗っかる感じで金魚のフンのようについていきながら、ゲームシステムから幻覚までどうでもよいことを書き殴ろうと思います。雑然とした内容ですみません。
実は麻枝准さん作品をちゃんとプレイするのは初だったりします。葉鍵板なんてものがあった時代に情報は山ほど流れてきたしボカロカバーもヘビロテしてたから断片的には触れていたんですが、今回あらためてプレイして、シナリオと曲を同時に手がけることの強みを思い知らされました。Key作品に慣れた方からすると何を今さらという内容かもしれませんがご容赦下さい。
なお、以下の点に注意してお読み下さい。
この記事は基本的にメインシナリオ2章ラストまでのネタバレを含んでいます。3章以降の内容には触れていません。今頃2章までの感想? って言われそうですがゆるゆるプレイなのですいません
記事の最後のおまけ(イベント「この星に紡ぐ一手」の感想)だけは当該イベントのネタバレが一部含まれていますので、未プレイの方はそこは読み飛ばして下さい。
自分はメインシナリオ3章までとリリース以降「この星に紡ぐ一手」までのイベントをクリアしていますが、交流やメモリーストーリーはコンプできていません(2022/4/28現在)。
ここに書いた解釈はあくまで自分の幻覚強めの妄想であり、正しさを主張するつもりは一切ありません。いわゆる「冷奴」(深読みしすぎ)です。次章以降の展開によってはまったく的外れな内容になって手のひら返すかもしれません。というかたぶん公式はこんな頭のおかしいこと考えてないと思います。ただの幻覚です。あるいは1000万回既出の話です
今のところ茅森と蒼井と司令官推しです
怒濤のテキストと場を締めるツッコミ役
プレイ開始してまず圧倒されるのはADV並のテキスト量。キービジュアルの主人公の儚げな第一印象は「ギャイアグレイーイボドドドゥドオー!」あたりで完全に打ち砕かれてすっかり術中にはまります。
だーまえさんゲームでは常識なんでしょうけど、泣きゲーとしてのKey作品の魅力は言うまでもないとして、それを引き立てている日常パートに神が宿っていることに注目したい。茅森とユッキーの掛け合いが自分は好きで好きで、序盤は完全に掛け合い見たさにプレイしてました。
ユッキーは数少ないツッコミキャラですが、彼女がいることで場が締まるし、シナリオも本来の方向に転がるし、登場人物でありながら一種のゲームマスターの役割を果たしてる気がします(人を呼んでくる部分でボケが2人揃うと話が明後日の方向にぶっ飛んで終わるw これはこれで好きですが)。このテンションがずっと失速せずに続くのはすごいけど、だからこそ泣きパートがグッとくるのかなと思う。こいつらの掛け合いをずっと聞いていたいって思うからこそ。
ヘブバンの天丼ギャグのテンポはテキストタップに最適化されてるように思います。特にAUTOで再生してる時のテンポの良さが神懸かってて、BGMのタイミングも含めて完全に制御されてる感。
そして繰り返されるB'z・ミスチル・小室ネタ、古いTV番組やアニメ・漫画のタイトルといい、おタマさんの正統な2ch用語(あえて5chではなく)といい、平成史を生き抜いてきた世代を完全に狙い撃ちしているとしか思えない小ネタの挟み方。ニヤニヤが止まらない。圧倒的なシナリオ量もテキストサイトで鍛えられた世代としては屁でもないけど、若い方々はどう思ってるのだろう。ちょっと気になるw
細部の作り込みもすごすぎて、かなり前の選択肢が後々で効いてきたり、背景で時々聞こえてくる会話に深い意味があったり、やり込み要素が半端ない。全部回収したくなってきます。
あとはシナリオと戦闘のリンクが半端ないですね。2章ラスボスとか最たるものですが、ちゃんとキャラのスキルとか行動とかがシナリオ上必然性のあるものになっている。交流でのバトルも明らかに交流内容に合わせて敵の強さなどが調整されている感じがします。そして訓練システムがゲームとしても劇中の訓練そのものとしてもめちゃくちゃよくできている! あれだけ複雑で1回聞いただけだとわからない作戦を、ちゃんと本番を模擬しつつ順序立てて段階的に訓練させる能力…説明台詞スキップする勢でも無理なくついてこさせる能力…こんな訓練プログラムを数日で計画できる司令部有能すぎるし、チュートリアルとしても完璧でした。
