原作への敬意とガチSFに溢れた唯一無二の映画体験——『僕愛君愛』映画版が描くもう一組の並行世界の物語
2022年10月に公開された映画、『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』。
先に原作小説を読んでいたのでドキドキしながら鑑賞しましたが、めちゃくちゃ良かったです! 小説の映像化にありがちなコレジャナイ感が皆無で、よくぞここまで原作の世界観を映画にしてくれた、というのが第一印象でした。プロット的には決して原作そのままの映像化ではなく、むしろ改変要素がかなりあるのですが、それすらも非常に納得の行くものと感じました。
原作小説についての記事は以前書いたので、今回は映画版のほうの話をしたいなーと思います。
なお、当然ながら本稿は映画のネタバレを含みますのでご注意下さい。また原作小説との違いについても語っています。原作小説についてはさらっと触れるにとどめていますので基本的には未読でも大丈夫かと思いますが、原作の情報を一切入れたくないという方は注意してください。
原作のコンセプトを継承した意欲的な企画に最大限の敬意を
まず、この「2作を別の監督・スタジオで作って同時公開」という前代未聞の企画を徹底してやり遂げたことに敬意を表したいです。
そもそも原作小説の一番の魅力は、「物語構造自体が並行世界を体現している」「読者の一度きりの選択が読書体験を決めてしまう」という部分だと思っています。純粋な文学なのになぜかゲームブック的なことができてしまうという巧妙なギミック。このへんは小説版感想でも書きました。
もちろんストーリーやキャラ、世界観だけでも充分に魅力的な作品なので、普通ならまとめてひとつの作品として映像化するのが王道なのかもしれません。でも、本作はあえて原作のそのギミックをそのまま持ち込みました。しかも、違う監督、スタジオ、キャラデザを起用することで、並行世界間のわずかな違いを通奏低音のような形で醸し出すことに成功しています。
相当大変だっただろうな……と想像します。スタジオをまたいで、二つの作品の整合やバランスを取らないといけない。それぞれに独自性を持たせつつ、通して観たら確かにひとつの作品であるという印象を与えなければならない。単純計算でも2作分「以上」のコストがかかります。映画館側も2箱が占有されるし、どちらの順番からでも楽しめるような編成にしなければならない。そして観る方も、1,900円×2の料金と約4時間の拘束を覚悟する必要がある(上映終盤の頃は鑑賞が完全にパズルになってましたw)。制作、配給、上映、鑑賞——あらゆる意味で、非常にハードルの高い作品です。よくこのチャレンジングな企画を通して、ちゃんと作りきったなと。そこに最大限の敬意を表したいです。
欲を言えば、広報面ではキャストだけでなくもう少し制作スタッフ(特に監督)にフィーチャーしてほしかったかなあ。両監督ともあまり表に出ないタイプなのかもしれませんが、きっと並大抵でない創意工夫や裏話があるはずなのでお話を伺ってみたかったところはあります。グッズ類がほとんどないなどの特殊な売り方は制作費まわりの苦労が偲ばれます。が、作品自体はまったく妥協のないものでした。
どちらから観ようか悩む時間、鑑賞後に逆順で観たらどうだっただろうとしばし思い巡らせる時間、それらが本当に楽しかったです。二作同時公開にしてくださって、本当にありがとうございます!
