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0150  ロック、毒まんじゅうの皮を剥ぐ

リヴァイアサンの猛毒


 ホッブズの社会契約論は、絶対王政を擁護するためのものでした。
 しかし、当時主流だった「王権神授説」論者からは「ビミョーな説」と評価されていました。
 なぜか?
 ホッブズの説は、
 絶対王にとって「毒まんじゅう」のようなものだからです。

 <0120>でご紹介したように、ホッブズが君主制を支持するのは
それが
 「人民の平和と安全保障」
をもたらすと考えたからです。

 では、君主がそのように振る舞わなかったら?

 ホッブズはビミョーなことを言います。
 曰く、国家は 民衆の自己保存の手段 に過ぎない・・・
 そのため
 「ホッブズも 抵抗権 を認めていたのではないか?」
という有名な論点が出てくるのです。

 これが「王への絶対服従」という甘い「皮」の下にある
猛毒の「餡(あん)」だったのです。

毒まんじゅうの皮を剥いだロック

 
そして。
この「毒まんじゅう」の皮をバリバリ剥いだのがロックでした。

 彼の政治に関する主著は「統治二論」(1689年)です。
 これは二部構成になっており、前編が王権神授説批判、後編がホッブズの議論をふまえた社会契約論に関する内容となっているそうです。
 岩波文庫で邦訳されている「市民政府論」はその後編ですが、それがホッブズの「リヴァイアサン」より(物理的に)薄いのは、ホッブズの大著を下敷きにしているからです。

 ここで、ロックは、
  自然状態において自由な個人が社会契約を締結した
という論理を引き継ぎつつ、
ホッブズのように 権力者に全てを委ねれば良い と言う考えは

スカンクや狐が加えるかもしれない損害を避けるためには注意するけれども、獅子(ライオン)によって喰われることに満足しているとか、否安全と思っているほど、馬鹿なもの

岩波文庫「市民政府論」 96頁

だと、こきおろします。
 そして、次のように言います。

君主たち…が 神 と 自然の法 に服しなければならないのは確実である。何人も、どんな権力も、この永久法への義務から彼らを免れさせるわけにはいかない。

同196頁

 ここでロックが
「君主たち…が神と自然の法に服しなければならない」
と述べているのが、「法の支配」という考えです。

 詳しくは号をあらためて説明しますが、簡単にいえば
 最高権力者とて従わねばならぬ法がある。
という中世(あるいはそれ以前)からある考えです。

ここにおいて、
 ホッブズの生んだ近代的な「個人」individual
 ロックが中世から蘇らせた「法の支配」rule of law
という2つの概念が
歴史的な出会いを果たしました。

結果、
 君主(国家権力)とて、個人が生来有している自由を侵してはならない
という考えが生まれます。

私は、これこそが、
「近代立憲主義」の誕生の瞬間だ
と考えています。

 ちなみに、ホッブズを立憲主義の源流だとする長谷部泰男先生の教科書でも、ロックの社会契約論に関連して以下のように書かれています。

・・・国家は人々の利己的な行動によっては達成されえない外交や防衛•警察などの公共サービスを行い、人々の生命や財産を保護するために設立されたのだと考えるならば、国家の行動範囲はこの公共サービスの提供に必要な限度を越えてはならないはずであり、とくに人々の生来の権利を侵さないよう、厳格に拘束されるべきこととなる・・・

長谷部泰男「憲法」第7版 新世社 6頁

個人の権利や利益を保障し実現するための手段として、国家に一定の正当な機能や任務を認める立場からすれば、国家の正当な活動範囲もそれによって限界づけられる。国家がこの限界を超えて個人の自律的な領域に入り込むこと、とりわけ人生の目的や意義に干渉することは、個人の尊厳を侵すものとして禁じられる。そして.現実の国家が与えられた機能や任務を適切に果たしていないことは批判の対象とされ、究極的には、法律への服従義務からの解放や、革命による新しい国家の設立が正当化されることになる。

同7頁

 さて、ここで、「個人の自律的な領域」という聞き慣れない言葉が出てきていることに注意してください。

 「自立」ではなく「自律」です。

 つまり、ロックは、絶対王の権力を制限するかわりに、
 「理性」による自律
というとても難しい問題を憲法に持ち込みました。

 これは、現代にあっても消化しきれていない難題なのですが、ここも、号を改めて論じさせていただくことにいたしましょう。


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