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正しさ、という暴力
新学期が始まって2週間くらい。
我が子達はそれぞれに新しいクラスに馴染んできている様子でほっとする。順調に通学してくれていることに【あー、よかった】と胸を撫で下ろしている。
学校に行かなくてはいけない、とは思っていない。
学校に行かなくてもなんとかなる、と思っている。
行くのが嫌なら行かない選択肢はあると思っている。
でも、学校に行ってくれてホッとするのも母の本音。
だって【学校に行けば、適切に学習をさせてもらえる】から。
だって【学校に行けば、いろんな友達との関わりから対人関係スキルを学べる】から。
ついでに【学校に行けば、給食があって栄養とれる】から。
こどもの健全な成長に必要なものを、親が準備しようとすると大変だもの。【学校】という場所が様々な学びの場であり、親の負担を軽減させてくれていることは間違いない。
私の勤務先でも新学年になり、支援で入っているクラスの担任の先生も別の人になった。
人が変われば環境もがらりと変わる。まだ新しい先生に慣れない子どもたちは、素顔を見せつつもまだ【仮面】をかぶっているようである。一方で先生方は4月が学級運営のキモだということをよくご存知なのだろう。問題ありのクラスなので「超しっかりした」先生が担任につき、子どもたちは【本来、学校でするべき振る舞い】をびっしり叩き込まれている。
昨年度はできなかったことが、できるようになっている様子に「先生の力って凄いんだなぁ」と傍目から感じるとともに、「いつものあの子たちの目の輝きがないなぁ」と思って見ている。
右も左もわからない人間を、社会の中でちゃんと生きていける人間にする上で学校の果たす役割は大きいだろう。社会ってやっぱり「ちゃんとした人」がマジョリティであってほしい。
それでもなぜか。
自由すぎる彼らの目に輝きがない様子に、
『正しさという暴力』で【ちゃんとさせている】ような気持ちになってしまった。
どうか上手に【大人の前ではいい子にしながら】心の中は自由でいてね、と(教師ではない)私は無責任に思っている。