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あんたにもらわんでも私らみなありますねん。

「なんかカタイんだよなぁ」

自己紹介の後、軽いジョークを飛ばすもほぼウケず、会場が微妙な空氣に包まれたとき彼はこう言った。

セミナーが始まり、みな真剣に彼の話を聞いていた。
もちろん私も。

私は「知らないことを知りたい」からその場に参加した(他の人も同じじゃないかな)。
だから話を聞いてるだけで十分だったのだけれど、話す側の彼は私たちの静かに聞く姿勢に満足できなかったようで、話しの合間合間に「なんかカタイんだよなぁ」と言いながら何度も首をかしげた。

彼の話によると他の都市でのセミナーは参加者が色々質問を投げかけてきて会話のキャッチボールが生まれ、場が大いに盛り上がったんだとか。

そんなこと言われてもねぇ。
反応の仕方は人それぞれやん。

その後も彼は「俺、色々面白い話もってるんだよ。盛り上がってきたらいい話するんだよ」などと私たちに発破をかけるように言うのだけれど、場はあたたまらず、私も徐々に冷めていった。

セミナー後半の実践部分で「やり方がよく分からない」と話す参加者を指導するためその人のお腹に手を触れた後、自分の服でその手を拭きながら「汚れちゃった」と冗談めいて言ったセリフが私にとどめを刺した。

あかんわ、この人。

今まで色んな講習会に参加してきたけれど、講師のことをそんな風に思ったのは初めてだった。


これは少し前、京都で行われた呼吸のセミナーでの出来事。

指導者はご本も数冊出されている方で、普段は東京を拠点に活動されており関西での講習開催を知り、喜んで出かけて行った。

で、この結果。

彼の健闘むなしく最後までよい空氣に包まれることなく会は終了した。

その時以来「彼の何が私たちの心をOPENにさせなかったのだろう?」と考えていて、その答えがようやく言語化できたのでシェアしたいと思う。

それはズバリ、彼は彼自身の中に感じる「ない」を押しつけてきたからだと思った。


彼は私たちが静かに聞く様が、自分の言うことが伝わって「ない」と感じたのだろう。

講師としての力量を発揮できて「ない」と感じる不足感を、私たち聞く側に「埋めてよ」と強要したのだ。

「もっと質問してきてよ」の裏には「何でも答えてあげるから」「面白い話してあげるから」という意図があり、この「あげる」という姿勢にみな引いたのだと思う。

だって与えようとするということは、受け取り手のことを「持ってない人」と見ているということだから。

講師の自分が教えて「あげる人」で、受講生の私たちは「与えてもらわないとダメな人」。これは必然的に「私が上で、あなたは下」と言っているようなものだ。


そうじゃないねん。
私たちは立場、性別、年齢、国籍に関係なくみな同様に「持っている」。
誰に何をもらわなくてもみな同様に「ある」。


真の指導者というのは「あなたも私もみんな “ある” 」が分かってる人。

だからそこに上下関係は生まれないし、そんな人といると自然とゆるんでしまうのは、自分や他者への「尊重」が根底にあるからだと思う。

今の状態がどうであれ、「そのまんまでいい」「今のまんまの私(あなた)でいていい」という絶対的な存在肯定がそこにはある。

それが安心につながり、自然と心を開かせるのだ。


私が尊敬する先生やヒーラーさんはみなそうだ。
「教える」とか「与える」とか「癒す」ではなく「シェアする」という姿勢がフラットでとても心地いい。

彼の敗因(勝ち負けではないけれど、あえて敗因とする)は、「ない」が前提であったこと。

それを敏感に私たちは感じ取り、ゆるむことができなかったように思う。

特に京都という土地柄。
気位の高い京都の人たちは「あんたにもらわんでも私らみなありますねん」と思っていたのでは笑?

「人の前に立つ人はみな人格者」という思い込みの枠をはずさせてもらういい経験をさせてもらった。


今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。




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