私が幸せに本気を出した理由は、自分が死ねないことを知ったから
ふと、私がこんなにも真剣に「苦しみを終わらせたい」「幸せになりたい」と、思ったきっかけは、仏教を学んだことだったなと思い出した。
それまでは、心のどこかで死ねば苦しみはなくなると思っていましたが、仏教では、死んでも終わらないなどという…!
それはたまったもんじゃない!って話で、輪廻転生してもう一度生きるなんてまっぴらごめんだったので、なんとかして生きることを終わらせたいと仏教関連の話を読みあさった。
今思えば、私は本気で死にたかったのではなく、本気で苦しみを終わらせたかったのだということがよくわかる。
その当時は、誰もがいつか死ぬことを直視すれば、よりよく生きようとするなんていう話が目に入っていたけれど、今では、いつか死ぬと思っているから、幸せになることや、苦しみを終わらせることに本気になれないんじゃないかと思う。
私は、あのとき仏教に「肉体が死んでもあなたは死ねません」と言われたことで、本気で「なんとかしなくちゃならない」と思った。
だって、もし仏教の言う通り、死ぬことができないなら、この苦しみが永遠に続くということじゃないか!と思ったから。
そんなのは絶対に嫌だ。肉体の死が苦しみを終わらせてくれないのであれば、別のルートで幸せになる方法を見つけないといけない!と、危機感にも似たような感覚を覚えた。
結局のところ、その答えは「奇跡講座」が教えてくれた。
私は、死にたかったのではなく、安らかになりたかったのだ。ということがようやく分かった。
苦しみを終わらせたかったんだね。
前提が「いつか死ぬ」と考えるのと、「永遠に生きる」とでは、発想がまるで変わってしまう。
もし、「永遠に生きる」という土台があれば、誰だって幸せになることに本気を出すはず。苦しみを本気で終わらせたいと思うはず。この苦しみを何とかしない限り、永遠に苦しまなければならないのだから。
死は苦しみの解決策ではない。
苦しみの解決策は、別のところにある。
私が私への攻撃をやめること。
私が他者への攻撃をやめること。
私が神への反撃をやめること。
私が、ゆるされ愛され祝福され癒されていることに気づくこと。
不毛な闘いを終わらせよう✨✨✨