映画『HELLO WORLD』ラストを本気で考察してみよう<後編>:「しっくりこない」を深掘りすると世界の在り方が見えてくる
<前編>はこちら/<中編>はこちら/この記事は「中編の続き」です
(ネタバレあり)映画『HELLO WORLD』は、「ハイスピード青春ラブストーリー」と銘打っでいるだけあって、中盤から突然どんでん返しの応酬に翻弄され、特に衝撃のラストシーンは頭が混乱した方も多いのではないでしょうか(初見で全部理解できた方は誇りに思ってよいと思いますw)。しかしここからがこの映画の真骨頂、本当に楽しい部分のはじまりです。初見で「分かった気になる」タイプの映画では味わえない、考察の楽しみ、背伸びして見えてくる世界の広がり。
あのラストシーンは、いったいどういうことだったのか?
早速、「ガチ考察」してみたいと思います。
<中編>では、考察本編として、映画のプロットをもとに「月面世界(C世界)のナオミは2037年以降に脳死になった」という説(「2037年脳死説」の亜種)を導き出し、そこから浮かび上がるナオミ10年間の軌跡を追ってみました。しかし、ここまでの議論はまだおもて半分でしかありません。
プロットからは同様に、もうひとつの説得力ある解釈である「2027年脳死説」、すなわちナオミは2027年の高校時代に脳死になったという説も導き出すことが可能です(もちろん、それ以外の解釈もたくさんあります)。魅力ある2027年脳死説ですが、自分がこれを採用しなかったのには理由があります。当初は「どうもしっくり来なかった」「そこはかとない違和感を抱いた」という程度なのですが、それを深掘りしていくことで自分の解釈がだんだんと明確になってきた気がしました。この、なぜ2027年説を採用しなかったか、どこに違和感を抱いたのか、までを含めて示すことでようやく自分の解釈の全体像を語ったことになると考えました。それが、この<後編>です。
かなり長い記事にみえますが、後半3分の1はただのリンク集なのでご安心下さい。
「2027年脳死説」考(1)——イーガン的宇宙論の視点から
<中編>までは、主に作品世界におけるプロットの論理関係を手がかりに2037年説を考えてきました。今度は少しメタな視点を取り入れてみます。
「2037年脳死説」と「2027年脳死説」の違いは、究極的には
2037年脳死説=アルタラは「決定論的なただの記録」
2027年脳死説=アルタラは「予測不可能なシミュレーション」
という世界観の違いに落ち着くのではないかと思っています。
両者は似て非なるものです。「記録」であればそこで起こる事象は既に決まっていて動かしようがない。「シミュレーション」なら、初期条件によって結果はいくらでも変わりうる。乱暴にたとえるなら「DVDの再生」と「ビデオゲーム」の違いに近い。
2037年説は頑なに「記録」にこだわり、B世界とC世界で同じ事象が起こっていることを前提とします。いっぽう2027年説はそれを大前提としません。2027年説ではB世界はC世界と全く異なる道筋をたどります。B世界におけるナオミの苦労はC世界では起こっていない。ここではB世界は月行さんがナオミ蘇生のために走らせているシミュレーションという捉え方が主流になります。よく「月行さんが育成ゲームとリセマラを繰り返している」という表現がされますが、これもビデオゲームのたとえに基づくものです。
この2つの視点を考えるうえで注目すべきなのが、SF作家グレッグ・イーガンとその代表作「順列都市」の持つ世界観です。イーガンは、論文並みの数学や物理学で読者を殴りつつ、それをブラフに妙なエモさをチラ見せするというツンデレハードSF作家さんです(暴言)。彼の『順列都市』にもアルタラのように現実世界を電子的に複写した世界と、それを可能にする「塵理論」が登場します。
『順列都市』で描かれる「イーガン的宇宙論」は、
という特徴を持ちます(人によっては解釈は分かれるかもしれません。「塵理論」については、たとえば
・不死は実現可能!?― 猫でもわかる塵理論 - 誰が得するんだよこの書評
・『順列都市』グレッグ・イーガン/山岸真訳 早川文庫(1999) | どらちゃんのしっぽ - 楽天ブログ
・グレッグ・イーガン辞典|Memeplexes
などが詳しいです)。
直実の部屋で先生が「この世界(A世界)は現実の完全な複写として成立している」と言った時、直実視点でイーガンの著作がベッドサイドに多数並んでいる様子が映ります。中でも特に『順列都市』の単行本は画面中央で特別な存在感を放っています(ANA国際線で上映された字幕版でも、わざわざ『順列都市』だけ英語字幕がついていました)。そしてダメ押しのように挿入される直実の「イーガンとかっぽいなって……」というつぶやき。もちろん映画パンフレットを見れば、アルタラが『順列都市』を意識していることは一目瞭然です。
これは、ずばり、