原作を凌駕するガチSF設定が虚質科学をさらに精緻化する
初見で一番驚愕したのが、原作のSF成分が薄まるどころかむしろ容赦ないレベルで濃くなってたことです。初見時「これ、観客、どこまでついてこれてるんだろ…(褒め言葉)」と思ったのは、映画『HELLO WORLD』に続いて二度目ですw
原作の虚質科学の設定をほぼそのまま踏襲するだけにとどまらず、原作に出てこなかった「同一性の拡散」「IPの可干渉領域」「虚質のもつれ」という3つの新概念をぶっ込んできてます。元から乙野先生が考えておられた設定なのか映画制作陣の発案なのかは不明ですが、どれも本質を突くようなめちゃくちゃ鋭い概念になっているのがちょっとすごいです。虚質科学という架空の学問体系がさらに精緻になる瞬間を目の当たりにさせられました。脚本も決してイメージだけで描かず、正面からSF設定に挑んでいる印象を受けました。
「同一性の拡散」——言われてみればまったくおっしゃるとおりで、シフト元でもシフト先でもどんどん世界は分岐していくのだから、単純に「1対1で入れ替わりが元に戻る」では済まないはずなんですよね。IPが「分岐の回数を距離に置き換えて表現している」とすると(原作とは少し違う定義みたいな気もしますが)、ゼロ世界も分岐して1や2になってしまってるので、絶対にゼロ世界には戻れない。戻るときにも虚質が分裂したり融合したりせざるを得ない。わりとパラレル・シフトの根幹を揺るがす話な気もしていますが、これによって「ゼロでない相手と生きていく」という考え方が出てきて、深みが増した気はします。
「IPの可干渉性」「虚質のもつれ」については詳しい説明がないのでどんな概念なのか謎ですが、量子可干渉性や量子もつれを彷彿とさせるネーミングです。原作では「虚質の一部が同化している」とだけ説明されていた部分が、量子力学とのアナロジーでイメージしやすくなった気がします。中でも「暦がパラレル・シフトすると栞も一緒にシフトしている」こと、そしてそれを鳩のエピソードで説明するくだりは秀逸でした。原作からは改変されていますが、離れた所の粒子に同じ事が起こる量子もつれのイメージともよく合っているし、タイム・シフト時に「暦が栞を連れていける」理由にもなっていて、なるほど巧いな、と思いました。
そもそも前述のように、本作は物語構造自体にギミックを持たせるタイプのSFでもあるので、二作同時公開を決意した時点でSF度が高くなるのは必然ではあります。そしてこのガチSF設定をあの尺に自然な形で埋め込み、それでいてSF部分をざっくりスルーしても充分に感動できる作品に仕上げている脚本が本当に巧みで惚れ惚れします。
ただ、やはり尺の限界はあり、映画だけでは説明しきれないのは確かなので、原作と映画両方楽しむのがベストな気はしました。
どちらから観ても「自分の選択で正解だった」と思わせる映画体験
原作の売り文句になっている「読む順番で結末が変わる」ですが、映画のほうも完全に「観る順番で結末が変わる」を前面に出した売り方をしてましたね(厳密には「結末が変わる」というよりは「読後感、印象が変わる」といったほうが正確かなと思います。物語の筋が変わるわけではない)。
よく言われている「僕愛から観ると切ない」、「君愛から観ると幸せ」という説明。確かにその通りなんですが、自分の印象だと小説は「僕愛から観ると謎解きのカタルシスと余韻がすごい」「君愛から観ると話がわかりやすく、多幸感に包まれる」と思っていて、そこは映画も共通していました。君愛→僕愛だと因果が順番通りなので、ストレートフォワードなんですよね(一種の倒叙なのかも)。逆に僕愛→君愛だと、後から謎のピースがはまるような、ミステリ的な楽しみ方ができます。
自分は事前に散々迷って、原作は僕愛→君愛の順で読み、続けて映画を君愛→僕愛の順番で観ました。そして、その選択に大変満足しています。自分は初見はまず驚きたいタイプなので、原作で先にギミックを体験できたのは正解でした。でも、もちろん、逆から観たら不正解だと思っているわけでは決してありません。もしも逆から観たとしてもきっと「それで正解だった」と言うだろうな、と思うのです。
