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家族のこと。もっと氣軽に。

朝食はパンが好き ➡ ごはんは嫌い。
飲み物は紅茶が好き ➡ コーヒーは嫌い。
お風呂はぬるめが好き ➡ 熱いのは嫌い。
枕はかためが好き ➡ やわらかいのは嫌い。
下着は白が好き ➡ 色物は嫌い。

私たちは自分だけの好みというものを持っていて。
上記のような数限りない「好き」「嫌い」の組み合わせの集大成で「個性」というものができあがっています。

そう考えると「好き」とか「嫌い」というのは、個性を知るためのひとつの要素でしかなく、「好き」が善で「嫌い」が悪ではありません。


前回の記事にも書いたように、私たちは「嫌い」を表現することがまるで悪いことのような固定概念を持っています。

中でも嫌ってはいけない対象の最たるものが「家族」ではないでしょうか。

家族を嫌ってはいけない。
家族を嫌いだなんて自分は冷たい人間だ。
家族はみな仲良くあるべきだ。


そんな誤った思い込みに苦しんでいる人がすごく多いなぁと。
私もそのひとりだったのでよくわかるのですが、みな「家族」というものに重い思いをのせ過ぎなんです。

家族とは、自分の課題に氣づかせてくれる最も身近な人たち。
だから氣が合わなくて当然なのです。

私たちは生まれて来る前に今世で何を学びたいか、どんなことを経験したいかを自分で決めて生まれてきます。

それらの学びを遂行するには、それに氣づかせてもらえるようなメンバーでなければならない。

ということは自分との間に違和感を覚える相手である必要があります。ゆえにそりが合わないという事態になってくる。

たとえば私の場合。

私は幼いころから父の自己中心的な「わがまま」な部分が大嫌いでした。
どんな場においても自分の心地よさを最優先し、他の家族がどう思うかなんてお構いなし。


「なんて自分勝手なんやろう! こんな人にだけはなりたくない!」

と思ってきたのですが、よくよく見てみると私は父を上回るわがままさを持っており、そんな部分を封じて生きてきました。
「わがまま」は悪だと思ってきた。

私は自分に「好き勝手に振舞う」ことを禁止してきたので、それを難なくやってのける父の身勝手さが許せなかった。

裏を返せば、私は父のようにわがまま放題にやりたかったのです。

そんな私の中にある私の本質でありながら自己否定している要素を父は見せてくれていた。


自己中であることは悪いことではない。
自分を一番に考えることは自分を大切にすることなんだよ、というのを徹底して教えてくれていたんですね。

それがわかってはじめて長年抱えてきた父への嫌悪感が消えました。

これは母や妹に対しても同様で。
彼女たちとの間に感じていた摩擦は、私の中にある「否定している自分」を見つけたことでその思いは解消されていきました。

家族はホントの自分に氣づかせてくれる人たち。
だから違和感を感じて普通だし、嫌いと思ってもいい。

苦しくなるのは「家族を嫌ってはいけない」という謎の固定概念にしばられているから。

私もその概念にとらわれて苦しんできました。
そんなときメンター2人に言われてあっけにとられた言葉があります。


父が嫌いだと苦しむ私に対して
「お父さんのことは、ピーマンが嫌いというのと同じレベルで嫌っていい」


家族への思いに縛られて苦しむ私に対して
「家族は昔の学びやの友。学ぶ期間が終わったら離れていい」

それぐらい軽くとらえていいということ。
家族のこと、もっと氣軽に嫌ってもいいんですよ。


今日も読んでくださりありがとうございます。
また書きます。



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