記録世界が「イーガン的宇宙論」にもとづくことの事実上の宣言
である、と自分は考えています。
イーガン論的宇宙論に従うならば、アルタラ内の世界は完全に決定論的な記録である、という結論にたどりつきます(*1)。すべては過去に起こった事象の記録であるけれども、住民は決してNPCでもAIでも哲学的ゾンビでもない、自由意思を持つ主体的な存在となります。一冊の書物、一本の映画が完全に決定論的なただの記述であっても、登場人物が我々と同じレベルでその生を生きているのと同じように。そして全ての世界は等価であり、そこに優劣は存在しない——こう考えるとしっくり来る場面はたくさんあります。劇中で一度も「シミュレーション」という言葉を使わず、徹底して「記録」と呼びならわしていることもその証左かなと。
「ラストが現実ならそれまでは全部幻、茶番だったのかー!」と憤慨する感想を見かけたことがありますが、現実世界>データ世界という優劣があると思い込むと、こういう感想を持ってしまうのかもしれません。まあ、イーガン的宇宙論を一般常識として観客に期待するのは酷な気もしますが^^;(この辺ハードル高いのが本作品の長所であり短所)
2027年脳死説においては、少なくとも宇治川花火大会以降のB世界は記録ではなくなります。一行さんが脳死になるという「嘘イベント」が発生し(C世界からぶち込んだのか偶然起きたのかはわかりませんが)、その後のバタフライエフェクトを2037年まで伝播したシミュレーション、ということになります。これは、イーガン的宇宙論とはちょっと相性が悪いんですよね。とはいえ、この辺は「アルタラは記録だったけど月面のアルタラIIはシミュレーションなんだ」「アルタラIIは未来の技術なので色々うまくできてる」という解釈でなんとかなったりもするという意見もあります。
「2027年脳死説」考(2)——問われるA世界の存在意義
『SFマガジン』2020年2月号で、アニメ評論家の藤津亮太さんはこんな調子で2027年脳死説をばっさり斬り捨てています。
この意見は説得力があります。月行さんがB世界からナオミが倒れる寸前の量子精神を取ってくればそれで一件落着。2027年説において、ナオミが倒れる時点ではナオミとアルタラの接点はありませんから、物語にA世界が登場する必要が全くなくなってしまうんです。また、仮にA世界が登場する必然性がどこかにあったとしても、なぜB世界では直実ではなく一行さんが雷に打たれることになったのか、について明確な理由が得られません。偶然であるとか、月行さんがなにかやらかしたとか、何らかの二次創作的な仮定を置くしかないのです。
2037年脳死説であれば、少なくともC世界のナオミは倒れる寸前の時点でアルタラに介入していますし、B世界のナオミも同じことをやっていますので、A世界が登場する必然性が生まれます。それに落雷対象の入れ替わりもありません。
ただし、世の中には2027年脳死説のこのパラドックスを把握したうえで、それを解消するようなロジックを2027年説に組み込んだ、すごい二次創作も存在します。
これらの作品では月行さんがナオミの量子精神を得るためにB世界の一行さんとバディを組むのですが、ある事件を仮定することで、2027年説における落雷対象の入れ替わりとA世界の登場に必然性を与えることに成功しています。また、脳死時期と量子精神の年齢のズレに関しても説明を試みています。それでいて、とてもエモい。
ある意味で2027年脳死説は、一見説明のつかない部分やブラックボックスが多いぶん、そこを想像力で埋めることができさえすれば最強にエモい物語を生み出すことができるのかもしれません(スピンオフ『HELLO WORLD if』が良い例です)。非常に二次創作向きの解釈とも言えます。
「2027年脳死説」考(3)——16歳の「器」に26歳の「中身」は同調するのか
<中編>では、ナオミの蘇生の条件である「精神を事故当時の状況に近づける必要」について触れました。そしてこれは両者が「ほぼ同じ人生経験とメンタリティを有している」ということだと自分は解釈しました。その瞬間の心情はもちろん、それを形作る彼自身の経歴、年齢等も含めて近い状態ってことですね。この考えが2037年脳死説の基盤になっています。
いっぽう、2027年脳死説の多くは、必ずしもこの「人生経験の近さ」は必要条件としていないようです。つまり、「大切な人を助けようと動いた」という部分だけが近ければ、事故当時の年齢や人生経験は関係ないという立場になります。
しかし、これは完全に感覚的な話になってしまうのですが、2027年説において、26歳のナオミの量子精神が16歳で事故にあった脳に果たして同調するのか? という素朴な疑問があります。