そうなんです。この映画の実に面白いところは、観た人のほぼ全員が、どちらから観たかに関わらず「自分の選んだ順番で正解だった!」と言っていることだと思っています。Twitterで感想をかなり漁ったのですが、「逆から観れば良かった〜」と言っている人はほとんどいませんでした。これってつまり、どちらの順番で観ても満足できる、そして自分の選択を肯定できる作りになっているってことで……。正反対の選択肢を提示して、どっちに転んでも後悔させず「幸せな映画体験」を与えられるって、ちょっとすごいことだな、と思うんです。
鳥肌が立った『僕愛』のタイトルコールと『君愛』のEDイントロ
小説でしか表せない物語があるように、映画でしか表せない物語もまたあります。『僕愛君愛』も、原作小説と映画において、それぞれの媒体だからこそ表現できるシーンが多々ありました。『僕愛』の、鏡でイマジナリーラインを混乱させる絵コンテとか、『君愛』の、靴の違いで並行世界を意識させる演出とか。虚質や並行世界の図解とかを無理に入れずに、台詞と泡の暗喩だけで乗り切ったのも好印象でした。またキャラもとても良かった。自分は原作では和音ファンでしたが映画では栞の魅力に完全にやられましたし、暦の家族やクラスメイト、研究所の人々などの描き方も良かったです。
映画で大好きなシーンはたくさんありますが、ここでは『僕愛』のタイトルコールと『君愛』のEDイントロを挙げたいと思います。
『僕愛』は、老いた高崎暦が目覚める場面から始まります。覚えのない予定を訝しみながらも、昭和通り交差点に向かう暦。交差点で少女を見かけて話しかけるも、少女が消えてしまい、手元のIP端末が「エラー」表示になっていることに気づきます。確か、こんな感じでした(記憶が間違ってたらすいません!)。
「ここは、どこなんだ」という台詞の格好良さ。この作品の世界観が持つワンダーが詰まった、めっちゃわくわくする台詞です。……からの、満を持してのタイトルコール。ここでタイトルかー。痺れました。IP端末がエラーになるというのはこの作品の最大の謎であって、たぶんこの時点で原作未読の観客はすでに「IEPP……??」ってなってると思うのですが、それがさらに「何かわからんが物語が始まった」感覚に拍車をかけます。この時のBGMは僕愛サントラの「オープニングテーマ」なのですが、『僕愛』のテーマフレーズに移行するタイミングも神でした。
一方、君愛では、瀧川和音がタイム・シフト前の暦を見守るシーンで突然、『紫苑』のインストバージョンが始まります。このタイミングがなんかもうありえないくらい完璧なのです。2周目とかだとイントロだけで涙出るやつです。台詞はうろ覚えなのですが、こんな感じだったと思います(記憶が間違ってたらすいません!)。
暦と栞が海に沈む瞬間、EDにボーカルが入り、サビが始まります。ここのタイミングがまた、神がかっていまして。
そして、琥珀色の海の中を、逆さになってくるくると回転しながら沈んでいく二人のシルエット。
水中。逆さ。シルエット。脱力した手足。たなびく髪。ゆっくりした回転。画面にかぶせて流れていくエンドクレジット。もうこれだけで胸が一杯になってしまうのですが。でも。
自分は思ってしまった。
いや、これ。これってさあ。
エヴァじゃね!?
『新世紀エヴァンゲリオン』TV版EDへのオマージュじゃね!?
そう、〝Fly Me to the Moon〟に乗せて綾波レイが回転しているあのエンディングです(EDは上記動画22:01あたりからご覧下さい)。
これは「妄想が過ぎるかも」ですが、自分にはそうとしか思えませんでした。回転速度といい、モーションといい……。琥珀色をした虚質の海も、どこかL.C.L.(エヴァに出てくるオレンジ色の超便利な液体)のようにも思えてきます。『僕愛君愛』原作の着想のきっかけがエヴァにあると乙野先生がおっしゃっていることから、もしかしたら、なんて思ってしまいます。自分もまたエヴァに薫陶を受けた身なので、この神演出はめちゃくちゃうれしかったです。
考えるほどに深い、映画オリジナル要素
この映画、コンセプトは非常に原作に近いのですが、実は構造面でもストーリー面でも意外と原作からの改変が多い作品だったりします。
普通、これだけ改変されていると原作ファンが怒ることも多いと思うのですが、この映画では不思議と腹は立ちませんでした。それは、原作の原理原則が維持されていることもありますが、「小説と映画は別の並行世界の物語だ」と思えるということも大きいように思えます。「もしかしたら、こんな世界もあったのかもな」と思えてしまうんです。IPでいうと10くらいですかね?
