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彼からの批判、対話について
彼と久々に話した。言葉を返し合うように、久々に口を回した。
彼に対する印象はまた少し変わって、またその言葉は新しい視点を作って私の中に新たな批判の切り口を作った。
それをあくまでフラットな意見として、久々に内省の時間を取ってみる。
「相手との間に対話を生むための努力が欠けている」
私の対話は理解を目的地としている。昔は相手を理解できると期待して周りの人に関わっていた。
いつからか、相手が分かりそうな人か、そうでないかを直観的に感じるようになって心を閉ざし始めた。肌に合って刺さりそうな人に限定してアプローチし、そうで無い人に強いて働きかけることはなくなった。
それは対話を維持する努力に疲れたから。
あるいは、その努力に見合うものを期待できなくなったから。
ここ1年、考えることを止めて心のままに動いていた。
結果として「言葉にならない」のハードルが大きく下がって、対話に必要な言語化が億劫に感じるようになった。
また、対話で得られるものの輝きが見えなくなっていった。
私が今だに大切にするのは「ときめき」や激しく心揺さぶられる体験で、それらは頭でっかちな理解で得られるものではないと思う。それよりも強く心を揺さぶるものを受け取って噛みしめるほうが良いと思ってしまった。
ここまではつまらない言い訳で、ここからこの状況を転回してみる。
対話はまず頭でっかちなものではない。心の御前に、理性が相手を差し出すように進むものでありたい。既に規定された面白さではなく、面白さをどう切り出すかを考えるものだと捉えたい。
言葉への努力。
本や詩集で選択肢を集めることであったり、一つ一つをあらかじめ分析して蓄えておくことを普段から重ねておけば、意味のある手札が一枚でも増えないだろうか。
ただ、同時にこのときめきに対するフォーマットが致命的にずれている可能性にも勘づいている。その場合は、改めてスタンスを検討しなくてはいけない。
↓「少しでも君に近づいたら さりげない日々の理由もわかるかな」