家族を愛せなくて苦しんでる人たちへ
前回の記事で家族に対する思いに縛られている人について書きました。
今日は、その中でもうちょっと深堀したい箇所があったのでそのことについて書こうと思います。
人はなぜ家族を愛せないことにそれほど苦しむのか?
という部分です。
ここを注意して観察してみると、この言葉の裏には
「家族を愛せないことが苦しい」のではなく、
「家族を愛せない自分が許せないから苦しい」という深層が見えてきます。
ではなぜそんな自分を許せないのか。
そこには社会通念や一般常識において「人としてこうあるべき」というひな形に収まる教育をされてきたからです。
・家族仲が良いことが幸せの象徴だ
・家族仲が悪いことは不幸だ
・子供の面倒は親が見るべきだ
・親を喜ばせなくてはならない
・年をとったら子供が親の面倒を見るべきだ
などなど。
私たちはこういった定型文をあらゆる場面で刷り込まれ育ちます。
あたかもこれが正解であるように。
なので疑うことを知りません。
というか疑う余地がない程みなの中に「当然」のこととしてインプットされています。
それゆえ無意識下において私たちは、ここに背くことは「人として失格」という烙印を押されるほど許されないことになっています。
だから心の中にある「父がキライ」「母がキライ」「兄弟がキライ」「子供がキライ」という思いにフタをして必死で「好きなフリ」をします。
そうして自分の氣持ちをごまかしながら生きるのですが、心は本当を知っているのであらゆる場面で「苦しいよ」と言ってきます。
そこに氣づかないフリをして一生を終える人もいるし
私のように人生のある時点で強制終了が入り、自分と向き合わざるを得ない状況になって初めて自分の本音に氣づいていく、という道を選ぶ人もいます。
どちらがいい、悪いではなく、それは生まれてくる前にあらかじめ魂が決めていることなんだろうと感じています。
ホントの自分に還ることを選択した人にとっては、そこがスタートラインです。
そこからは社会に植えつけられた洗脳を少しづつ解いていく段階に入ります。
最初はとてもしんどいです。
だって自分は社会的に許されないヒドイ奴なのですから。
私は、幼い頃から父親がキライでした。
そしてそんな自分もキライでした。
罪悪感もいっぱい持っていました。
そんな時セラピストさんに言われたのが
「お父さんをキライなことは全然悪いことじゃない。
にんじんやきゅうりがキライなのと同じレベルでキラっていい」
という言葉。
目からウロコでした。
そんなに軽く考えていいことなの?と。
私は人として最低の人間じゃなかったの?と。
安堵の氣持ちが一瞬湧いたものの、実際のところはすぐには受け入れられませんでした。
今から思うと罪悪感を持っていたかったんだと思います。
私は父がキライです。
それを悪いことだと思ってます。
だってそう思うことが人として正しいあり方だから。
親をきらうだなんて、極悪非道な人間のすること。
私はそんな人間ではありません。
だから罪悪感を持っているんです。
こんな思いが根底にありました。
罪を背負うことで私は世間に許される、そう思っていたのです。
これはイコール、社会の中で認められる自分を演じてる段階です。
その頃の私はまだ「自分の世界で生きる」ということを知らなかった、そんな世界があることすら氣づいていなかったのです。
そこから少しづつ自分の心と向き合い、信頼のおける伴走者とともに社会枠から自分枠へ移行していきました。
そのプロセスは山あり谷ありでした。
いつになったらラクになれるんだろう…と鬱々する時期も長かったけれど
でも確実に言えるのは、その時は必ず来るということ。
人によってそのタイミングはそれぞれだから焦らなくて大丈夫です。
今だからこんなことを言ってますが、私も最初の頃はラクになりたい一心で
「全然進んでる氣がしない。いつまでたっても変わらない…」
そんなことをしょっちゅうセラピストさんにぶつけていました(笑)。
だから苦しみの渦中にいる人の氣持ちはすごくわかります。
今のあなたのツラさは、今後あなたの人生の土台となります。
土台を固めるのに時間をかける程、あなたは自分の世界で生きやすくなります。だから大丈夫。
世間の意見に惑わされないで。
家族を愛せなくても何の問題もない。
そんな自分に罪を背負わせないで。
あなたは最初から許されています。
スタエフでもお話しました。
よければ聞いてみてください。