劇中でナオミは、とにかくB世界と同じ流れをA世界で再現することに執拗にこだわります。古本市、告白イベントを経て、わざわざ宇治川花火大会のエピソードまで可能な限りなぞろうとします。単に恋心を抱いた状態の一行さんが必要なら、告白後ならいつ拉致したって良いはずです。しかし落雷の直前の精神状態がピンポイントで必要という事実は、周囲の環境や本人の人生経験も含めて忠実に再現することが同調に必須なのだという説を裏付けます。
だとするとやはり、2027年脳死説において、月行さんは26歳ではなく事故当時の16歳のナオミの量子精神を引き抜いてくるべきだったんじゃないか。いくら同一人物の精神だからといって、大人の脳が高校生当時の精神状態を完全に再現することは果たしてできるのだろうか。特に劇中の26歳のナオミは壮絶な10年間を経て、もはや高校時代とは別人と言えるくらいの精神の変容と経験を積み重ねているわけです。それが16歳の精神状態とはたして同調するのか、という若干の気持ち悪さを否めません。このことも、ナオミが倒れたのは2027年ではなく成人後だろうと自分が考える理由です。
まあ、とはいえ、そもそも量子精神と物理脳神経の同調なんてSFならではの大ハッタリ理論なので(笑)、あまりここを追求しても仕方はないのかもしれませんね。C世界では技術革新によって、そんなにガチガチに精神状態を再現しなくても良くなったのかもしれませんし。また自分がどうも「同調」に対し、スマホ機種変のデータ移行やバージョン管理システムのマージのような、「上書きインストールではない」イメージを根拠なく持ってしまっているせいもあると思います(*2)。
「2027年脳死説」考(4)——ナオミに課される10年間とは何だったのか
自分が2027年脳死説を採用しない4番目の理由は、1〜3番目と少し違って、非常に心情的なものです。要は好みの問題と言ってもいい。
あえて一言でいうと、2027年脳死説から導かれる
ナオミの10年間の苦労は月行さんの「仕込み」
という帰結に何となくもやもやするものを感じる、ということです。
2027年説において、C世界のナオミは高校時代に脳死になっているため、一行さんを救うためのエピソードは一切存在しません。それがアルタラに記録されることもありません。映画本編と『ANOTHER WORLD』でB世界のナオミが経験した恋人の喪失と10年間の苦労は、記録ではなく人為的に作り出された体験、シミュレーションということになります。
誰が? 何のために? ……B世界は月行さんが運用しています。ナオミを救うために。つまり「一行さん脳死」という「嘘イベント」とその後の10年後の苦労はナオミサルベージのために月行さんが作り出したものです(この解釈はスピンオフ『HELLO WORLD if』でも採用されています)。
同調に適した量子精神状態を生み出すための、月行さんによる10年間の育成ゲーム(さらに『if』ではリセマラ繰り返し)。泣けます。ナオミを凌駕する壮絶な愛のなせる業に、泣けるのは確かなんです。しかし、しかしですよ。
月行さんはなぜそこまでの地獄をナオミに課すことができるのか。
シミュレーションとはいえ「一行さん脳死」という鬼畜イベントを作り出して恋人を絶望の淵に追い詰め、背中の火傷や半身不随を与え、10年も地獄を味わわせて、ようやく取り戻した彼女に二度も拒絶させ、挙げ句の果てに串刺しにする。そしてそこまでの流れをただ15年間観察し続ける。正気とは思えなくてですね^^;
しかも、2037年説であればこれらは現実の複写なのでまだ月行さんは耐えられるはずだけど、2027年説に立つとそれは月行さん自らがわざわざ無から作り出したものとなる。ナオミを取り戻すために、正史では起こりえなかった地獄を経験させ、その壮絶な記憶が刻み込まれた量子精神をC世界に召喚し、ともに残りの人生を生きていくわけです。
まあ少なくとも『if』世界においては、月行さんはそうするしかなかったのでしょう。その狂気すら孕んだ辛い選択がまた『if』の魅力でもあるのは確かなんですが、そこまでしてナオミを取り戻したかったのか。自分だったらB世界で一行さんと幸せに暮らしてくれればそれでもうそれでいいやと思ってしまいます。本来の月行さんは、自らのエゴで恋人にここまでの仕打ちをできる人ではないんじゃないかなと(ちなみに2027年説のなかには「月行さんは掌の上でナオミを思い通りに操り、自分を好きになるように仕向けていた」というブラックな見方の一派も存在します。そこまでやれるなら苦労せんわ、と思ったりしますが、ある種の野﨑まど「らしさ」はありますね)。
それと同時に、ナオミの半生に深く感情移入してしまう若くない世代としては、やっぱりB世界でのナオミの10年はただのシミュレーションではなくて現実なんだと思いたいんですよね。本編中の回想シーンと『ANOTHER WORLD』が示唆する10年間の重み。人生の師となる千古さんとの出会い。E子さん(『ANOTHER WORLD』第2話の女子大生)の想い。アルタラセンターでの日々。アルタラへの執念のダイブ。雪の日の病室。母校で見つけた日誌。そしてA世界での直実との交流。そういった愛おしいエピソード達に確かな意味と現実の重みを付与したい。月行さんが一時的に仕込んだ幻のイベントなんかではなく、月面のナオミも確かに経験してきた紛れもない現実なのだと思いたいところがあるんですよ。ええ、ただのB世界原理主義とも言えますが。