プレイヤー世界と電子軍人手帳
自分はメタフェチであり、何ならこの世はゲーム内世界だといいなと思っている人間なので(上位世界のプレイヤーさん、早く課金してくれませんか)、Nalさんの記事の「高次元=プレイヤーのいる現実世界」説を全面的に支持したくなるのですが、勝手な根拠の一つとして電子軍人手帳の描写を挙げたいと思います。
プレイヤーにとっての電子軍人手帳は、設定や部隊編成などの主要画面が集まったUIです。この画面、
ダンジョン中でもシナリオ中でもワンタップでサッと取り出せる
閉じるボタンがなく、手帳の外にフォーカスすることによりしまえる
ほぼ実物大でご丁寧に指まで描かれてることで強烈に「手に持ってる感」が生じる(しかもフレームから見切れているあたりのリアルさ)
ホーム、ダンジョン等の画面から手帳画面に「遷移」するのではなく、それらの画面は背景として見え続けている
これが本当にスマホを取り出してまたしまう感覚そのもので、触っていてすごく作品世界への没入感があるんですよね。完全にプレイヤーの操作がシームレスに茅森の動作に直結していて、「あ、これゲームだった」っていう現実世界のレイヤを意識させない。ゲームUI論は完全に素人ですが、ものすごく秀逸なUIだと思っていて無駄に出し入れしています。
つまり電子軍人手帳はゲームシステム上も作品設定上も、文字通りプレイヤーの世界と作品世界をつなぐインタフェースなのではないかと感じています。セラフ召喚のためのプロトコルが「電子軍人手帳を天にかざし、セラフィムコードを口にする」ということはまさにセラフ召喚が作品世界から現実世界への働きかけそのものであることの証左なのかも、と勝手に妄想してます。そもそも「天にかざす」のも、上位存在にコンタクトするときに天を仰ぐのってお約束じゃんっていう……。
画面内の「ガチャ」がわりと異彩を放っていますが、これ、ひぐみんが「セラフマッチングシステム」として手帳からも体験できるようにしてくれた機能なんですよね。ゲームとしてのスタイルガチャ(キャラではなく実質セラフのガチャ)は作品世界内では「セラフマッチングシステム」として、そして部隊編成機能は他部隊の人間を招聘できる「プロフェッサー制度」として捉えると、ゲーム内システムと世界設定が無理なくリンクする気がします。
戦うプレイヤーと物語への介入
麻枝准さんのツイートを追っていたら以下のような発言がありました。
これ、大英断だったと個人的に思ってます。
最近のソシャゲはだいたいプレイヤーがプロデューサーだったりマネージャーだったりトレーナーだったり提督だったり先生だったりしがちで、それはそれで良いシステムなんだけど、どうしてもキャラに対して二人称視点でしか接しない没個性存在ハーレムになりがちです。まあ、育成モノには向いてるんですが。
それに対してヘブバンはADV要素が強いので、一人称視点で自ら戦闘に立ったり仲間たちと交流していくほうが合ってる気はします。もしこれが、手塚司令官の立場で隊員を指揮するゲームだったら……ううむ、個人的にはちょっとやってみたい気はしますが、確かに書きにくいだろうなと思いますw
そもそもゲームというものは「直接介入できる物語」であることが最大の長所のひとつだと思っているのですが、介入先が指揮官ではなく兵士になることでただでさえシナリオとのリンク度合いが高いバトルの臨場感が爆上がりしますし、一兵卒が戦場で感じる「切なさ」がダイレクトに伝わってきます。茅森はよくある没個性な主人公とは正反対の存在なのに、プレイヤーの分身としてまるで違和感を感じないのはシナリオの力でしょうか。
あとプレイヤーがセラフ隊員の一人でしかなくなり、かつ女の子になったことで、不自然なハーレム現象やいわゆる絆シナリオでの権力勾配がなくなり、対等な立場で絆を深められるようになったのがすごく良い。風呂パートが健全なのは最大の恩恵の一つじゃないでしょうかw
