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【雑記#11-①】私が芸術家になるまでのお話

こんにちは。
ニートして就活して、肩身狭かったりパーティーしたり、慌ただしく日常を過ごしておりますが、今回は初心に帰って「私が芸術家になるまで」というお話でもしようかと思います。活動を始めた当初は親に隠れて色々やっていたときもありますので、これを見ているであろう母へ、半分くらいは懺悔の目的です。流石に時効だと信じて。


◆小〜中学1年生のおはなし


自己紹介にも書きましたが、私は2024年の3月まで切り絵作家として活動をしていました。個人事業主として開業したのは大学在学中でしたが、それ以前の趣味の範囲で活動を始めたのは高校生の時。またさらに遡り、切り絵を始めたのは中学生の時。

私は元々アニメやラノベが好きな、典型的なオタク女児でした。小学生の時からラノベを買い集めて、好きなキャラの絵を描くのが好きでした。そんな私は運良く受験を潜り抜け、某美大の付属中学校に入学しました。周りはもちろんアニメや漫画・ラノベが好きな子ばかりで、なにより私より絵が上手い子ばかりでした。さて、私はというと、内気な割に中身は目立ちたがり屋だったので、「ここでは絵で目立つのは難しい」と考え始めます。そこで、細かい作業が好きだった私は、工作系でなにか出来ることはないかと考え始めます。
当時は丁度スマホという名の電気通信網を手にしていたので、ネットを駆使して見つけたのが「切り絵」です。

切り絵はわたしのまわりにやってる子がいなかったこともあり、「これだ!」と思いました。早速画材屋さんで黒い紙とデザインカッター(小回りがきく、通常のカッターよりも細いカッター)、カッターマットを買い、好きなアニメの画集にあったイラストをコピーして、その日から毎日カッターを握って机に向かいました。勉強よりも頑張っており、親からはよく怒られてました。

周囲の反応もまずまずで、友人や先生は褒めてくれたし、祖父母も私の作品を居間に並べて、祖父母宅はちょっとしたギャラリーみたいになってました。
そして、褒められた調子に乗った私は「もっと色んな人に見てほしい」と考え、Twitterを始めます。とは言っても、我が家は適度に厳しい家庭でしたので、中学生の私のスマホにはもちろん厳重なセキュリティがかかっており、自分ひとりの力でアプリをダウンロードするのは不可能。
両親にお願いしても却下されるのは薄々分かっていたので、親には内緒でブラウザからアカウントを作り、そのまま中学を卒業するまでブラウザからログインしてました。(とーちゃんかーちゃんには悪いことしたなと…。良い子は真似しないでください。)

Twitterにはほぼ毎日、作った作品の画像を載せていました。当時はラブライブ!というアニメ作品にハマっており、そのキャラクターたちの作品を制作していました。なんならこの時が全盛期だったこともあり、同じ趣味を持つ人たちからたくさん反応をいただき、およそ1ヶ月でフォロワー1000人に到達する快挙を成し遂げます。切り絵やってる人を見つけてはフォローしてたので、まあこんなもんだと思いますが…。

中学生の時に作った海未ちゃん。拙くて恥ずかしい。

◆中学3年生のおはなし

こんな具合で2年ほど投稿を続け、中学3年生になると、フォロワー数は4000人を超えました。ある時なぜか海外でバズったのか、それとも今で言うゾンビだったのか、2日間でアラビア文字のフォロワーが1200人ほど増え、その後も作品が地味〜にバズってじわじわフォロワーが増え続けた結果の数字です。
中学3年生でフォロワー4000人ともなると、学年ではちょっとした有名人で、話したことない同級生からも「○○さんだよね?作品見てるよ」と声をかけてもらうこともあり、幼い私は毎日ホクホク。
(ちなみに、この辺りで調子に乗ったせいでスマホの管理が甘くなったのか、履歴を見た母親に2年越しにTwitterアカウントがバレました。「切り絵やっててこの名前ってあなたしかいないよね?なんでこんなにフォロワー多いの?」と…。母も某アイドルにハマっていた時期で、情報を追うためにTwitterアカウントを作っていたのでした。
母というのは偉大で、特に怒られなかったのが救いです。)

◆高校1年生のおはなし

このとき、私はTwitterで運命的な出会いを果たすこととなります。Twitterを始めた当初から、同じようにものづくりをしている作家さんたちを見ていましたが、界隈でも有名な人たちが「物作り支部」というサークルのようなものを結成しました。
そこは切り絵以外にも文字書きや飯テロなど、様々な分野の人たちが集まり和気藹々と活動をしていました。

どういう経緯だったのか忘れましたが(おそらく誰かに紹介されたんだと思われる)、入会するためには軽い面接があり、テキストチャットで自身の得意分野なんかを軽く話し、私も無事入会を果たしました。
私のようにアマチュア・二次創作で活動している人もいれば、プロのアーティストもいて、しかも年齢も性別も、なんなら国籍までバラバラで、すごく刺激的な環境だったことを覚えています。

私の周りは絵を描いている子がほとんどだったけれど、普段の生活では出会えない社会人経験の長い大人たちが本気で物作りに向き合って、精一杯自分の「好き!」を表現していることにワクワクして、なにより「この人たちのようになりたい!」と思いました。
実は中学時代に、反抗期で少し荒れていたこともあり、こんなふうに自分の好きなことを生業にして生きている人がこんなにたくさんいて、みんな本当に楽しそうに生きている!というのは、当時の私にとっては希望であり救いでもありました。

物作り支部のメンバーが参加する展示会に足を運び始めたのもこのとき。
ハンドルネームを名乗ったら「ああ!あの子か!」と、仲間に入れてもらえたのが嬉しくて、ただの客なのに学校帰りにほぼ毎日ギャラリーに行ってました。
平日のお客さんが少ないギャラリーで、少し年上のお姉さんと、すごく年上の作家さんと、将来の相談とか学校のこととか、色んな話をしていました。
この時間の穏やかさというのは今でも覚えていて、これが今の私の原点になっていると感じます。

この年代だと、親や祖父母、先生以外の大人と関わる機会って少ないじゃないですか。特に私は一人っ子で親戚も遠方に住んでいたため、大人と話す機会がなくて、今よりずっと内気だったんです。人の目を見て挨拶とかできなかったし、小学生の時なんかは先生に当てられても恥ずかしくて、答えはわかるのに声が出ないような子供でした。
でも、同じ趣味の人とたくさん話をして、先輩の作家さんを追いかけて普段行かないような場所に毎日のように通って、色んな作品を見て、そうしていくうちに徐々に自己表現をすることや、人と話すことが怖くなくなっていきました。

両親が共働きで、インドアで友達が少なかった私は、小学校低学年の時からずっと学校終わりは家で1人で本を読み、テレビを見て、絵を描いているだけの子供でした。ひとりっ子で人との関わり方も正直分からなかった。
だから、親以外でこんな私を受け入れてくれて、言葉遣いや礼儀の面で、ダメなことをした時はきちんと注意してくれる、そういう人たちと出会えたことは、幼いながらにとても幸せなことでした。(娘が毎日のように知らない人に会いに行っているのは親からしたら心配なことだっただろうと今ならわかるので、そこは申し訳なかったと思っています)


長くなってしまったので、ここで一回切ります。明日はいよいよ私が作家になる話。

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