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わたしが私をゆるすこと。「すべてのものからゆるされている」とは。

すべてのものからゆるされている感覚。

あなたはこれを聞いてどんな感じをうけただろうか?

そしてその感覚を味わったことはあるだろうか?


私は最初この言葉を聞いたとき、とてつもなく大きなものにやさしく包み込まれている感じを想像したのだけれど、実際のところ「私その感覚知らんわ…」というのがホントのところだった。

それが最近「きっとこういうことなんやろうなぁ」というのがわかってきたので今日はそのことについて少し書いてみようと思う。


ここで言う「すべてのもの」とは、文字で言うところの自分の周囲にいるすべての人ではなく、「わたし自身」のことなんだと。

わたしがどんな私をもゆるしているということ。

それが「すべてのものからゆるされている」ということなんだと思う。


私たちは沢山の人に囲まれて生きているように思うけれど、実はみな根っこでつながっている。

ステキだなぁと思うあの人は、自分の素晴らしい一面を見せてくれている人で、嫌いなあの人もまた自分の中にある大切な何かに氣づかせてくれる人だ。

そうやって私たちは周囲の人を自分の映しとし、ホントの自分に還っていくという旅をしている。

結局この世界にはわたししか存在していない。

両親や先生、パートナーや友達などを「すべてのもの」と捉えたとしても、結局全部自分なのだ。


想像してみてほしい。

自分がどんな自分をもゆるしている感覚を。


どんな感じがするだろうか?
目をつぶって身体で感じてみてほしい。

何かがふわっとほどけてゆるまる感じ。
大きくゆったり息が吸えるような落ち着いた感じ。


私はそんな感じを受けた。
そこには「自分にやさしい世界」が広がっていた。


結局、私たちが求めているのは他の誰でもない自分自身からの愛だ。

親でも子でもパートナーでもなく、自分自身からの愛であり、受容。

この「受容」が「ゆるし」なんだと思う。

そしてどんな自分をも「ゆるす」ことが、自分を愛することなんだと思う。


最近の経験の中で痛感したのが、心が苦しいときはいつも自分が自分にダメ出しをしているときだった。

誰かに何かを言われたのがショックなのではなく、自分が自分をダメな奴と見ていたことに氣づき「私まだまだやなぁ」と落ち込み、そんな自分を責めていた。

そこには無意識下で「こんな私はいいけれど、こんな私はゆるせない」というジャッジがあり、それが自分自身を苦しめていた。


人が何を言ってこようと、わたしが私をゆるしていれば心が揺れることはないのだ。


「自分を愛する」とは、能動的に自分を愛していくことと思っていたけれど、そうではないのかも。

どんな場面でどんなヘタレな私が出てきても「OK。OK。どんな私でもぜーんぶまるごと受け入れるよ」という受容こそが愛であり、ゆるしなんだと思った。

すべてのものからゆるされている感覚がデフォルトの私になる!

今日私は自分に約束した。

今日も読んで下さりありがとうございます。
また書きます。












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