ちなみに茅森はプレイヤーが直接介入できる存在であることにより、ゲームシステム上、他の隊員とは違う要素が多々あります。選択肢があるのはもちろん、ホーム画面に出てくるとか、記憶の修復ができるとか、ソウルは猫から買うとか(しかも猫、かなりふっかけてくる)。ゲームシステムとシナリオの結びつきが強い本作なので、もしかすると茅森は他のセラフ部隊とは違う何か特別な存在なのかもなと邪推しています。セラフが2つに分かれている唯一の隊員ということでひぐみんも興味を持っていたし。
「あたしの伝説はこれから始まる」が茅森のセラフィムコードですが、いつかこの物語における茅森の役割が明らかになったとき、きっとこれが大きな意味を持つんじゃないかなと楽しみにしています。
目覚めと眠りと保存記録
この辺りから妄想が強くなってきます。
身も蓋もないことを書きますが、ヘブバン世界の人類はもう滅亡しているのではないかとうすうす感じています。メインストーリーは、そんな人類の最後のあがきの記憶、あるいはすべてが終わったあとの記録なのではないかと。なにしろ楽曲の歌詞といい、「終わる世界と入隊式」「星の墓標」などのタイトルといい、不穏すぎるんです。
「ホーム」の茅森が、現在の姿なのかなあ。人が変わったように無口になって、どれほどの惨劇を見てきたのか。「記憶の庭」にいるノイズまみれの隊員たちが「記憶」にすぎないことは、Nalさんややすきさんの記事からもほぼ確実だろうと思います。物理的・電子的な「記録」なのか、心象風景的な「記憶」なのかはわかりませんが、ノイズのモチーフとそれを「記憶の欠片」により「修復」するという行為は、彼女達がすでに記憶の中にしか存在しないことを示しているのではないかと。
この印象は、「記憶の迷宮」の英語訳が ”Subconscious Archives”であることを知ってますます強くなりました。
そう、これは「アーカイブ」なのだ。
シナリオスキップ時の「キュルキュル音」(テープを早回しするような音)も、Nalさんたちも推測しているとおり過去の記録を再生しているという演出ではないかと思っています。何度でも何度でも繰り返すループモノとしての側面もあるのかな(「すべてが記録である」というのは本質的に好きなコンセプトです)。キュルキュル音は「過去をたどる」画面でも聞こえますね。オーバードライブ発動中の画面上下に入るノイズもビデオテープの早送りノイズっぽいなーと思ってますが、これはこじつけかも。
この「ホーム=現在」と「メインシナリオ・記憶の庭=過去の記録」との分離は徹底されていて、たとえば普段プレイヤーが一番よく使うと思われるアリーナ周回に直行するメニューがホームにはありません。わざわざ「便利機能」から「最新のフリータイムへ」を選択し、さらにフリータイム内でアリーナまで移動しなければなりません。あくまでアリーナは過去の世界にしかないものだからホームからは隠蔽して、あえてこのような不便な作りにしているのではないか? 面白いのは、クローズドベータテスト(CBT)時点でのホーム画面には直接「フリータイムへ」というメニューがあるんですよね。CBTを経てわざわざホームから消して「便利機能」なんていう取って付けたような名前のメニュー内に押し込んで、1タップ増やしてるんです。今後他の便利機能が追加されることを見越してかもしれませんが、なんかちょっと不思議です。
そして、この「現在」と「過去の記録」の間の遷移を象徴的に表すのが「眠りと目覚め」のモチーフだと思っています。
OP曲のタイトルは ”Before I Rise”
ED曲のタイトルは ”After You Sleep”
ホームから各DAYにアクセスすると、いつも目覚めの顔で始まり、寝顔で終わる
プロローグ(入隊式)は、2章DAY25の回想(夢)から目覚めるところから始まる
ホームの茅森は目を瞑り、眠っているようにも見える
「ぐるぐる同じところ 回って気付いたらまた朝だ」(Burn My Universe)
”Before I Rise”で始まり、”After You Sleep”で終わるシナリオ。目覚めの顔で始まり、寝顔で終わる1日。
