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『草原の神々』訳 ⑭
第14章
広太郎はこれまで一度もラズグリャエフカ村に足を踏み入れたことがなかったため、村に入ると興味深そうに辺りを見回し始めた。しかし、特に目を引くものはほとんどなかった。戦争で傾いた塀、苔や草に覆われた屋根、大きく成長したゴボウの茂み、凸凹だらけの傷んだ道、痩せた犬が2匹、そして大きな水たまりの縁で黙々と踊る酔っ払った老人の姿だけが目に入った。
それ以外に通りには誰もおらず、村はまるで死んだような静けさに包まれていた。ただ、村の奥の方から、すでに酔いが回りつつある手風琴の騒々しい音だけが聞こえてきた。
「ネステロフ家が宴会してるんだな」とペーチカが足を止めることなく言った。
「それか、ナタリヤおばさんの家かも。今はまずヴァレルカを治して、それから僕も行くんだ。でもお前は自分の家、つまりキャンプに戻れ。わかったか?キャンプに一人で帰るんだ。僕は付き添ってやる暇ないからな。いいな?」
ペーチカは広太郎に話しかけながら、無意識に声を張り上げていた。そのため、全く人気のない通りで、疲れ果ててよろめきながら歩く年配の日本人と、彼に怒鳴りつける少年という奇妙な光景が一層際立っていた。
「分かったか?一人で戻るんだぞ!一人で!」
ペーチカは広太郎に向かって汚れた人差し指を見せながら念を押した。それに対し、広太郎は素直にうなずいた。
「一人。わかった。」
「そうだ、それでいい。だけどまずはヴァレルカを治してくれよ。死んじゃいけないんだ。分かるか?生きていてくれなきゃ困るんだ。」
「生きてる」と広太郎が繰り返した。
「そうだ、生きている。死んじゃだめだ。僕たちは勝利を掴んだんだから、分かるだろ?」
広太郎が再び遠くから聞こえる手風琴の音に耳を傾けていると、その瞬間、通りかかった家からまるで矢のように小さな金髪の少年が飛び出してきた。少年は広太郎に全速力でぶつかり、大きな水たまりの方へ吹っ飛んだ。だが、すぐに立ち上がると、何事もなかったかのように振り返りもせず、笑い声と音楽が響く方へ駆けて行った。
不意の衝撃に驚いた広太郎は、地面に座り込んだまましばらく呆然としていたが、やがて興味深そうに少年が飛び出してきた家を見つめ始めた。彼の目を引いたのは、家の古びた門の上に取り付けられた小さな丸い鏡だった。鏡の表面はくすみ、ひび割れ、風に揺れる古びた門扉とともに不思議な雰囲気を漂わせていた。その鏡には、保護のための道教の印が描かれていた。
「ここには昔、ブリヤート人が住んでたんだ」とペーチカが広太郎の視線に気づいて言った。
「戦争が始まる前にな。みんなどこかに行っちゃったけど、この土地は彼らには良くなかったって話だ。こんな鏡が、ラズグリャエフカにはあと五つくらい残ってるよ。それより、早く立ち上がれよ。何座り込んでんだ?」
広太郎はやっとのことで立ち上がり、門の近くに歩み寄ると、その鏡に描かれた印をじっくりと観察した。何年も前に、彼は同じような鏡を見たことがあった。それは古い道教の魔除け、悪霊を防ぐための護符だった。
「早く行こうよ!」とペーチカが広太郎の袖を急かすように引っ張った。「あとで見ればいいだろ!」
ペーチカは空っぽの通りを急ぎ足で進み、広太郎はよろよろとその後を追った。しかし、彼の頭の中は、ひび割れた鏡に描かれた護符のことから離れなかった。その護符をノートに描き写したいという欲求が湧き上がり、せめて一つでも細部まで記憶に留めようと努力していた。
ブリヤート人たちが、自分たちの家の入口に悪霊を防ぐための護符を吊るしていたのには、何か理由があるに違いなかった。収容所の鉱山付近で起きている植物の突然変異、死亡率の高さ、そして地元住民たちの最終的な移住。それらすべてが何らかの形で結びついているように感じられた。広太郎はそのつながりを直感で感じ取り、規則性を捉えていたが、その原因を理解するには至っていなかった。
「本当に悪霊が原因だなんて、信じられるわけがない」と心の中で呟いた。
