わたしはわたしで十分。
人は自分のことはよくわからない生き物だ。
それは魂が地球に転生してくるときにそのような設定にしていて、人を鏡にして自分を知る、というゲームをしているのだと思う。
先日、心の学びを共にしている友人2人とZOOMでおしゃべりをした。
彼女たちは鋭い感性の持ち主で、植物と会話しながら作品を生み出すアーティストだ。
2人が創る作品にはそれぞれの個性が色濃く反映されていて「素晴らしいなぁ」といつも感心しているのだけれど本人たちはその真価に氣づいていない。
それどころか自分たちの価値を小さく見積もっていて、世に自分をアピールするのが苦手だ。
まぁその場に参加しているということは、わたしも同類なわけで。
3人して互いを見ながら「人のことはよく見えるのにね」と笑い合った。
自分の中にあるものを作品として表現する人たちというのは、感性の世界で生きているので現実世界でのあれこれが苦手なように感じていて。
その代表的なものがお金。
3人ともに自分たちの作品を市場に売り出し、お金という価値と交換する仕組みづくりが下手だ。
というかどうやればいいのかさっぱり分からない。
それを3人共通のメンターにたずねると「やり方ではなく “あり方” だよ」と言われた。
あり方。
それがどういうことを指すのかイマイチ分からず、ずっと考えていたけれど彼女たちを見ていて分かったことが少しある。
それは「自分の価値を認識する」ということ。
外ではなく内。
人からの評価で自分を判断するのではなく、誰から何を言われようが「わたしは素晴らしい」と自分で自分のことを思えているか。
それが外側に反映されるだけのことだよ、とメンターは言ってるのではないかと思ったのだ。
わたしたちが生きている世界は、心が先、現実が後。
内側で感じていることが形となって現れるのが現実世界だ。
そこには時差がある。
だからいつ、どんな時も、誰といても「わたしはわたしで十分だ」と自分でいることに満足していれば、それが形となって現れてくるはずなのだ。
なのに目先の不安に捉われて、それを回避しようと自分の価値を無視した行動(わたしには足りない、わたしは十分ではない)を埋めようとする動きをしてしまうから現実が好転していかない。
恐れからは何も生まれない。
生まれるのは愛からだけなのだ。
特別なことはなにもいらない。
ただ淡々と自分であり続けるだけ。
どんな状態の自分であっても、わたしはわたしに満足しているわたしでありたい。
彼女たちとの会話を経て今そう感じています。
今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。