つまりホームにいる現在の茅森、あるいは現在の人類は「眠った状態」であり、過去の各DAYを再生することは「目覚め」として認識され、そこで戦ったり色々な経験をして再び「眠りにつく」ことにより現在(ホーム)に戻るのではないかなーと思っています。ホームで「眠った状態」なのはアーカイブだからであって、記録が再生される=目覚める、ということなのかもしれません。
シナリオ内の茅森は寝るたびに意識がホームに戻っているのかもですね(実際ゲームシステム上はそうなっています)。2章のDAY25の夜明け前、茅森は猫の声に起こされますが、寝ている=ホームにいる状態だからこそホームの住人である黒猫が干渉できたのかも。
散逸する記憶と旅する死者
さて、2章ラストで衝撃の事実が発覚したナービィですよ……。もうナービィ広場とかに平常心で行けないわけですが、だいたい普通に基地内の誰も不思議に思ってない時点で、リアリティラインとして異質だと思ってたんですよね……。なんなんですかね……。蒼井……(だいたい基地内に葬儀場があるって何……)。
セラフ隊員は死ぬとナービィになるのか、それとも最初からセラフ隊員が人間じゃなくてナービィだったのか、については2章の時点でははっきりしません。ナービィ化はキャンサーの攻撃の結果なのか、人類のとった対抗手段なのかもわかりません。
ただ、確実に言えるのは。
人はナービィになると、すべてを忘れていく。
この美しくも残酷な設定が、ヘブバンという作品の「最上の、切なさ」の根底にあるような気がしています。
かけがえのない日々の記憶も、永遠に続くことを願ってたボケとツッコミの応酬すらも、いつかナービィになって忘れていく。そういう散逸し、消えていく記憶、忘れられていく想い、そういうものを少しでもかき集めて修復して、たとえ人類が滅亡しても自分だけは絶対に忘れない、いや、たとえ忘れてしまっても守っていくんだ、そういうしんどいゲームなのかなと勝手に思いこんでプレイしています……暗い人間なんです…
ということで以下では、歌詞をベースにいろいろ妄想してみます。キーワードは「忘れる」「旅」「冬」の3つです。
まず、歌詞に頻出する「忘れる」というワード。
ここから先は完全に妄想オブ妄想なので話半分に聴いて欲しいのですが、熱力学第二法則によればこの宇宙のエントロピーは増大し続けます。これを極限まで推し進めた状態として「宇宙の熱的死」という概念があります。宇宙の「乱雑さ」が増して均一になり、すべての情報が散逸してホワイトノイズになり、一切の変化が消失し、絶対零度に近い状態になると言われています(専門家でないのでよくわかってません。間違ってたら教えて下さい。ならないと言ってる人もいるので、まあそういう概念があるんだなくらいに考えてください)。
ヘブバン宇宙は、自然の理によってか外的要因によってかはわかりませんが、この熱的死に近い状態に向かおうとしてるのかなーと根拠のない妄想しています。生命体、特に知的生命体というものは一般にエントロピー増大則に抗う存在ですが、それを捕食するのが「宇宙のガン細胞」キャンサー。楽曲中の「風が止まった、風車も止まった…」などの描写や、後述しますがやたらと冬の到来を匂わせる歌詞、そして記憶も情報も散逸し、ひとが生きた証も失われようとしている宇宙。それがあらゆる熱や運動が消えた宇宙の熱的死の光景とどうしてもダブって見えるのです(この辺り、”Everlasting Night”の「千の夜を彷徨うよ」とか”Burn My Universe”の「虚数の海」などのワードから、ちょっと『百億の昼と千億の夜』を思い出したりしています)。
まあ熱的死はさすがにこじつけな気はしますが、ともかく人類は滅亡する前に自らの営みをアーカイブ化したのかなーとか思ってます。
もう一つのキーワードと勝手に思っているのが「旅」や「船」。「船になって運んでゆく」「星を目指しどこまでもゆく 僕ら旅人」「旅という生き物」「僕は連れてくよ」というあたり、アーカイブを宇宙船の形で飛ばしたとか(グレッグ・イーガンの作品でいう「ポリス」的な)や、旅する生き物=ナービィ自体がヒトが旅に耐えるための器であるというトンデモ解釈もありかな。人工冬眠の比喩である可能性も考えましたが、ヒト形態のままだとキャンサーに狙われそうだし、意識・記憶だけ記憶の庭に格納して、肉体をナービィに改造したor肉体を捨て去った(ナービィに記憶を植え付けると受肉できるのかもしれない)とか。あるいは虚数の海とか高次元宇宙を征く旅なのか。