その改変部分を色々考えていくと結構深いなと思ったので、いくつか考えたことをつらつらと書いてみます。
映像の「相互乗り入れ」の難しさとその絶妙なバランス
まず、プロットの構造面について。映画のほうは「映像の相互乗り入れ」と「君愛ラストシーン追加」という工夫があり、どちらか一方だけ観ても最低限のストーリーは追えるようになっていました。個人的にはこの相互乗り入れ、なかなか諸刃の剣という印象を持ちました。
もう片方の世界の映像を見せることで非常にわかりやすくはなっているのですが、「単体で答え合わせできてしまう」ことでミステリとしての本来の面白さが弱くなってしまうのは難点。同じ映像がかなり長く出てくるので「さっき観たよ」ってなりがちです(小説媒体の場合、同じ文章がわざと出てくると面白い効果を生みますが、映像だと使い回しのように見えてしまうのはすごく不思議ですね……)。
ただし厳密には完全な使い回しではなく細かい編集や映像自体の差違があるようで、そこに気づくと各並行世界での「世界の切り取り方」の違いが見えてきて、実はとても意欲的な演出になっているのに気づきました。初見でそれに気づくのはかなり厳しそうですが。
映画ならではの「単品で答え合わせできる」かつ「2本観ても冗長にならない」という相反する要請のギリギリを攻めたらああなった、ということなのかなあという気もして、思い返すと映画としてはこれでベストだったのかもしれません。ちなみに『僕愛』のほうの相互乗り入れシーンは、瀧川和音のナレーションをうまく使うことで「さっき見たよ」感を持たせない工夫に感心しました。
和音の手紙——二人の和音はその時何を思ったのか
続いて、ストーリーの改変箇所を見ていきます。
個人的に一番印象に残った改変箇所が、僕愛の終盤で明かされた、瀧川和音から高崎和音への手紙です。予告の時点でこの手紙のカットに気づいた時には、めっちゃ驚きました。そして、心配しました。おいおい、これじゃ原作と大違いじゃないか。いくらわかりやすくするためとはいえ、話が全然変わってきてしまうじゃないか、と。
結果として、それは杞憂でした。映画を観た後では、ああ、こんな世界もあったのかもしれないな、と思えたし、これはこれでとても美しい物語になっていると感じました。そして、依然として謎や疑問はいろいろ残っていて答えは出ていないのですが、それらを色々考えてみるのはすごく面白かったです。
例えば、高崎暦のIP端末にスケジュールを入力したのが日高暦ではなく瀧川和音になっていることの意味。日高暦は本当に栞を安心させるための方便として「交差点の約束」をしたのかもしれない。最後まで「会うと不幸になる」と思っていて、栞と会わない決心をしていたのかも知れない。もしそうだとしたら、瀧川和音は要らぬお節介をしたのかもしれず……それはそれで味がありますが、まぁ、結果オーライではあります。ただ、暦は余命一ヶ月だとしても、栞は平均寿命から考えてもあと10年は生きてもおかしくないはず。もし不可避の事象半径という概念が真実なら、内海栞(老婦人)が交差点で「高崎さん」に会うことでその後不幸にならないとどうして言い切れるのか? という疑問は残りました。
またそもそも、瀧川和音はどういう心理で手紙を書こうと思ったのか。原作では並行世界の自分が暦と結婚していることを知らないので、その発想が出てくるはずがないんです。スケジュールの入力だけでも十分なはずなのに、高崎和音にわざわざ頼む意味は何なのか。だいたい瀧川和音は「13の世界の和音」のように、成功者である高崎和音に妬みやひがみを持ってもおかしくない。どういうわけで手紙を書くに至ったのだろう。シフト後のIPが000に見えたのも謎でした(これは見間違いかもですが)。
特に、ありのす(@a_ri_no_su)さんの「確実性を求めるなら手紙なんか使わずに最初から8/17にオプショナル・シフトして自分で僕愛暦を送り出すほうがいい」という指摘は、めちゃくちゃ鋭いなと思いました(ただし、和音がオプショナル・シフトをしたのは実際にはタイム・シフトの「翌日」のようです)。なぜ手紙で託したのだろう。いろいろ理由は思い浮かびますが、どうも決め手に欠け、妄想の域を出ません。
それに、瀧川和音はIPカプセルも使わずにどうやって元の世界に戻ったのか、についても謎のままです。『僕愛』での台詞から、恐らくこの時代には外部の「協力者」は必要なくなっていたと予想されますが、少なくとも帰還の際には行った先のカプセルを利用する必要があると考えられるからです。一人で、和音の寝室から、どうやって帰ったのでしょう(タイマーでもかけてたんですかね…?)。