スピンオフ『HELLO WORLD if』についてのスタンス
さて、いよいよ2027年脳死説最大にして最高の解釈である『HELLO WORLD』公式スピンオフ、伊瀬ネキセ先生による『HELLO WORLD if——勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする』をみていきます(以下、単に『if』と呼びます)。
この物語は、勘解由小路三鈴(通称「かでのん」)の視点から語られるもう一つの『HELLO WORLD』です。本編ではフェイクヒロインとして登場しつつもいつの間にかフェードアウトしてしまった、しかしその割には挙動不審な動きをしていた彼女に光を当て、「あり得たかもしれないし、あり得ないかもしれない物語(本文より)」を歌い上げた極上のスピンオフです。
『if』は基本的には「2027年脳死説」に基づいた世界観で描かれています。死亡時期について明確な言及がない映画とは異なり、「現実の世界の堅書ナオミは2027年に脳死になった」という前提を置いており、一行ルリと勘解由小路ミスズは彼を救うために20年ものあいだ必死で試行錯誤を繰り返してきた、という設定です。作中でミスズは2047年(C世界)からアルタラIIの中の蘇生プログラム(B世界)にダイブ、さらに深深層(A世界)にリダイブし、2027年の高校生の三鈴と共闘して堅書ナオミの蘇生への道を探ります。
これを図解するとこのようになります。本作で、C世界が「2047年」と明記され、堅書ナオミが倒れてから「20年」が経っていることが明言されているのは特筆に値します。
「凄いな……」というのがこのスピンオフを読み終えた時の素直な感想でした。かでのんの意味深な動きのひとつひとつに意味が与えられ、作品全体が全く違って見えてくる。不整合なくディテールに至るまで完成されたひとつの世界の説得力。そして何より、三鈴とミスズの真摯な想いと、それによって導かれた未来。通常のスピンオフのレベルを超えた、すごい作品だと思っています。大好きです。
ただ「考察」という視点においては、自分は
『HELLO WORLD if』は「極上のパラレルワールド」である
と考えています(「本編のテイク2である」と述べた人もいて、その発想、かなり好みです)。
映画本編とは異なる世界線。
けど、この世界線もきっと存在する。これも紛れもない『HELLO WORLD』。
そう確信をもって考える根拠のひとつはまず、映画本編と『if』における、エピソードや設定のディテールの細かい違いです。
他の部分ではあれだけ本編に肉薄した描写を徹底しているこの作品が、ついうっかり見落とした、とはとても思えないレベルの差異です。特に終盤は三鈴がそこに存在することによって、ナオミや直実の行動までが完全に変化しています。単に本編で描写されてないだけだと仮定しても、どうしても本編と整合しない部分が残ります。もし自分が2027年脳死説を支持していたとしても、これは看過できない。
伊瀬先生はおそらく、あえて意図的に本編から改変してきているのではないか? 本編とはまた違う形で、ナオミが、そして三鈴が救われる、という世界線を描いたのがこの作品なのではないか? そう思えてしまうのです。
二つ目の理由は、公式サイドの立ち位置です。たとえば、BDのビジュアル・コメンタリーで伊藤監督は浜辺さんから『if』の話を振られて、
といった調子で、絶妙なはぐらかし方をされています。決して「これが真実だったんです!」という態度は取らず、伝聞形を使うことで本編とは明確に一線を引きつつも、『if』の世界は全面的に肯定してくれている。
より直截的には、伊藤監督と武井プロデューサーの対談においても、スピンオフについて以下のような発言がみられます。
あるいはまた武井プロデューサーは、『if』について「本編とは異なる世界線」「『なのは』みたいになったら嬉しい」とも発言されています。
ここで引き合いに出されている『魔法少女リリカルなのは』シリーズは、元々ゲーム『とらいあんぐるハート』の登場人物を流用した魔法少女作品として作られ、さらにTVアニメでは原作のパラレルワールド的な舞台設定がなされています。『なのは』に代表される「スピンオフ魔法少女モノ」の系譜は『プリティサミー』から『小麦ちゃん』までどこかテンプレ化しつつありますが、『if』もそのひとつとして位置づけることができます。