墓標としての方舟に人類の記憶を乗せて、いつか復活することに一縷の望みを賭けて。そんな話という幻覚。
もしかしたらそのアーカイブさえも何らかの理由で傷ついているのかもしれなくて、記憶の庭のひとたちはノイズにまみれている。それを「記憶の欠片」で「修復」してそこに「意味と理由を探し歩」いているのが茅森なのかな。
そして、そう遠くない将来に冬が訪れること、冬への備えが必要なことを匂わす歌詞。
もしかするとEDの一面の麦畑は「実りの季節」の象徴なのかもしれません。人類の最後の輝きである実りの季節はまもなく去り、間もなく永遠の冬——人類の営みが消えた世界がやってきます。静寂の冬の世界で、いつか復活を信じてひとりと一匹でアーカイブを守り続ける存在が茅森なのかなあ。
君を忘れても僕は連れてくよ。
メインテーマのサビ。結局ここにすべてが詰まっている気がします。
すべては忘れられ、記憶は散逸していく。長い冬が訪れようとしている。それでも、それに少しでも抗いながら前に進もうとする。どこかに向かおうとしている。
前向きさが取り柄の茅森というキャラクターには、そんな意志を感じて、そこにすべてを託したくなってくるんです。
……とまあ幻覚が止まらないのでこの辺にしておきます。4章以降が公開されたら全否定されるかもしれないのであまりまともに取らないで下さいw
ちょっと話が脱線したのでメインシナリオに戻りますが、シナリオ内でも「記憶」が重要なキーワードなんですよね。「眠りにつくたび記憶を失くす」ぶんちゃん。 ハイパーサイメシアの蒼井(それがナービィになりすべてを忘れていくの悲しすぎる)。 「軍は記憶に意図的に介入できる」という推理。 配属までの検査期間につかさっちの「記憶の改ざん」が行われた可能性も仄めかされています。
軍はナービィシステムを運用するにあたりセラフ部隊メンバーの記憶に介入していて、ぶんちゃんや蒼井の症状はその影響なのかもしれません。あとひぐみんは死に対して躊躇がないけど、実験者でもあるからこの世界の仕組みは気づいているんじゃないかと思う。軍の立ち位置は今後とても気になりますね。
個人レベルでも人類レベルでも、ひとはすべてを忘れていく。自分の大切な人、楽しかった日々、心に秘めた想い、そういったものを忘れていくというのはとてもつらいです。鬼畜設定です。でもこれは何もヘブバン世界の話だけではなくて、僕らだってこの先そう遠くもない未来にたぶんいろいろな大事な思い出を忘れていってしまう。ネット上の情報もいつの間にか散逸してしまう。好きだった風景も気がつけば消えている。だからこそ自分は記録することにこだわるのかもしれない。このnoteを始めたのも、Twitterで廃人のようにつぶやいているのも、次の瞬間には消えてしまうようなくだらない感情をただ書き留めておきたいだけのような気がします。いつか自分がすべてを忘れても、自分の感情の証はそこに残るから。
「名作の証」と強度ある物語
第2章のFREE TIMEで映画館「シアターバトル9」(名前といい内装といい、どこからどうみても新宿バルト9)に行き「SF映画」を選択すると、茅森が映画『陰キャ・ステラー』を鑑賞し、最後にこんなことを言います。
自分はこの台詞にメタな意味でめちゃくちゃ勇気づけられました。
制作陣の価値観が自分と近いらしいこと。
そしてこのスタンスでこのゲームに向き合って良いんだということ。
ちなみにWFSのヘブバン開発統括・下田さんによれば本作は「大作より名作を」というコンセプトで制作されているそうです。
このコンセプトはきっと、麻枝さんほか主要スタッフも共有しておられるものと思います。つまりこのゲームの目指すところは「名作」であって、そして「名作」の証とは「考察のし甲斐がある」こと。
