岡潔が気付いていた現代の闇
岡潔——「多変数解析函数論」における「三大問題」をすべて解決した——は、もう60年も前にこう述べている。
いま、たくましさはわかっても、人の心の悲しみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心配りがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいものが欠けることにほかならない。
(春宵十話より)
岡潔がSNSに侵された現代を見たらどう感じるだろう。
よくツイッターでも目にする「世も末だな」と、真っ先につぶやくであろうか。
煽り運転、子どもに虐待する親、電車での痴漢行為、青少年の迷惑行為、それらがSNSで裁かれて、消費者が憂い、喜ぶ。無論、裁くのは専門知識もない、ただの民衆である。
人の悲しみをわかるには、緻密さを追求するには、それなりに時間がかかる。
何でもかんでもスピードが重視される昨今で、一つのことに時間をかけて追求できる人がどれほどいるだろう。困難や苦しみを忘れようとするのではなく、向き合おうとする人がどれくらいいるだろう。
5秒のショート動画を100本見るのと、同じ時間で本を読むのではどちらが心を育むだろう。
いつの時代も、大切なことや難しいことほどすぐに見つからないように解決しないようにできている。
現代の利便さを排除したいわけではない。
ただ、心を育てなければ、私たちは慈悲のないただのヒトに成り腐ってしまうのではないかと懸念し、怯えているのである。
何か気になることができた時、悩みができた時、迷わずくよくよしたほうがいい。と私は思う。
心には間違いなく器がある。器は柔らかくて、でも固まると頑丈で、入ってくるものに対して従順だ。
SNSの短くて少ない情報量をスクロールするのは、心の器に入ったものをすぐにこぼすのと同じことだと思う。少ない量を入れて、またこぼす。捨てる。その繰り返しをしている。すぐにこぼしてしまうので器は小さいままだ。
一方、大きな出来事に出会ったとき、困難に出会ったとき。心の器の中にはたくさんのものが入ってくる。器からあふれそうになることもある。重たくてすぐには捨てられないだろう。器は従順だから、入ってきたものを受け止めようとどんどんどんどん大きくなっていく。そして器がしっかり固まった後、やっと捨てることができる。
後者の過程を、どうか大切にしてほしい。思いっきり悩んで、考えて、器に入っているものをよく観察してほしい。
そういうことでしか気が付くことができないことが、得られないことがきっとある。
そうして得たものは、簡単には消えないはずだ。