ただし『if』が秀逸なのは、劇中劇やスターシステム的なパラレルワールドの形ではなく、あくまで本編とほぼ同じ舞台で物語を展開できていること。上述のような差異はありますが、細かい所を気にしなければ完全に同じ世界線と思って読むことも十分に可能で、そのさじ加減が絶妙なんです。スピンオフの理想型のひとつと言っていい。だから、これをトゥルーエンドとして読むのはあり寄りのありだと思っていますし、スピンオフ『遥か 遥か先』理論を適用すればこういう世界はきっと実在するはずなんです。
そして第三の理由は、おおかた、かなり心情的なものです。2027年説を採用しなかった4番目の理由(前述)とも似ています。カタガキナオミにどうしても感情移入してしまう世代の自分にとって、完全に心を壊し人間性を失ってしまったナオミ、そしてその<幻影>がゾンビみたいな動きで街を徘徊するのをひたすら消す三鈴、というのは、まあ、読んでいて若干つらいものがあるんですよね(笑)。そしていくら真の幸せのためとはいえ、リセマラが繰り返される記録世界、それによって毎回消される数多の直実と一行さんとかでのん、というのもちょっとつらい。『ANOTHER WORLD』3話とかを見る限り、ナオミは確かに闇落ちはしているけど十分に人間らしさを残したキャラクターなんだと思いたい、という気持ちがB世界原理主義、アナザー原理主義の自分にはあるような気がしています。……けど、どうしてもこの物語を嫌いになれない。いや、むしろ好きと言っていい。この世界線が「かでのんの幸せを願う物語」であることは揺るぎない事実なのだから。そしてこれはこれで極上のストーリーなのだから。
この物語をしっかりした舞台設定と卓越したストーリーテリングで描き出してくださった伊瀬先生の筆致の確かさには惚れ惚れします。正直、ちょっとスピンオフってレベルじゃない強度ですよね!? もともと、かなり緻密な設定のSF作品(『閉鎖型エデンのノオト』、刊行時タイトルは『封印少女と復讐者の運命式』)で第3回集英社ライトノベル新人賞を受賞して商業デビューされた方のようで、だからこそ映画本編に負けない強度のロジックとSF要素を保ちつつも、絶妙なエモさを持った、至高のスピンオフになったのだろうと思っています。伊瀬先生は、『HELLO WORLD』に引き続き東宝の武井さんがプロデューサーを務める『BNA ビー・エヌ・エー』でもスピンオフ小説を執筆されており、そちらでもその力量は健在のようです。
203X年脳死説の未解決問題:ナオミはなぜ倒れたのか
さて、203X年脳死説にも、矛盾点や未解決問題がもちろんたくさんあります。
そのひとつが「ナオミはなぜ倒れたのか」。
自分の解釈では、何か知らんけど脳死になった、ということになってます(笑)。そして<中編>でも述べたように、「ここを語ると作品として軸がぶれるから語らないことにしている」とメタ解釈に逃げて、思考停止しているわけです。これはまあ、ご都合主義と言われても頷くしかありません。
2027年脳死説も「なぜ直実が倒れたのか」について根拠ある説明ができていないのは同様なのですが、そのイベントを全ての行動原理の起点にすることで、かえって「ご都合主義感」は薄まっているように思います。映画本編の一行さん落雷(これも理由は特にない)と対になるイベント、という構造を取ることで、「なぜ」という問いを発しにくくしている。これは2027年説の強みです。
203X年脳死説の未解決問題:月面世界は本当に2040年代なのか
もうひとつ未解決なのが、「月面世界は本当に2040年代なのか?」という問題。
映画本編を見ると、この作品がいかにガチガチに2027年の技術考証に腐心しているかがよくわかります。DSCL Inc.や面白法人カヤックの協力を得てチャットアプリから自動運転まで2027年の技術レベルのリアリティをかなり突き詰めようとしていますし、その苦労もあちこちの媒体で語られています。2037年はあまりそれが見えませんが、ナオミの携帯の描写などに片鱗を感じ取ることはできます。
しかし、あの月面都市はあまりにぶっ飛びすぎています。B世界をただ10年外挿してあのレベルまで行くとは到底思えない。
なぜあの月面都市が2047年に無理だと言い切ってしまったかというと、まあ現実の有人宇宙開発のペース感もあるんですが、普通に地球上にあの規模の都市を一から造るとしても10年では出来ないだろうなあというあまり根拠ない感触からです。『正解するカド』並のオーバーテクノロジーが投入されたか、実はあれは宇宙開発史だけが僕らの世界線とは異なる進化を遂げた『第五の地平』的な世界だったとしか思えず、結局ご都合主義な妄想に走るか、沈黙するしかなくなるんです。もしかすると月面世界もアルタラと同じく「大いなるハッタリ」の一つなのかも知れませんね。
本編であれだけガチガチにリアルな技術考証してたのに、ラストだけ全部ぶっ飛ばしたのは何か意味があるんだと思っています。おそらく演出上の都合、かつ「遠い世界、隔絶された世界」のメタファー。
