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それを持っているのは「ホントのわたし」じゃない。
今日1月30日はわたしの誕生日です。
朝から通常運転でいましたが、友に今の自分の氣持ちをメールした後に氣づきがありシェアしたくて書いてます。
2日前に氣学の勉強会があり、そこで誕生日のサプライズパーティをしてもらいました。
2カ月に1度のその会は氣心が知れた仲間たちと交流できる大好きな場でいつも楽しみに出かけるのですが、その日は別のクラスの人たちとの合同になり、いつものメンバーと全然話ができずに終わってしまいました。
なんか淋しいなぁ、、、と思いつつも、勉強会後の恒例のごはん会に仲間の1人と行くことになっていて、そこで色々話をしようと彼女とお店に。
そしたらそこに仲間のみんなが待っていてくれて
「ちえちゃーん!お誕生日おめでとー!」
とにっこにこの笑顔で出迎えてくれたんです。
みな手には「ちえちゃん大好き」とか「LOVE♡」なんて書いてある自作のうちわ(推しのライブなどで応援する時に使うあれ)を持ちフリフリしてくれて。
ビックリしたのと感激で涙がダーッ。
みんなのあたたかさが沁みて胸がいっぱいになりなかなか涙が止まりませんでした。
食事をしている間も、それぞれがこのサプライズを実行するにあたっての裏話をおもしろおかしく話してくれて「ああ、ありがたいなぁ。うれしいなぁ。幸せやなぁ♡」と満たされた思いで帰路につきました。
次の日の朝、仲間からもらったプレゼントとメッセージを読んでまた泣き、友から送られてきた昨夜のパーティの動画を見てさらにまた泣き「どんだけ泣くねん」と自分にツッコんでいたのですが、涙の裏に「淋しさ?」もしくは「惨めさ?」に似た感情が隠れているのに氣づきました。
なんやこれ?
その正体が何かわかるのに時間はかかりませんでした。
「ちっぽけな奴」「孤独でかわいそうな奴」という自己認識。
わたしはいつも自分のことを心の底でそんな風に思っていて。
このことにはずっと氣づいていて、そんな自分をイヤだなぁとも思っていました。
なのでみんなからお祝いしてもらってもちろん「うれしい!」のだけれど、その裏には「こんなわたしのためにここまでしてくれるんや」という思いも大きかったのです。
で、大切なのはここからで。
これまでなら「孤独で可哀そうなわたし」をやっていることでわたしは何を得てる?と心を深掘りしていくことをしていたのですが、それをするのをやめました。
なぜなら分析することで得られる氣づきはあくまで左脳的理解に過ぎないと氣づいたからです。
言葉や思考による氣づきは、その時はハッとしても自我の領域から出ることはできないのでは?と。
あくまで個人的見解ですが。
ではどうするか?
「ちっぽけな奴」「孤独でかわいそうな奴」という自己認識は、
ホントのわたし(自己)が持っているのではなく『自我のプログラミングによって勝手に起こっていること』という視点を持つことです。
パーティにはいなかった別の友人に「お祝いしてもらってうれしかったんやけど、根底にこんな氣持ちがあるのに氣づいた」というメールをした後、この氣づきを得ました。
「あぁこれは自我の仕業やったわ。ホントのわたし(自己)が持ってるんじゃなかったわ」と。
そこで一氣にゲームのキャラ目線からプレイヤー目線に変わりました(⇩関連記事です)
ここへの氣づきって、すごく大きな分岐点になると思っていて。
「わたし」がそんな思い込みを持っている、という視点ではどこまで深掘りしたとていつまでたっても自我の領域の中からは出られない。
そうではなく視点(見ている次元)を変えるのです。
わたしたちの多くが「自我」に飲み込まれ、それをホントの自分(自己)だと思い込んでる。
自我と自己の密着度が強すぎてそのことにすら氣づけないでいる。
それが左脳過剰の現代人だと思っています。
自我の領域から出るにはまず自我のプログラミングについての理解を深めること。
その上で目の前の出来事に反応したときに自分を俯瞰してみること。
するとわたしたちの多くの行動が自我の怖れや不足感による自動反応だと氣づいていきます。
あ、あと「今ここにいる」ための呼吸や身体の感覚とつながることも大切ですが。
誕生日に起きた氣づき。
わたしにとっては大きなギフトになりました♡
今日も読んで下さりありがとうございます。
また書きます。