一方で高崎和音も、いきなり別の世界の自分から「こちらではあなたの夫には別の彼女がいます。彼女と会わせてやって下さいね。じゃ、よろしくー!」なんてことを言われても困るだけですよね。そんな無茶振りをほいほいと受け入れられるわけがない。タイム・シフト云々といきなり言われても意味不明なはずで、二人が出会ったら何が起こるかもわからないわけですし、最悪、暦に危険が及ぶかもしれない。それでも彼女は最終的に、夫を交差点に送り出した。そこにどんな決断があったのだろうか。どんな思いで彼を送り出したのか。
つまり、瀧川和音と高崎和音、双方の手紙を巡る行動原理について、単純にロジカルに割り切れない、とても複雑な感情がある気がするんです。自分のデリカシーがなさすぎて人の心が理解できないだけかもしれませんが……。一応手紙の後半に「想いを繋げて欲しい」ということは書いてあるんですが、二人ともそう簡単にそこに行き着いたとも思えないんですよね。なんとなく、瀧川和音は自分の人生の証を誰かに伝えたかったのかなとか、あるいはある種の〝共犯者〟にしたかったのかなとか、高崎和音もそれを理解したのかなとか思ったりしてますが、確信は持てないです。
そこに至るまでにきっといろんな葛藤があったのだろうな……。そう思うとめちゃくちゃエモいエピソードだし、終盤の高崎和音と瀧川和音の表情に胸が苦しくなります。まだ自分の中で完全に答えは出ていませんが、この先も考え続けていくことになるだろうな、と思っています。
それから、瀧川和音は高崎和音のアクアマリンの指輪を「真似した」と言っていましたね。いつ指輪を作ったのか。これについては弥生つかさ(@yayoi_tsukasa)さんの素晴らしい考察があるのでこちらをご覧下さい! 自分もこの考察に賛成です。
高崎暦のもやもや結婚観
『僕愛』の高崎暦の結婚観も、そこそこ大きな改変でした。
原作では婚約期間に「和音のすべての可能性を愛する」という概念に辿り着き、結婚式では非常にスッキリした気持ちで式に臨みます。しかし映画では、式の真っ最中に「僕は一体、誰と結婚するんだろう」なんて、和音に知られたら殺されそうなことを考えていますw そして、通り魔事件の後に急に「すべての可能性を愛する」という概念にたどりつきます。原作ではこの概念の導出過程が非常に丁寧に綴られていただけに、若干唐突感はありました。といっても不満なわけではなくて、単純に違いが面白かったです。あんなふうに暦がずっともやもやしている世界だって、きっとあったんじゃないか。
日高暦の白衣の謎——交わされたかもしれない無数の約束
(2023/4/23:本件についてはBlu-ray・DVDと配信で修正が入り、『僕愛』の暦も白衣になりましたので、意図的なものではなかったと思われます)
個人的に映画最大の謎だと思っているのが、日高暦の白衣です。
『君愛』終盤で、交差点にひまわりを供え、栞と約束を交わす年老いた暦。この時、暦はグレーっぽいシャツを着ています。白衣は着ていません。
しかし『僕愛』終盤で和音の手紙と一緒に流れる同場面では、暦はシャツの上に白衣を羽織っているのです(家から交差点に直行してるのに、街中で白衣を着ているのも不思議ですが)。
こちらの動画の2:00あたりで、白衣を着た暦と着ていない暦の両方を見ることができます。
最初はそれぞれのスタジオが作ったシーンなのかな? だから齟齬があるのかな? とも思いましたが、どう見ても両方とも『君愛』側の絵柄なのです。塗り忘れとかボツ作画とかではなくて、どちらもそこそこの長さのシーンとして完成されているので、何かの間違いとはどうしても思えない気がするのです(これでもし円盤で修正されていたら笑って下さい→円盤で修正されてましたw)。
『僕愛』で描かれたシーンは、瀧川和音視点の回想だから白衣を着ているのか(要は、和音のイメージにすぎない?)。あるいは高崎和音が手紙を読んで想像した脳内映像なのか。それとももしかして、『僕愛』で手紙をくれた瀧川和音のいる世界は、実は『君愛』の世界とはまったく違う世界のか。『僕愛』『君愛』世界は、実は互いにまったく無関係なのか。だとしたらちょっと衝撃ですが、これはこれで面白いかもと思っています。ちなみにIP端末のカレンダー表示をよく見ると、『僕愛』では約束の日である8/17が日曜なのに対し、一方で『君愛』ではタイム・シフトを行った7/17が金曜になっていて、そもそも同じ年なのかという疑問も湧きますが、さすがにこれは深読みしすぎでしょうw