あの月面はきっと「さらに先の未来」をわかりやすく示し「どんでん返し」を効果的に演出するための舞台設定なのだと思います。もしあのラストシーンでB世界とたいして変わらない技術レベルの世界が出てきていたら、観客のほとんどは「さらなる上位世界」という構造に気付くことすらできず、どんでん返しも機能しなかったに違いありません。あえて時代考証を無視し、SF描写的にはベタ過ぎるくらいの未来感を出すことで、テロップも何もなしに限られた尺のなかで世界構造を提示することに成功している。逆にA世界、B世界では、直実の部屋の昭和感などのレトロアイテムで現代からの地続き感をあらかじめ刷り込んでおくことで、ラストシーンのギャップを最大限に高めている。
そしてあの月面が2047年にありえないと仮定するなら、じつは本当にあれは「遠未来」あるいは「まったく異なる宇宙」なのかも知れません。これはもはや203X年説を(そして2027年説をも)否定する解釈になりますが、スピンオフ『遥か 遥か先』が示唆するように全然違う歴史をたどった宇宙も存在しうるわけです。そこを起点にさらに想像を膨らませていくこともできます。自由度が高すぎてもはや何でもアリになってしまうのは考察上は難点ですが、それもまた、楽しい作業のひとつの形ではあります(それほど違う世界でそれぞれ生きてきた2人にとって果たしてラストは「再会」と言えるのか、という疑問はありますが…)。
203X年脳死説の未解決問題:月面世界は「現実」なのか
もう一つ、C世界はほんとうに現実とは限りませんよね? という問題も残っています。確かにラストシーンだけCGから手描きになっていることは監督も強調していますが、だからといってあれが現実とは決して明言していない。どうも「現実なのか? どうなのか?」と考えるきっかけとして手描きにしているふしがあり、まんまと乗せられている自分がここにいます。
C世界もデータで、実はD世界、E世界…と続いていたとしたらそれはそれですごくワクワクします(その場合、C世界に狐面が現れてナオミの首を絞めるというバッドエンドになるリスクはありますが^^;)。実際、スピンオフ『遥か 遥か先』はそのような世界観を感じられますよね。それにC世界の月行さんもナオミも、結局はそこが現実だという確証は絶対に持てないはずなんです。もしかすると狐面が出てくるかも…と思っていておかしくない(B世界の千古さんたちが湧き出す狐面を早い段階で受け入れていたのも同じ感覚なんだろうなあ)。
そのような無限に続くデータ世界としての解釈として、たとえば二重螺旋説もとても「強度」のある説です。これを否定する材料を自分は持っていません。もしかすると「現実」なんてどこにもないのかも知れませんね。
203X年脳死説の未解決問題:狐面が結局謎過ぎる
狐面は結局いまだにわけがわからんですね…。B世界で一行さんを絞め殺そうとした狐面はもともとB世界を守っていたのか、それともA世界からやってきたのか。前者ならそれを同じB世界の千古さんが停止できてしまう道理がわかりませんし、停止しちゃってもB世界はなぜ普通に存続できてるのか(B世界も切り離されて開闢してる説あり)。後者ならB世界の狐面はなにサボってんだって話だし(あれだけ街が破壊されて人が2人行方不明になっても何もしない)、A世界の狐面が一行さんを元の世界に帰したあともB世界にちょっかいを出し続ける理由が不明なんですよね。
監督発言をどうとらえるか
2019年10月14日、名古屋での舞台挨拶において、こんなやり取りがあったらしいです(自分は未参加です。以下は複数の方の証言から再構成した意訳であり、正確な記載ではないので注意)。
この発言に、5ちゃんねるハロワスレの2037年脳死説支持者には衝撃が走りました。ひえー、思いっきり落雷に遭ったと仮定しちゃったよ。…まあ、落雷でなくて何か別の要因で脳死になったのかも知れないなー、とここは非常に都合良く解釈しています(笑)(*3)。
いっぽうで、今年発表されたアニメイトタイムズのインタビューではこんな発言も。
おおっと、今度は2027年脳死説(落雷派)にクリティカルヒットです(笑)。しかしこちらも落雷に限らなければまだまだ芽はあるわけです。
だんだん遠未来説が信憑性を帯びてきた気がしないでもありませんが、まあ監督もあくまでも「受け手の想像に委ねる」というスタンスを貫いておられますので、各自好きなように解釈しちゃって良いんじゃないでしょうか。逆にここを起点として監督の発言と矛盾しない解釈を考えていく、というのも面白いと思います。
あなたの「しっくりこない」はどこから?——それが考察の原動力になる
さて、無駄に長かった記事もようやく終わりに近づきました。これまでTwitterや5ちゃんねるで2027年脳死説や2037年脳死説、それ以外の解釈の方々と議論し、自分自身も何度も揺れ動いたなかで、あるフォロワーさんから指摘され、自分自身も深く頷いた気づきがあります。
あなたの「しっくりこない」はどこから?
