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彼が「先生」と呼ばれる必然——映画『HELLO WORLD』における「先生」というパワーワード

(本記事は映画『HELLO WORLD』のネタバレを含みます。またいくつかの小説(野﨑まど『know』、夏目漱石『こゝろ』)の軽微なネタバレを含みますが、核心には触れないようにしています)

映画『HELLO WORLD』において、主人公の男子高校生・堅書直実の前にある日突然現れた、10年後の直実自身であると名乗る男、カタガキナオミ。未来の自分のことを何と呼べばよいかと尋ねる直実に対し、彼はこう答えます。

「ならば『先生』と呼べ」

——「先生」。

教員でもないのに、自分のことを「先生」と呼ばせるなんてなかなかできませんよね。実際、原作小説では直実に

「先生って、もしかして先に生きてるから? なんか、まんまですね……」
自分で自分のことを先生と呼ばせるのは、凄いなと思う。少なくとも自分にはできない。あと十年で、それができるようになるのだろうか。
——野﨑まど『HELLO WORLD』

とまで言わせています(映画版にはありません)。この時点においてこの台詞は、カタガキナオミのある種の傲慢さ、直実にとっての意味のわからなさを端的に示すエピソードとしてきわめて有効に作用しています。そしてその後の展開においてナオミと直実の間に育まれる師弟関係を考えると、確かにこれは完全に正しい呼称でもあるのです。しかし自分はこの「先生」という呼び方そのものに、言いようのない強烈な必然性を感じてしまったんです(同時に極めて個人的な意味でも大きな衝撃を受けたのですが、それはまた別の話)。

彼は「先生」と呼ばれなければならない、という根拠のない確信

こんな意味不明な確信を持つのは頭がおかしい自分くらいのものでしょう。しかし、それはどこから来るのか。

今回は、カタガキナオミが一体どういう心理から自分自分を「先生」と呼ばせるに至ったか、についてはあえて触れません(これはこれで考え出すと大変楽しいのですが)。また、制作者側の意図を推定してやろうというつもりも一切ありません。ここでは完全に自分の独断と偏見に基づいて、この「先生」という呼称のことをちょっとだけ考えてみたいと思います。

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本作で「先生」という呼称を聞いた瞬間、不意に脳裏に浮かんだ二つの小説があります。

その一つこそが、野﨑まど『know』。同じく京都を舞台とし、「『HELLO WORLD』の原点」とされているこの作品にも、「先生」と呼ばれる極めて印象的な存在が登場します。京都大学・情報学研究科の教授にして、情報材と量子葉の開発により世界を一変させた気鋭の研究者、道終・常イチ(みちお・じょういち)。主人公である御野・連レル(おの・つれる)はこの「先生」との出会いにより人生を決定づけられ、先生に偏執的なまでの憧れを抱き、その思想を追い求め続けます。

本来「先生」という呼称は「教えられる側」の視点から生じるものであり、それは「教える側」への尊敬の念を伴います(カタガキナオミが自分自身を先生と呼ばせることの違和感はここから生じます)。だからここでも「教えられる側」である主人公の立場から先生を見てみます。すると、『HELLO WORLD』と『know』における「先生」には実に多くの共通項があることに気付きます。

まず、道終先生は京大の教職員なので確かに「先生」ではあるのですが、連レルは彼の学務上の教え子ではありません。たまたま、たった1週間だけその教えを請う僥倖を得た存在、しかし先生に選ばれ認められた特別な存在です。通常の教員と生徒という枠組みの外にある、偶然の個人的な出会いから生じたスペシャルな師弟関係。直実と先生もこのパターンです。

そして注目すべきは主人公と先生の関係性の変遷の類似性です。

主人公は偶然先生と出会い、いつしか先生を強く信頼し慕うようになります。先生も主人公のメンターとなり、主人公を大きく成長させます。しかしその幸せな師弟関係は唐突に終わりを迎えます。先生はある日突然主人公の前から姿を消し、主人公は裏切られた思いで一人取り残されます。先生には、主人公に明かしていない秘密があった。壮絶な執念が、あるいは大胆不敵な野望があった。

この師弟関係からの別れというモチーフは、『HELLO WORLD』においても『know』においても二度繰り返されます。そして、一度目の別れを経て成長した主人公の前に再び現れた先生は、もう一度だけ教えを授けた後、今度こそこの世からその存在を永遠に消し去るのです。主人公は、先生の本当の目的を、そしてその業の深さを知る。

この「師との偶然の出会い」「師の失踪と隠された目的」「師を超えた主人公と師との別れ」というモチーフは、バディものの主人公の成長譚としてはよくある黄金プロットの一つではあります(*1)。しかしそこに「先生」という呼称を導入した『HELLO WORLD』は、作者が同じということもあり自然と『know』のイメージを強く喚起します。そしてこの「先生」というパワーワードは、さらにもう一つのある作品を否応なしに自分の脳内に想起させます。