「不可避の事象半径」の内側で必ず栞が不幸になっているのなら、それらの世界の日高暦の大多数は、『君愛』と同じことを考えるに違いありません。つまり、あちこちの並行世界でたくさんの日高暦が、それぞれの栞と約束を交わしていたのかもしれない。白衣を着た暦と着ていない暦は、そんな無数の暦のうちの一人なのかもしれません。そして彼らは一斉にタイム・シフトする……のかもしれない。沈んだ先で泡が取り合いにならないように、『僕愛』世界も同じ数だけちゃんとあると良いなと思っていますw
「幸せなほうへ進めたあなた」という視点——ビターエンドとしての『僕愛』
『僕愛』中盤の通り魔事件については、場所を神社から架空のイベントに変更し(実在の神社に配慮してかもしれません)、さらに原作の設定から一ひねり減らしてきています。原作のあの本格的な特殊設定ミステリはやはり小説媒体に最適化されていて、さすがに映画だと盛り込みすぎになってしまうからしょうがないですね。元々かなり精神的に来るエピソードなので、あれ以上尺を割いたらつらさの方がまさってしまいそうですし。
和音が犯人だったという展開は原作とは異なりますが、原作にあった重みは健在でした。特に和音の
という映画オリジナル台詞は、本当に白眉だと思いました。
この台詞に、『僕愛』の本質が詰まっていると思います。
『僕愛』は圧倒的勝者の物語です。その陰には通り魔に涼を殺されてしまった13の世界のような、無数の「幸せなほうへ進めなかった」世界があります。この問題はどうしても目をつぶらざるを得ない。だから『僕愛』は暦本人にとっては一見申し分のないハッピーエンドに見えるけれど、マクロな意味ではビターエンドだと自分は思っています。
『僕愛』鑑賞後に感じるあの圧倒的多幸感は、たぶん勝ち組のそれなんですよね。無数の分岐の中で多分最も「成功した」ルート。トーナメントの王者だけが知る境地。主人公補正でもご都合主義でもなくて、『君愛』でそういう世界を慎重に選び抜いたからというのが、実に巧みな作劇です。『僕愛』(とスピンオフ)の人生があまりに上手く行きすぎなのは、淘汰で生き残った頂点だから。
もちろん人生は勝ち負けではないし、幸せは比較できるものではないです。『僕愛』世界から見て羨ましい世界もきっとたくさんあるでしょう。だけど人は、並行世界間の差違に「優劣」を見いだしてしまう。隣の並行世界の芝生は青く見えてしまう。少なくとも『君愛』の暦、そして13の世界の和音にとって、『僕愛』世界はひたすら羨ましかったはずです。
「すべての可能性を愛する」という崇高な発想自体、暦が「知らない人の幸せを喜べるほどに幸せ」だから到達できたわけで、いくら勝者がすべての世界を全肯定しても、敗者の「ずるい」という感情はたぶん消えない。そして現実とはえてしてそういうもので、その容赦ない暴力性も含めてすごく鋭い作品だなと思っています。
『僕愛』原作ではこの暴力性について主人公達が自覚して葛藤し、「1%の不幸を踏み台にしてでも、開き直って幸せにならなければならない」という結論に達しています。勝者の論理ではありますが、そう考えるしかないのでしょう。誰かが貧乏くじを引かなければならない。
なお、乙野先生のインタビューで
とあるとおり、元々「違う世界の自分を考えることで自分の人生を肯定しよう」という物語なので、『僕愛』が勝者目線になるのは当然といえば当然です。ただこれは、他の世界を貶めて優越感を得ようという考え方では決してない、と思っています。
「あの時ああしていたら……」と自分の選択を後悔することは誰にでもあります。逆に「あの時ああしないで本当に良かった。違う方を選んでいたら大変なことになっていた」と安心することもあります。この作品の面白いところは、そんな感情を並行世界という枠組みで相対化して見せ、両方の世界を文字通り並列に描写することで、一段上の俯瞰した視点から自分の人生を捉えられる点だと思っています。決して順風満帆な人生ではないけれど、失敗も後悔もひっくるめて、無数の選択の果てに今の自分がかたちづくられている。「違う選択をした自分」に実在性を持たせることで、それが浮き彫りになる感覚があります。
並行世界の発見、オプショナル・シフト技術の進展——虚質科学は人類を幸せにしたのだろうか。自分にはわかりません。「もっと幸せに生きている自分」の実在を目の当たりにして、後悔や嫉妬に駆られない自信は自分にはありません。でも、並行世界が当たり前になったそんな世界で、悩みもがきながらもひとつの結論にたどりつく彼らのこの物語が、自分にはとても愛おしいです。
