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自分の中に起こるそのときを待つ。

小さい頃から持っていた「劣等感」と「罪悪感」。
もうそろそろこれらを手放すタイミングが来ているようだ。

一番最初にそれを感じたのは小学校3,4年生のころ。

あるとき採点済の答案用紙が返された。
確か算数か理科。
私は理数系が壊滅的にできなくていつも点数が悪かった。
そのときも点が低く「あぁ…またか…あかんなぁ、私…」と暗い氣分になっていた。

今から思うとその頃から「勉強のできない私はダメなヤツ」=「劣等感」が根づいていったように思う。

親からそのことでとがめられたことなどなかったのに勝手に自分でそう思い込んでいった。

そしてそれを助長するだけでなく、「罪悪感」をプラスする出来事が起こった。

給食を食べていると後ろの方で口の悪い男子がある女子に向かってこんなことを言っていたのだ。

「うわぁ、こいつテストの点数悪かったのに給食食べとぉる~」

ドキッ!! 

私は自分のことを言われたのかと驚き、そして

「テストが悪かったら給食食べたらあかんのや…」
「成績が悪い人は給食を食べる価値がないんや…」

とショックを受けた。

それ以来私は【 生産性のない人間は存在価値がない 】という固定概念を自分の中に植えつけ生きてきた。

学生の頃は勉強を、社会人になってからは仕事を一生懸命してきたのは、自分が存在していい人間だということを自分に証明するためだった。

イヤなことでも頑張ったのは、そうしなければ存在してはいけないと思っていたから。

自分との向き合い始めた当初、この思い込みがあることには氣づいていたし、それが自分を苦しめている根源だとも分かっていた。

それでも中々それが真実ではない、と心の底から思えず。

ところが最近になってそれは、自分が自分に貼り付けたただのレッテルだったんだなぁ、ということが自分の中から湧いてきて、「何もしていなくてもただ生きているだけで価値のある私」という真実の自分に戻って行ってる感覚がある。

今は「レッテルだらけの自分」から「ホントの自分」への移行期で、だから落ち込んだり元氣になったりと心が揺れ動くのだろう。


結局のところ自分を小さくしてしまっているのは自分だし、それに氣づいて枠をはずせるのも自分しかいない。

苦しいときは「そんな思い込みすぐにでも手放したい」ともがくのだけど、もがけばもがくほど苦しくなり、どうにもならないことへの苛立ちがつのるばかりだ。

それよりも待つこと。

自分の中に自然発生的に起こる「ホントの自分に氣づくとき」を信じて待つ。それしかないんだと思う。

しんどいときはそんな風に思えへんけど。

ゆっくりだけどちゃんと進んでる。

今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。





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