——夏目漱石『こゝろ』

たぶん制作者側はそんなことは微塵も考えてないでしょうし、人物造形もプロットもまるで違います。しかし自分にとって、「先生」と言われるとどうしてもここに行き着いてしまうのです。

『こゝろ』の主人公である「私」は、ある日海水浴場で出会った男性を「先生」と呼び、何かと慕うようになります。教師と生徒という間柄からではなく人間としての尊敬の念に支えられた「先生」との交流。しかし先生には、隠された壮絶な過去があった。そして先生はある日突然自らの命を絶ち、主人公の前から消えてしまいます。

そう、ここにも僕らはあのパターンを見いだします。偶然の出会いと師事、隠された過去、自殺と後に残される主人公。いや、むしろ一人の女性を巡る近代的エゴイズムと裏切りも含めれば、『know』より『HELLO WORLD』のほうが『こゝろ』に近いとさえ言えるのかも知れない。その意味では堅書直実には『こゝろ』の「先生」と「K」の関係性も内包されているとも言えます(*2)。

あえて極論を言えば結局、「先生」というのはいつも決まって、突然現れて主人公を導き、でも実は壮絶な過去や後ろ暗い野望を心の奥に隠していて、いきなりの裏切り行為に走り、そして最後には自らをこの世から消し去る、そんな存在なんです。きっとそれが「先生」と呼ばれるキャラクターの原型なんです。だからこそカタガキナオミは「先生」と呼ばれなければならなかったし、彼に対して「先生」以外の呼称はもはやありえないのです。少なくとも自分にとっては。

加えて「カタガキ先生」「道終先生」ではなく、ただシンプルに「先生」と呼ぶことで、その特異性、唯一性が際立つという物語構造。

ナオミが千古教授を「千古先生」ではなく「千古さん」と呼ぶのもこのためかも知れません(まあ、実際にはプロット上まぎらわしいからとか、この業界ではそれが普通だからとかでしょうが(*3))。そこには純粋に理想的で穏やかな師弟関係しかない。この物語では「先生」たりうるモチーフを備えていない存在はもはや「先生」とは呼ばれない(*4)。やはりナオミだけがこの物語における唯一無二の「先生」なのです。

そして、主人公たちの視点に立ち返ってみると、「彼ら」——直実や連レルや「私」にとってもやはり「先生」以外の呼び名はありえないとさえ思えてきます。「先生」が消えた後の世界で、堅書直実は、御野・連レルは、そして「私」は、折に触れてその師のことを思い出す。そこにはきっと「残された者」に共通の想いがある。自らに多くのものを授け、忽然と消えてしまったもう会えないその人を、万感の想いを込めて彼らはきっと「先生」と呼ぶ

私はその人を常に先生と呼んでいた。
(中略)
私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。
——夏目漱石『こゝろ』(冒頭部分)

読み終えた小説を閉じ、ふと、その先を想像する。その後の世界を生きていくであろう堅書直実や御野・連レルの心情を、彼らの漏らす「先生」という呼びかけを思い描く時、決まってこの、『こゝろ』の書き出しの数行が思い出されてならないのです。

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(*1)例えば同じく2019年作品だと、映画『スパイダーマン・スパイダーバース』、映画『レゴムービー2』等もこの系譜でしょうか。
(*2)ちなみに「先生」と「K」の関係性だけを、やはり並行世界、脳死、記憶の改竄、研究者のエゴ等のモチーフを軸に煮詰めた映画『パラレルワールド・ラブストーリー』(原作・東野圭吾)は、『HELLO WORLD』の遠い親戚とでも呼べるかもしれません。
(*3)本論のメタな視点ではなく作品世界に降りて考えてみると、分野にもよりますが、対等な立場で議論するために大学教員をあえて「さん」付けで呼ぶ文化は実際確かにあります(個人的には理学系、情報系に多かった印象)。また京大は「さん」付けで教員を呼ぶことが多いという話もあります。ちなみに徐さん(#徐さんかわいい)だけは千古さんのことを「先生」と呼んでいますが、中国語では「先生」というのは単に「〜さん」という意味なので、時々中国語を口走る彼女としては「さん」付けのつもりなのかも知れません(これもメタ的には「教授と助手的存在」という関係性を観客に一発でわからせるためでしょうが)。いずれにしても千古さんの性格を考えれば、身分にとらわれず対等に「さん」付けで呼び合うという職場文化はいかにもありそうなことです。
(*4)まあ千古さんの研究にも、見ようによっては道終先生に負けないくらいの「業の深さ」がありますが…。

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(注)この考察はあくまで(自分なりに納得できる)解釈の一例であり、異なる解釈を排除したり反論する意図は全くありません。また、今後考察を深めていく過程でこの考察がひっくり返る可能性は十分にありますので、何卒ご承知置き下さい。
 本作の制作陣がこの作品に自由な解釈の余地を意図的に残している以上、観客の数だけ「ALL TALE(すべての物語)」が存在し、それらはすべて肯定されている、それぞれがこの作品世界において「観たい物語」を紡ぐことができる—「HELLO WORLD」は、そんな作品だと思っています。


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