風邪薬のCMみたいな文字列ですが、要は「違和感を感じるポイント」、言い換えれば何を受け入れられて何を受け入れられないか、は本当に十人十色で、またそれこそが考察や解釈の出発点なり判断基準なりになっているのだ、ということです。
自分が2027年脳死説を採用しなかったのは、以下のようなうっすらとした違和感を感じたからです。なぜB世界とC世界はあれほどまでに違うのか? ナオミの10年間は月行さんが作り出したシミュレーションであり、ただの幻なのか? 26歳の精神と16歳の脳は同調するのか?
一方で、2027年脳死説を採用する方々は2037年脳死説に対してまた独自の違和感を持たれるようです。たとえば「B世界の高校生の直実が傷心のうちにリカバリによって消される」ことがしっくりこないというご意見を目にしました。自分はそこは普通に受け入れていたのですが、それはあくまで自分の感じ方であって、受け入れがたいというその心情もとても良くわかります。
また他にも、たとえば以下のような「違和感」を203X年脳死説に対して表明してくださった方々がいらっしゃいました。すごく説得力がありますし、なにより203X年脳死説を支持する立場からは気付きにくい視点にハッとさせられます。2027年説にかなわない部分もたくさんありますね。
結局、観客それぞれに「ゆずれない点」があって、個々人がそれに起因する「違和感ポイント」を解消するように論理を組み立てていっているのだと思います。そして独立に構築された世界観がそれぞれちゃんとある程度の整合性を保てているのも、それだけの考察に足る材料があらかじめ作品に仕込まれているからでしょう。
そろそろまとめに入りましょう。誤解を恐れずにいうと、2027年脳死説と2037年脳死説はざっくり以下のような志向性を持っていると思うんです。なんか身も蓋もない感じですが…。
自分は大人ナオミに感情移入してしまう世代です。だからこそB世界や『ANOTHER WORLD』に思い入れがあって、その扱いの軽重はゆずれない。ナオミの10年間に意味を見いだしたいと思っている。だから、203X年脳死説にどうしても強く惹き付けられる(自分がこじらせヘタレぼっちなのも、B世界にシンパシーを感じる理由のひとつかも知れませんw)。
いっぽう、高校生のなおるりカップルに感情移入する人々は、B世界の高校生の直実が存在を消されてしまう2037年説を受け入れがたく思い、高校時代や月面世界の2人に新たなドラマの想像を羽ばたかせることの出来る2027年説に安らぎを感じる。そして『if』の三鈴の幸せを願わずにはいられない。
量子記録装置アルタラの綴りは”ALLTALE”。ALL TALE——すべての物語。観客の数だけ物語がある。それぞれが「自分の観たい世界」を紡ぐことができる。そして、可能な限り創作要素を廃して自分の「観たい世界」を考えてみたものが、今回紹介した203X年脳死説なのでした(創作要素をガンガン入れてみた「観たい世界」も別途存在します。しかし、それはまた別の話)。
* * *
皆様のガチ考察・ガチレビューリンク集
最後に、ネットで見かけたガチ考察・ガチレビューへのリンクを貼っておきます!