そしてやはり、「幸せなほうに進めなかった」と思っているほうにも幸せはあってほしい。心から、そう思わずにはいられません。
考察を語りたくなる映画、『僕愛君愛』
「考察のし甲斐がある作品は名作である」という格言(リンク先は某ゲームのネタバレがあるため注意)があります。その意味でも『僕愛君愛』は間違いなく名作だと思っています。『僕愛君愛』公開当時、Twitterにはたくさんの考察が流れていて、それらを読むのは本当に楽しい作業でした。ここではいくつかの考察を紹介しつつ、映画独自要素ではなく映画と小説で共通する二つの概念についてちょっとだけ考えてみたいと思います。
IP端末はなぜエラーになったのか——映画に散りばめられたヒント
「なぜIP端末はエラーになったのか」。原作者の乙野先生が以前から投げかけておられた根源的な問いです。
この答えについては、小説と映画とで大きな違いはなさそうな印象を受けましたが、特に映画ではヒントが増えており解釈しやすくなっていた気がします。
一つ目は暦の台詞。最初は「パラレル・シフトしたのか!」とミスリードなことをつぶやきます(実際にはパラレル・シフトしていないことは、上記のツイートのリプ欄からわかります)。が、すぐに「だがエラーとは……IPが計測不能だとすると……もし虚質自体に変化が起きたとして……」(台詞うろ覚え)と考え直します。これが直接原因だと思ってよさそうです。つまり「暦の虚質が変化してしまったことでエラーになった」ということを暗に示しているように思います。
もう一つは『君愛』で追加された、14歳の暦が栞と再会してプロポーズするラストシーン。パンフによると、さすがに原作のラストのままだと映画としてすっきり終われない、ということで追加されたそうです。後味という観点でも追加して正解だったと思いますが、これも大きなヒントになっていると思います。あれは日高暦の虚質が高崎暦から抜け出て栞の虚質と再会したことを表しているのだろうと解釈しました。それまで融合していた虚質が抜けてしまったので暦の虚質が変化して、IP端末がエラーになったのではないかと……。
さらにパンフによると、最初は「エラーがいつの間にか元に戻っている」という脚本だったらしく、絶対にエラーのままにしてほしいと乙野先生からお願いされたそうですw そりゃそうですよね、せっかく会えた二人が元に戻ってしまうことになるわけですから。
どうやって虚質が抜け出せたのか、再会した二人がどうなったのか、などについては、自分は残念ながらまだ十分に読み解けていません。 いろいろな想像や妄想はできるのですが、どうしても映画や原作の中の材料だけから確証を持てるロジックを作れない。物理的に近づいた事がトリガーになっているんだろうとは思いますが。でも、少なくとも再会した二人はどこかの世界で幸せに暮らしていると良いなあ、という祈りにも似た気持ちをどうしても抱いてしまいます。
この「なぜIP端末がエラーになったのか」については、自分のTLの周辺だけでもかなりの数の方が考察されてまして、それがまた本当に楽しかったので、以下に紹介してみます。
おーるてーる(このnoteの著者)
自分の考えに一番近いのは巫月和音さんの説かなあ。だいたい同じような考え方に収束しているようですが、細かいところに各人の独自色が出ているのがとても面白い。どれもなるほどそれはありうるなあと思えてきます。
エラーの理由については、「融合していた日高暦の虚質が分離してIPが変化した」説のほかに、「逆にこの瞬間に日高暦の虚質が融合してIPが変化した」説、「世界が再構築された」説、「虚質の泡が融合して一つになった」説、も結構ありました。また栞の幽霊も「僕愛世界でずっと待ってた」説と、「8/17に交差点を通ったことで抜け出して幽霊になった」説がありました。「瀧川和音が君愛世界から僕愛世界に介入して日高暦の虚質を分離させた」という説などもあり、実に面白いなあと思いました。考察の数だけ、並行世界があるのかもしれませんね。
日高暦の奮闘は取り越し苦労!?——IPという概念の謎
暦と栞が出会うと、栞が必ず事故に遭う——『君愛』で示される絶望的な事実です。作中では「不可避の事象半径」という概念によって説明される冷酷な現実。ですが、本当にそうなのか。栞が事故に遭わずに暦と幸せになる世界だってどこかにあるのではないか、と思いたくなりませんか……? 『君愛』においてはそれこそが「顧客が本当に必要だったもの」なのですから。
