尊厳を思い出すとき。
ここ数日、劣等感を刺激されることが多いです。
前回の記事にも書いたようについ最近、「お金の劣等感」を見つけたところ。
その流れからか昨夜はずっと昔からのものを思い出す夢をみました。
私は夢で自分の深いところにある感情に氣づかされることが多いのですが昨日もそうでした。
それは若い頃、編集プロダクションに勤めていたときのこと。
私と先輩とボスの3人でクライアントの会社に打合せに行きました。
相手先は大きな企業で、私たちはそこから仕事をもらっている下請けの立場。
打合せに行くと、先方の担当者が「あれ?」という感じで出てきて、ミーティングがセッティングされていない様子でした。
原因は私の連絡ミス。
「うわぁ。やってもた~」という罪悪感と共に「やっぱり私はできん奴や…」という劣等感を強く感じました。
が、ボスはその事態に全く動じることなく飄々としており。
私を責めるでもなく、クライアントに媚びへつらうわけでもなく、自然な感じで「じゃあ打合せを始めましょうか」と言い放ったのです。
私はその姿をいいなぁと感じました。
「私のボス」でもなく、「クライアントの下請け」でもなく、その人がその人然としてそこにいる姿がとても美しかったからです。
夢はここで終わり。
目覚めたとき、当時沢山の劣等感を抱えて生きていたことに氣づき、なんともやるせない氣持ちになりました。
社会人1年目で何も分からなくて当然なのに出来ないことがあると自分を責め、些細なミスに自己嫌悪で落ち込むということをよくやってました。
なぜそんなに大きなコンプレックスを抱えていたのか、元をたどるとそこには育った家庭環境があります。
私の両親は、子供を「1人の人間として尊重して扱うこと」ができない人たちでした。
特に母からは小さいとき、楽しみにしていた約束を簡単に破られる経験を何度もしていて、氣持ちをないがしろにされてきました。
自分の心と向き合うことを知らなかったころは、そんな経験も「お母さんも忙しかったから」と自らの氣持ちを納得させてきましたが、心の底には「ちゃんと約束を守ってほしかった。私の氣持ちを大切に扱ってほしかった」という本音が隠れていました。
そういった満たされなかった氣持ちに氣づき、少しづつ癒すことをしていったとき、時間はかかりましたが母への恨みは消えました。
彼女もまた自分を尊重してもらえず育ったことを知り、母を親としてではなくひとりの人として見られるようになったからです。
私の根源にある劣等感は子供のころに「自尊心」を育んでもらえなかったことが原因でした。
何かと比べて優劣をはかるあり方ではなく、「ただ自分が自分であるだけで尊重される」という扱いを受けずに育ったゆえ、自分の中にゆるぎない自信がないのです。
だから外側の出来事に左右され、自分の存在価値が揺らいでしまう。
そりゃ苦しいわけです。
魂はそれが事実ではないことを知っていて「もうそろそろそのあり方を手放すときがきてるよ」と言われてる氣がしています。
それに氣づいたのは今朝。
夢見が悪かったので音楽でも聴いて氣分を変えようと選曲していると…。
続きはまた書きます。
ここまで読んでくださりありがとうございます。