理由はない。それがホント。
私たちは何かを選択、また行動するとき、そこに理由をほしがる。
なぜそれを選んだか?
どうしてそれをするのか?
そこにもっともらしい答えがないとその選択や行動は正しくない氣がして却下され、ちゃんと説明できる理由がある方を選ぶ、ということをしがちだ。
でも心の底から湧き上がるホントの望みに理由なんてない。
なぜなら理屈じゃないから。
ただやりたいと感じた。
なんかいいなぁと感じた。
それで十分。
私たちの本質は肉体でなく魂。
魂からのメッセージは、感情や直観を通して肉体の私たちに伝えられる。
なので「好き、嫌い」を選択の基準にした方がいいし、「なんとなく」といったヒラメキを信じた方がいい。
でも目に見える物質に囲まれて暮らしてる私たちにとっては、そんなあやふやなものは「不確かだ」と信じることができず、ちゃんと根拠があって説明のつくものの方に重きをおいてしまう。
そんなことを繰り返しているうちにいつしか魂からの声が聞こえなくなり、つまらない大人になってしまうのだ。
20代後半、オットと2人でバックパックひとつでアジアを2カ月旅したことがある。
旅に出る前、両親に旅行へ行く旨を説明しに行った。
私たちはこれから始まる旅へのワクワクな氣持ちとともに旅の日程を話すと、開口一番父が
「何のために行くんや?」と言った。
その問いに対する答えに一瞬言葉につまったのを今でも覚えている。
あまりに想定外の言葉だったから。
何のためって?
行きたいから行くんやん。
まだ見ぬ世界を見たいから行くんやん。
と思ったけれど、そんなこと言っても分かってもらえないと瞬時に判断し、口から出まかせに何か答えたのだった。
2カ月間のアジア旅行は最高で!
まだ携帯電話のない時代。
「地球の歩き方」という本を片手に現地の人や同じバックパッカーたちと情報交換しながらタイを拠点に、ベトナム、インド、ネパールと4ヵ国まわった。
各国で安宿に泊まりながら、飛行機や電車、バスを乗り継いで旅した思い出は忘れられない宝物になった。
当時のことを思うとき、あの頃の私はまだ魂の声を聞けていたのだなと感じる。
何の目的もなく「ただ行きたい!」という思いだけで仕事を辞め、時給のよい短期アルバイトをし旅費をため旅に出た。
後先考えずその瞬間だけを生きていた。
だから毎日の密度が濃く、目に映る景色も鮮やかだった。
旅から戻り、オットと飲食店を始めたころだったからか。
現実というものに縛られ始め、日々の楽しさを忘れてしまったのは。
「楽しいだけでは生きていけない」
「人生は辛くしんどいものだ」
そんな思い込みを自分に植えつけ、多くを背負いひとり勝手に修行僧をやっていた。
あまりに心を蔑ろにした結果、人生に強制終了が入り、今、私はまたホントの自分に還ろうとしている。
聞こえづらくなった心の声に耳を澄まし、現実だと信じ握りしめてきたものを少しづつ手放すことをしている。
ときにそれは不安で孤独で泣きそうになるけれど、私の魂はそれをやりたかったんだろうなと、どこかで分かっている自分もいて。
だから前に進むしかない。
コワイけれど少しづつ。
理由のない “なんとなく” に従って今日も私は歩いてる。
読んでくださりありがとうございます。
また書きます。