「体育会系と文化系」
「体育会系」と「文化系」という言葉がある。
一般に対で語られることが多い。
わたしは、そのどちらかかと聞かれたら間違いなく「文化系」である。
中学は吹奏楽部、高校は茶道部で、大学は文学系の専攻だった。
だから、なのかは分からないけど、なんとなく「体育会系」、ひいては「スポーツ」というものになんとなく苦手意識を持ってきた。
スポーツをすることもそうだし、「スポーツ観戦」なるものも「何が楽しいんだろう?」と思ってきた。
実際、いろいろな言葉があるけれどいわゆる「文化系」に自分が属していると自覚している人は「スポーツ」というものをなんとなく斜めに見ている傾向があるように感じる。
(たしか、ジョージ・オーウェル※の何かの短編でもスポーツをナショナリズムを助長させるものとして否定的に論じられていたような…)
※1903-19501・イギリスのジャーナリスト
そんな意識が、もしかしてちょっと違うかも?と思うようになる言葉に出会った。
スポーツは、自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化である
この言葉は、日本スポーツ協会が日本オリンピック委員会とともに2011年に出した『スポーツ宣言日本』の最初の1文だ。
スポーツが文化である・・・?
今までスポーツと文化を別のもの、さらに言えば反対のものと捉えてしまっていた自分にとっては、新しい視点だった。
わたしは、「文化」が好きだ。
地域によって異なる言葉、生活習慣、慣習、料理、音楽、アート、、
そしてそれらが国という隔たりを超えていくことに
ものすごくロマンを感じる。
だから、スポーツも文化なのだとしたら、それはわたしの「好き」の対象というわけだ。
我ながら、なんと短絡的かと思う。
でも、今まで苦手意識をもっていた「スポーツ」というものを、自分の「好き」領域に入れられたことは、単純に嬉しいな。
ここで、タイトルに戻ってみる。
わたしは今まで「体育会系」「文化系」という言葉の表層に縛られていたんだなと。
これらの言葉は「体育(=スポーツ)」と「文化」という本来の意味をいろいろ変容させてしまっている。
意味の変容というテーマはまた別で書こうかな。
言葉の表層と深層をしっかり見つめなければと思った出来事でした。