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「手放そう」とする心の奥底には。

不要な思い込みを手放す。

心の学びをしているとよく出てくる言葉ですよね。

私の解釈では「手放す」には「受け入れる」という意味合いが強く含まれていると思っていて、そこをちゃんと理解することが大事だなと感じています。

以前に同じようなことを書いていたにも関わらず、表層的な「手放す」に惑わされ、ここ数日苦しくなっていました。


あぁそうだった、そうだったと思い出しリマインドの意味も込めて書いてみようと思います。

少し前の記事に書きましたが、ここ最近「劣等感」を刺激されることが続いていました。

自分の中にあるネガティブな感情が出てきたときは「手放し時」と思っていて、長らく持っていた「劣等感」についてもこの機会に手放したいと考えていました。

私の考える手放せた状態というのは「捉われなくなる」ということで、たとえばこれまで「劣等感」を感じていた状況に遭遇しても心が反応しなくなるということです。

が、捉われなくなるどころか余計に自分の不の部分を強く感じるようになりさらにツラくなっていきました。

なんで?

そこで氣づいたのが、手放そうとする心の奥底に「劣等感」を持つ自分を「ダメな私」として扱ってる自分がいました。

そんな自分をこれ以上感じたくないから手放そう(捨てよう)としていた。
だから余計に引っ張られたのだと思います。


手放すというのは「解き放つ」ことであり、捨てることではなく。
「解き放つ」とは、そこに何のジャッジも入れず自由にさせること。
つまり手放すとは、そのまんまの自由な状態を「受け入れる」ことだと思うのです。

劣等感を持っている私はよくも悪くもない。
ただそういう感情を持っていたというだけ。

そう思えてはじめて手放しが起きるのだと感じました。

長らく「いい子ちゃん」をやってきたので、どうしても「ズルい自分」や「汚い自分」を認めたくない。
そんな思いが心の奥底にへばりついています。

それはつい先日も見つけたところでした。


だんだん暴かれていく私の本性(笑)。

でもそれこそがホントの自分なんだという氣もしています。

私たちが世間に見せている顔は「外ずら」でしかない。
いい人に思われたいがためのただの仮面で、本当はもっとドロドロしていたり、ネガティブだったり。

それが人ってもんじゃないかと思うのです。

そしてその部分にこそ本音が隠れてる。
だからホントはとっても大事な部分なんですよね。

人は醜いものにはフタをしたがるので、そういう部分をキラい、なかったことにしたいんだと思います。

でもキレイなだけの人なんていないし、むしろ不の部分を隠さずさらけ出してる人の方が人間味があって魅力的ですよね。

私もそんな人になりたい。

見たくない部分にこそホントの自分がいる。


ちゃんと見つけて、見つけたら大事にして、魅力に変えていきたい。
そんなことを強く思ったここ数日でした。


今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。






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