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東日本大震災の年に初めて行った音博での思い出 〜ALKOTTO編集長による京都音楽博覧会レポート(起)〜

人前で泣いたのは、いったいいつ以来だろう?
といっても、実際に涙を流している瞬間を隣にいた学生たちに見られたわけではない(と思う)。でもぼくは今年開催された京都音楽博覧会2024の初日、「ブレーメン」が演奏されているあいだ、ずっと泣いていたし、頬を伝う涙を拭うことさえしなかった。涙が流れたがっているのであれば、それに抗う必要などない。なんとなくそんな気がしたからだ。歌詞がとか、思い出のとか、感動のとか、そういう安っぽい感情からではない。音楽そのものが心のいちばん柔らかい部分に触れてきて、気まぐれなつむじ風みたいに突然やってきて、ぼくのなかの大切ななにかを揺さぶっていった。そういう感覚がたしかにあったのだ。そしてその感情こそが、京都音楽博覧会2024を象徴するものであり、今年の音博がどういったものだったかは、その涙のエピソードだけで(少なくともあの場にいたすべての人たちには)伝わるものがあるだろうと、ぼくは確信している。
とはいえ、さすがにこれだけでこのエントリを終えるわけにはいかないので、もう少し書き進めてみたい。なにしろ書きたいこと、書くべきことはたくさんあるのだから。

その前にぼくと京都音楽博覧会および、くるりとの関わりをざっと振り返っておきたい。まず、くるりの音楽を最初に耳にしたのは「東京」がシングル発売された1998年で、当時ぼくは27歳。勤めていた広告制作会社のほど近くにある大阪・南森町のFM802でヘビロテされていたので自然に耳に残っていたのだった。何度かラジオから流れているその曲を聴いているうちに、なんとなくこの人たちは京都の人ではないかと感じたのだ。もちろんタイトルは「東京」であり、京都のことを歌ったりしていたわけではない。にも関わらず「ああ、この人たちの歌っている感情をぼくはよく知っている」と感じたのだった。テレビで見る女優さんなんかでも顔を見たり話しかたを聞いただけで(それが完璧な標準語であっても)なぜか不思議な親近感を感じて調べてみると京都の出身だった、ということがよくあるのだが、くるりのその「東京」を聴いたときも、まさにそのような不思議な親近感を抱いて興味を持ったのだった。しかし当時はまだ、その後このぼくがくるりに何度か取材することになるなんて、想像もしていなかったわけだが。
ともかく自分はどちらかというと洋楽を中心にジャズやソウル、クラシックやラテン音楽などが好きで、日本のポップスやロックはあまり聴いていなかったし、その後も決して熱心なファンと言えるほどではなかったが(つまりファンクラブに入ったりライブに行ったりというような)、それでもくるりは自分にとって日本のコンテンポラリーなロック・ポップスのバンドで数少ない「アルバムを買って聴くアーティスト」のひとつになっていった。

次に、京都音楽博覧会。京都音楽博覧会が初めて開催された2007年というのは、奇しくもぼくが結婚して地元・京都へ舞い戻ってきた年でもあった(あらためてアーカイブを見返したら、ぼくらが引っ越ししてきた1週間後の開催だった)。
ぼくにとっての音博初参戦はそれから4年の歳月を経て、長男が2歳になった2011年。つまりはあの東日本大震災があった年だった。ぼくは妻とまだ小さな長男とともに、ようやく初めて家族で音博に参加することができた。ロックフェスに行くというよりは、音楽祭付きの梅小路ピクニックみたいな感覚で出かけていった。シートを敷き、音楽を聴きながらビールを飲み、たまにオムツを替えたりもしたっけ。そして実際に音博の趣旨の一部にはそうした市民のお祭というようなものが流れていたことを、いまは知っている。

腕の中で眠ってしまった長男を抱っこしながら夕暮れの梅小路公園で聴いた小田和正さんが優しい声で歌う「たしかなこと」は、震災の不安と子どものへの思いとが重なり、心の奥深くへと染み込んでいくのがわかった。ああ、知らないうちにずっと心が緊張していたのだなと気づいた。気づかされた。そしてその長い長い緊張が、やさしい音楽によって、やっと一瞬ほぐれたような気がした。
また、石川さゆりさんが「津軽海峡冬景色」を歌っているときに、ちょうど梅小路の機関車の汽笛が鳴るという偶然のサプライズがあり、場内から歓声が上がった。10-FEETは、つじあやのさんとの京都人共演で沸かせていた。

トリはもちろんくるり。お昼寝をして元気を取り戻した小さい息子を抱きながら聴いていた。そして「ブレーメン」、オレンジの夕暮れから夜の帳が降りて、紺碧の空が広がり、ステージの明かりが眩しく輝くその会場の真っ只中で、アウトロでの伸びやかなストリングスの箇所に来たとき、ぼくは息子を高く抱き抱えながら飛ぶ鳥に見立てて、ぶらーん、ぶらーんとあやしたりしては、まだ若く新しい家族が、こうして音楽を、ライブを、音楽祭を楽しめることのよろこびを噛み締めていた。あらためて言うが、この年は東日本大震災の年だったのだ。

冒頭で書いた「2024年のブレーメン」での涙は、そこからなんとかかんとか13 年やってきて、子どもたちは大きくなって、今日はここにはいないけれど(むしろいないからこそ)、それでもまたこうして同じ場所で同じ曲を聴いていることへの、安堵からだったのだと思っている。長く続けていること、長く生きていることには、それだけの重みがある。京都という街がそうであるように、京都音楽博覧会にもそうした歴史の重みが徐々に生まれつつあるのだろう。なにかといえば新しさやわかりやすさばかりに目移りしてしまうのが世の常ではあるけれど、そうではない価値だってあるんだよ、ということを京都音楽博覧会は18年を迎えたことで、あらためて優しく語りかけてくれているような気がした。

そして、もうひとつ。じつはこの初めて参加した2011年の音博では終演後にこんなエピソードがあった。子連れでの帰り道、タクシーを拾おうと大通りで待っていたら、ぼくらが手をあげたのとちょうど同じタイミングで、手前にいたグループが手をあげ、タクシーを奪われるかたちになってしまった。もちろん彼らに悪意はないのは明白で、ぼくもまあしょうがないやと思って次のタクシーを探していたら、そのグループのひとりがぼくらに近寄ってきて「先に乗ってください」と譲ってくれたのだ。ところがよく見るとその心優しき青年は、なんとついさっきまでステージにいた10-FEETのタクマさんだった。「とんでもないです」と遠慮したら「いえ、自分もいつか親になったら誰かに譲ってもらうんで!」とあのニコッとした笑顔を残して去っていった、というこれまた思わぬサプライズがあった初参戦の音博だった。

そんなふうに、音博というのはいつだって、やさしい記憶を、いくつもいくつも呼び起こしてくれる。おそらくそうした感慨はぼくひとりの勝手な思い込みなどではなく、きっと音博に参加したすべての人に流れる「共体験」として、それぞれの優しい思い出として刻み込まれていることだろう。
次回はいくつかの取材を通じてダイレクトに感じた、くるりや岸田さんの音博や音楽への想いを綴ってみたい。

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