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0090 福沢諭吉と「独一個人」

〇 ロックに焦点を絞る

 ロックの「個人主義」とカントの「人間の尊厳」が違う源流だと分かった時、どちらを遡るかの判断を迫られました。
 ただ、その答えは意外と簡単に見つかりました。

 ロックの思想(個人主義)、彼の生きた時代のイギリスよりも、100年後のアメリカで影響力を発揮しました。
 アメリカ独立宣言は、ロック直系の文書と言われます。
 そのアメリカの「助け」を借りて、日本国憲法が制定された。

 つまり、日本国憲法はロックの「孫弟子」
 ロックの嫡流(ちゃくりゅう)だ-ということを、憲法学の重鎮(確か樋口陽一先生)が書いておられたからです。

 今、私が向き合うべきは日本国憲法。
 ならば、焦点を絞るべきはロックと、彼の 個人主義 indevidualism です。

〇 困難をきわめた individual   の翻訳

 とはいえ。日本国憲法の核心は「個人」ないし「個人主義」だというと、なぜ、皆腰が引けるのだろうか。
 なぜ13条を素直に読めないのだろうか?

 この点で悩んでいたとき、たまたま手に入れたのが「翻訳語成立事情」という本(柳父章著。岩波新書)。
 これは、実に面白かったです。

 「個人」は英語では Individual と言います。
 明治の知識人はこの言葉に出くわして、大変に苦労したそうです。
 なぜなら、それまでの日本に、この言葉に対応する言葉はもちろん、イメージすらなかったからです。
 そういう言葉は他にも沢山あるのですが(例えば先ほどのconstitutionや、Society=「社会」)、 Individual  は「別格」的に強敵だったようです。

 それゆえ、いろいろな珍訳語が登場(例えば「一身ノ身持」)。
 その中で、かの福沢諭吉が編み出した訳語が「独一個人」
 それが短縮されて「個人」という言葉になり、辞書に載ったのはずっと後の事だったそうです。
 個人的には短縮しない方が意味がわかりやすいと思いますが・・・

〇 ムラ社会と決別する individual 個人

 つまり、江戸のムラ社会に Individual =個人はいなかった。
 だから、翻訳に苦労したわけです。
 改めて、福沢諭吉のセンスには脱帽ですね。

 福沢先生の大ベストセラー「学問のすすめ」は、
 幕府時代の身分制度や古い慣習から抜け出せない明治時代の人々に、

     「独一個人」の気概を持て!

と渇(カツ)を入れる本です。
 現代語訳も出てますから、一度目を通されてもよいかもしれません。

 ところが。 日本社会は、今でもムラ的価値観から抜け出せずにいる。
 「社畜」という言葉もありましたね。
 各自が独立した人格を持ち、その矜持(きょうじ)従って生きることを許さない「ムラ社会」的風潮が、福沢先生の教えを普及する妨げになっているのではないか?
 これが、私の仮説です。

〇 後日談

 ただし。それから20年の時を経て、私の考えは微妙にかわっています。

 individual という概念がなかなか定着しないのは、日本人だけの問題ではなく、「人間とはいかなる生物であるか」という、より奥深い問題と密接に関連しているのではないか?

 人間の本性は長く続いた狩猟採集の時代につくられたもの。
 20万年近く、ムラならぬ「群れ」(ムレ)で行動しつづけてきた。
 コロナの時代に有名になった「同調圧力」は、その名残ではないか。

 だとすると、同調圧力に屈しない「個人」という生き方は、よほどの覚悟がいる(でも必要な)生き方だなあというと思うようになってきました。

 この点は、20世紀最大の問題-全体主義ともからむ、とても深い話ですので、また後ほど議論いたしましょう。


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