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私の中で戦っている命がある

 戦っているんだと思う。
 必死に生きようとしてくれていると思う。

 だから、私も生きることに必死になる。
 それが、私の中の命に対する敬意だと思う。

 これは、きっと今の私だから感じることなんだと思う。
 誰かにこの感覚を共有しようにも、たぶん、分からない。
 分かろうとしても、できないと思う。
 これは悲観しているのではなく、責めているのでもない。
 だって、私と私の中の命の話なのだから。

 ただ、これが命を考えるきっかけになれば嬉しいと思う。
 女の中に、命が宿るということの意味。
 女の中で新しい命が生きようとしていることの意味。

 外で、小さな子どもが遊ぶ姿を見ると、不思議なくらい微笑ましい。
 羨ましいとか、ずるいとか、どうしてとか、そういう気持ちは出てこない。
 もっとそういう気持ちが出るかと思ってたけど、ならなかった自分が嬉しい。

 命って平等なのだと思う。
 日本の神話である「古事記」では、伊邪那美が1日1000人殺すと言い、伊奘諾がならば1日1500人生むと言う。
 私の中の命は、今、その狭間にいる。

 ただ……今、誰かにペースを合わせるのがつらい。
 なんでこれが出て来たかというと、今こういう時だからこそ活性化するコミュニティがあって、そのコミュニティの流れについていくのは少しシンドい。
 もちろん、私には私のペースがあるから、ついていく必要は全く無い。
 今の私は特に、自分のペースを守る、というのはすごく大事だと思うから。

 どうして人は、いつの間にか他人にペースを合わせようとしてしまうんだろうね。仲間外れにされてしまうような気がするんだろうか。うん、そうなのかも知れない。コミュニティに属している、ということは、安心する。人間は社会性動物だから、当たり前だ。

 特に私は、もっと人に頼れと言われる。
 頼ることを子どもの頃に諦めてしまったから、今自分がどんな状態であるのか、誰かに言うこと自体を怖がるようになった。
 果たしてそれは、本当に怖いことなんだろうか?
 もう一人の私が言う。

「そんなこと言って、変に気を遣わせる方が申し訳ない」

 これも、本音。
 だって、今の私はあまりにもデリケートな状態だ。
 だから、私の本名を知る人がいないこのnoteに書いている。
 耐えられなかったから。
 こうやって書ける場があって、本当にありがたいことだと思う。

 それで……私はどうしたら良いんだろうな。
 言っても言わなくても、それはどっちても良いと思う。私がどうするのが一番心が楽なのか、それが問題なわけで。
 ひとまず今は、言わないでも良いかな。
 月曜日に病院へ行くから、その時にでも良いかも知れない。
 私の気持ちが一番整理されてない。
 このモヤモヤの期間がいちばん、シンドいような気もするけど、夫は分かってくれているから、それで良いとも思う。

 気難しい私の気性を、夫は本当によく理解してくれようとする。
 諦めているところもあるかも知れないけれど、それはそれで有難い。

 私が欲しいのは、多分、誰かの意見や気遣いではなく、私の心が穏やかで、幸せを感じられる、生きていると心の底から思えることなんだ。

 ほっとくと、人は不幸になるらしい。
 だから、幸せを見つけていこう。
 今日のお散歩でも、たくさんの命に触れた。
 花を開く草花。
 小さなせせらぎで遊ぶ子ども。
 飼い主に甘えるワンコ。
 川面に花びらを散らす桜。
 迷子になってずいぶん歩いたけれど、わかる道に出た時のホッとした気持ち。
 こういうものに触れたこと。それを見つけたこと。
 こうやって自分の気持ちを素直に言葉にできていること。

 自分を幸せにできるのは、自分だけだと私は知っている。
 だって、今の私と私の中の命は、私だけがどうにかできる。
 どうしようもない事もある。私の中の命は、私の中の命が頑張るしかない。
 その為にできるのは、私が生きていることを楽しむことだけだ。

 生きていることを楽しむ。
 これ、ずっと分からなかった。
 自分が生きていることは、誰かに認められなくちゃいけないと思っていたし、誰かに認められない私には生きてる価値が無いと思っていたから。

 けれど、全然違ったよ。
 私が楽しいと思えば、私の命は輝く。
 私の命が輝けば、私は生きていることを楽しめている。
 それが幸せなんじゃないか、って思うんだよ。
 だから、日々楽しく生きること。
 それをね、もっともっと感じて生きていきたいと思うんだよ。

 それで良いんだと思うんだ。
 それが幸せに生きるということだと思う。
 私の中で戦う命に敬意を表して、私は幸せに生きていこうと思う。

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