心情的な理由だけではなく、論理的に考えても、無数の並行世界にあらゆる可能性があるのであれば、栞が幸せになれる世界だってあっても良いはずです。なのに暦はむしろ運命論的な考え方に陥っています。さらに原作では「栞と50歳まで会わなくても51歳で会うかも知れない」みたいな屁理屈極論まで言い出します。可能性だけでも許せないということなんだろうけど。
これをずばり指摘しておられたのがケイネすけ(@Kaynethkay)さんで、ツイートにあるようにこれは単なる類推であって、実は暦の奮闘は完全に取り越し苦労なんじゃないか、という気もしてきてしまうのです。まあ、これを認めてしまうと君愛が成立しなくなってしまうのですが。
さらにこの疑問に鮮やかな解を与えているのが、ssh(@ssh_hull)さんのSS『連続体濃度』です。ネタバレになるので詳細は書きませんが、「どこかに必ず暦と栞が幸せになれる世界はある」、「でも暦は絶対にそこに行くことができない」と考えられる一つの解釈を示していて、見事というほかないです。
ここで肝になるのが、IPという概念の謎です。偶然にもケイネすけさんもsshさんも、IPが1次元量であることに疑問を呈しておられます。
確かに、IPが1次元量というのは考えれば考えるほど不思議なのです。映画ではIPは分岐の回数だとされていましたが、例えばIPが1の世界が分岐したら、両方ともIPが2になるのか? でもそれだと、IPが同一の世界が複数できてしまうことになる。かといって、片方がデクリメントして0になったらそれはそれでおかしい。一次元数直線で表せるようなものではない気がしています。少なくとも多次元量なのではないか? 同様の疑問は2016年の時点でたか号さんのブログや、TaKAsHIさん(@Ta_K_As_H_I)さんのツイートにも書かれていました。
もしかすると本来の「虚質紋」はもっと複雑なもので(音声ガイドによると、『君愛』ラストでタイム・シフト開始時のPC画面に映る複雑な図形が虚質紋らしいです)、それを非常に単純化したものがIP端末に表示されているだけなのかもしれませんね。それであればIP端末上は数値が同一の世界が複数あってもおかしくないです。また、IPが離散量として扱われる(1以下の変動は同じ世界として扱う)のも、単純化されているがゆえの便宜的な扱いなのかもしれません。
ちなみにsshさんのSSは、他の作品も考察と物語が高いレベルで同時に成り立っており、原作者の乙野先生も絶賛されているほどなのでオススメです! 上述した「ラストの交差点で何が起こったのか」についても説得力がありなおかつエモい説が『分配』に書かれていて、もうこれが答えなんじゃないかという気すらしてきます。
おわりに——映画と小説、異なる並行世界を楽しんでほしい
「並行世界」なんてものの実在が証明されていない僕らの世界ではまだ、人生の選択は一度きりです。死んでしまった愛犬に会いに行くこともできないし、両親が離婚していない世界に逃げることもできない。その代わりに、他の世界の自分の成功を知って羨むこともない。
だけど、想像することはできます。選ばなかった選択肢の先にある世界、そこで生きる自分の人生を想像してみることはできる。そしてもし、そんな世界が実在して、そこに行くことができたら——と妄想するのは楽しい思考実験でもあり、また自分の人生を俯瞰できる手段でもあります。人の想像力の、そして創作活動の、最大の効用であるといえます。
『僕愛君愛』という作品は、そんな世界を描くと同時に、小説3本、映画2本というメディア展開によってメタな意味でも複数の並行する作品世界を共存させ、物語の選択を読者/観客に委ねるという意味で画期的な作品だったと思っています。もし映画だけを観た方は、ぜひ原作小説も(スピンオフも含めて)読んでみてください。そこにはまた別の(yet another)IPの世界があって、たくさんの並行世界でのそれぞれの物語を知れば知るほど、この作品の世界観をより深く感じることができるからです。
そして3月にはいよいよBlu-ray BOXが発売されます! パッケージ化されない作品も多いこのご時世、本当にうれしいです。この記事はかなり記憶をたよりに書いており、間違い等もきっとたくさんあると思いますので、Blu-rayを入手したらよく確認したいです。まだまだ語り足りない話もありますので、機会があればまた別の記事を書くこともあるかもしれません。
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