本編はifベースの2027年説ですが、コメント欄の大議論がめちゃくちゃ面白いです↓
ポストモダンの観点からの考察が深いです↓
有名映画ブロガーさんだけあり過去作言及も詳しく、熱量ある解釈です↓
2037年説ベースのようです。カラスの考察が面白い↓
ifベースの2027年説です↓
2037年脳死+全部データ世界説で、C世界にも狐面が現れたと推測。リカバリの可能性にも触れています↓
C世界の中にA世界とB世界が並立するという独自世界観が面白い↓
同調の考察が面白い↓
GIZMODOさんのアツいレビューにこちらもシビれ散らしました↓
カラスについてなど動画と文字で考察しています↓
はてなブロガー達の考察エントリ集です↓
後半のB世界の一行さんの行方に関する考察が結構深い↓
メタフィクションとしての考察が秀逸です↓
3DCGと聖地巡礼の観点からとても説得力のあるレビューです↓
2027年説と2037年説のわかりやすい図解です↓
ちゃんと2027年説と2037年説の可能性を挙げたうえで後者を採用↓
2037年説ベースで6回に渡って細かいところまで考察されてます↓
初回でここまで考察できるのすごい↓
2027年説ベースでB世界の大人ナオミのデータの必要性を説いている↓
2027年説ベースでその利点と限界にも触れている↓
2037年説ベースのツボをほぼだいたいちゃんとおさえた考察↓
映画鑑賞後の考察(2037年説ベース)にifベース考察を加えています↓
ifベースで考えた時の違和感は自分と似ている気がする↓
ナオミ脳死の原因について説得力ある考察↓
すべて月行さんが計画していた内容という独自考察で完成度が高い↓
2037年説ベースのオーソドックスな考察↓
2037年説だけど月行さんがA世界の2人を自由にすることまで考えていたというエモい考察↓
月面世界が自動修復されない理由が面白い↓
2037年説で「心が壊れ」「自己嫌悪」でナオミ脳死という説↓
B世界とC世界の差異という矛盾から月行さんの恐ろしさを導き出すw↓
このnote記事を書いた日にも考察が盛り上がっていました↓
自分用メモとしてまとめたもので、主にフォロワーさんと自分の考察談義です(この記事のネタ元にもなっています)↓
5ちゃんねるの考察スレ(他にまったりスレもあるが最近は区別されなくなってきている)。荒れてますが考察はかなりガチでなされてます。自分もいますが、当時から同じことばかり言ってるなあw↓
海外ガチ勢の考察合戦です(多くは違法動画ベースだと思うので早く公式課外版が出ないかなあ)↓
ifベースの2027年説なんだけど、アルタラは本来全ての可能性を内包した世界であって、2047年の人類はそれを利用できるようになったから記録と差異があるっていう考察すごくいい↓
自分の記事に触発されて書いて下さったという記事。noter冥利に尽きます。自分の記事より断然わかりやすいし着眼点がとても面白い↓
リンクは以上です。
*1:まあ、本家本元のイーガン的宇宙論はかなりぶっ飛んだ極北的思想だったりします。ハローワールドくらいのマイルドさが自分にはちょうど良いです。
*2:どうも自分は、スマホの機種変で一部のデータを移行する時のイメージ、あるいはバージョン管理システムにおける複数ブランチのマージのイメージで「同調」を捉えているような気がするのです。そしてさらにその根底には、「相補的神経修復は名前のとおり相補的なものであり、完全な上書きインストールではない」という(あまり根拠のない)感覚があります。
上書きではなく一部の必要な情報が同期される、さらに移行先のOSのバージョンが移行元より古いとコンフリクトが発生する、という感覚が、同調の条件や年齢が若い脳への同調不可というイメージを生み出しているように思います。2027年説の「16歳の脳に26歳の精神が同調する」ことに一種の気持ち悪さを覚えるのは、IT寄りの発想なのかもしれません。
実際には「器と中身」のような心身二元論は科学的には否定されつつあるわけで、医学・生物・化学寄りの方はおそらくまた違った感想をもたれるかと思います。特に、野﨑まど作品を読み込むほど、実は「上書きインストール」が正しいのかもしれないという気はしてきます。この辺の話を語り出すと長くなるので、またいずれ。
*3:5ちゃんねるでは、この発言に対して監督を逆恨みするような意見も2037年脳死説支持派の中から出たりしまして、2037年脳死説の支持者はみんな同意見かと思われたのは少々きつかった(苦笑)。個人的にはあの監督発言には感謝しているんですよね。それまでのハロワスレは『ANOTHER WORLD』の公開を経て2037年説が主流になりつつあったのですが、その陰で小数意見が押しやられていたことを気付かせてくれました。「2027年説はただの妄想、『if』はただの公式二次創作という風潮がつらかった。だからこの監督発言は嬉しい」という2027年説支持者の方の意見を読んでハッとさせられたのを覚えています。
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