最近は考察のし甲斐のある物語はわりと敬遠されがちで、例えばシンエヴァも超絶親切だったけど、それでも自分はやっぱり背伸びしてでも色々考えたくなる作品が好きで(自分の場合考察になってなくて妄想だけど)、ヘブバンもすごいテキスト量と世界設定に頭ぐるぐるしながらプレイしてます。そんなプレイスタイルを肯定してもらえたようでとても嬉しかったです。そして本作はその定義に照らして間違いなく「名作」だと思っています。
『陰キャ・ステラー』の元ネタは映画『インターステラー』ですが、これも偶然ではないと思っています。もともと考察勢御用達みたいな物語強度をもつ名作なのですが、この映画の世界設定や主人公が取る行動(ネタバレになるので伏せますが)がヘブバンと通じるところがあります。ああ記憶の庭のアレはそういうことなのかなとかめっちゃ妄想が捗りますので、オススメ映画です(上述の解釈もこの映画の影響を受けています)。
そんなわけで、この先の展開が本当に楽しみでなりません。この先も茅森の「旅」のゆくえを見守っていきたいと思います(2章までかなり急がされた感があるので4章配信はまだまだ先で良いですw)。
4章DAY0の感想です(ネタバレあり)。
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おまけ:イベント「この星に紡ぐ一手」の雑すぎる感想
(1章までのネタバレを含みます。2、3章ネタバレはありません)
みさりん
時々めっちゃ素が出るのがかわいいんだけど、彼女もまたマリーみたいに年相応の楽しみとか色々我慢してきたのだろうな……。
あかりん
今回めっちゃがんばってた! あのネガティブで引っ込み思案なあかりんが自分の意見をちゃんと言ってるのを見て、卑屈さでは負けない自信がある自分もなんか勇気づけられた。
棋譜
棋譜で語り合う関係性がかっこいい。まど脳なのでちょっと『know』思い出した。棋譜の打ち筋から行方不明だった師の居場所に気づくとか、ラストで棋譜を通して会話するあたり。
曲
もしかして今後イベントごとに毎月新曲出るスタイル!? やったぜ!
シナリオとバトルのリンク
相変わらずリンクが半端ないよね。ダンジョンにわざわざ分かれ道を作ってるのにそっちに行こうとするとみさりんに止められたり。ボスが「打」が弱点なの、碁は打つものだからなのかなやっぱ。
メタネタ
深読みしすぎって言われそうだけど色々妄想しちゃうやつ。このゲームの中の碁って劇中劇みたいなもので(ゲーム中ゲーム?)、それをモチーフに持ってきたのが面白い。実際、この戦争はキャンサーと人類の陣取り合戦で兵士は駒だと思うと完全に碁だし、みさりんはある意味棋士(プレイヤー)の視点でこの戦局を捉えられるから強いのかも。
「盤上の外からの介入」って滾るワードですね…。『野﨑まど劇場』の将棋がまさにそれですがw↓ (なんとなくダイマ)
おじいさんの病気
「記憶」はやはりこのゲームのキーワードなんだろうな。 認知症の症状がすべてを忘れていくナービィ化現象と重なって、考えるととてもつらいです。
余談
エピローグを見ていて、自分が小学生くらいの時に祖父母と碁で遊んでみた時の記憶が唐突に蘇ってきた。1、2回遊んでそれっきりになってしまったし、結局囲碁のルールも未だによくわかってない。もっとちゃんと教わればよかったのかなあ(もう叶わない)、とみさりんの台詞を聞きながら思った。
完全に忘れていたからそんな記憶が自分のなかにあったこと自体に驚いた。やってることが完全に「記憶の庭」だw
参考
ふせったー記事
本記事は以下のふせったーを加筆修正したものです。
こちらは3章ネタバレあり感想なので注意してください。
勝手に近いものを感じてる作品
『HELLO WORLD』(映画)
『時砂の王』
『百億の昼と千億の夜』
『HOTEL -SINCE A.D.2079-』
『楽園追放』
『最終兵器彼女』
『ディアスポラ』
『少女終末旅行』
『火の鳥 未来編』
『雲のむこう 約束の場所』
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