広太郎がこの鏡を初めて見たのは、彼が15歳のときのことだった。岩谷氏が正広と一緒に彼を奈良県吉野町に連れて行き、桜の花見をさせてくれたのだ。吉野山の斜面には10万本もの桜の木が植えられており、異なる標高で次々と咲いていく。春になると花見客たちはこの美しい風景に感動し、一つの林から次の林へと長時間歩き回ることができた。
広太郎は、落ちる花びらの海の中をさまよう中で、少しばかり厳粛さが滑稽に見えるほどの雰囲気をまとっていた。一方、正広は桜にすっかり飽きてしまい、初めて目にしたその瞬間から興味を失ったようで、「後醍醐天皇のお墓を見に行きたい」と言い出した。そして、林から林へと足を引きずりながら移動するうちに、いつの間にか吉野の町へ迷い込み、金峯山寺の近くに辿り着いた。
正広が自らの意志で寺に入るとは考えにくいが、ちょうどその時、激しい痛みにのたうつ人が寺へ運び込まれるのを目撃した。周囲にいた見物人たちが、修験道を実践する山伏たちが苦しむ人の体から悪霊を追い払うことができると説明したのだ。
長崎に戻った正広は、父の蔵書をひっくり返して修験道に関する本を探し始めた。やがて、金峯山寺から2人の山伏僧侶を招くよう父に頼み込むまでになった。正広は、自分の足の不調が狡猾な悪霊の仕業だと信じ込み、聖なる修行者たちがその病を取り除いてくれると確信していた。
岩谷氏は霊など信じておらず、むしろ豊作や自分の煙草の売上に関心があったが、息子の申し出を皮肉交じりに受け入れるしかなかった。ただし、儀式に自ら立ち会うことを条件とした。そのうえ、広太郎も同行させることを決めた。
山伏たちはまず、小さな鏡を用意するように求め、それに保護のための護符を書き加えると、儀式が行われる部屋の入口に鏡を取り付けた。それを見た岩谷氏は静かに呟いた。
「悪霊ってのは女性なんだろうな。鏡が必要ってことはさ。」
僧侶たちが自らの衣を少し下ろし、互いに護符を描き始めた時、岩谷氏はさらに楽しそうに笑い出した。広太郎は僧侶たちに対して少しばかり気まずさを感じていたが、岩谷氏の他には自分しか観客がいない以上、彼の小声での冗談を聞き続けるしかなかった。
「賭けてもいいが、絶対くすぐったいぞ。でも、顔に出さないんだろうな。あの金額で俺もそうされたら我慢するさ。」
岩谷氏は無表情でそう耳打ちした。
正広は畳の上に横たわり、悪霊がようやく自分の体を離れるのを辛抱強く待っていたが、時折、広太郎と父に向けて怒りを含んだ視線を投げかけていた。それでも岩谷氏は止まらなかった。
「今、あの僧侶の一人が自分の体を離れて霊界に入り込もうとしてるんだ。そしてそこで悪霊のやつらをたっぷり懲らしめるんだぞ。」と、彼は小声で説明した。
「懲らしめる」という言葉に広太郎は思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。
岩谷氏の冗談には大いに笑いそうになる一方で、広太郎は心の中で正広を気の毒に思っていた。正広は本気で僧侶たちの力を信じていたのだ。
そのうち僧侶の一人がもう一人を囲むようにカラフルな旗を並べ始めた時、岩谷氏は再び広太郎の耳元でささやいた。
「あの旗はな、空っぽになった体が勝手にどこかへ行かないようにするためのものなんだ。もし逃げ出したら、家中を駆け回って捕まえないといけなくなるからな。」
広太郎は不意に浮かんだ笑みを隠そうと顔をしかめたが、その瞬間、正広が彼を見た。友人のこの表情を自分への嘲笑だと思った正広は拳を振り上げて見せた。しかし、岩谷氏はささやきを続け、広太郎は笑いをこらえるのがますます難しくなっていった。
「なあ、あの袋が何のために必要かわかるか?俺は、あの僧侶、向こうの世界からお土産を持ってくるつもりなんだと思うんだ。どう思う?何か注文してみるか?お前なら何が欲しい?俺なら小さな悪魔が欲しいな。店に座らせてタバコを売らせるんだ。それとも、お前の親父が反対するか?」
広太郎はすでに口元を手で覆っていた。霊界に向かおうとしている僧侶は彼らのほうを怒った顔でちらりと見やりながら、大きな空っぽの袋を腰に結びつけていた。その後、彼は傘を手に取り、開いてからテーブルの上に登った。
さすがにこの展開は岩谷氏も予想していなかったようだ。彼はとうとう黙り込み、本気で驚いた顔で傘を持った僧侶を見つめた。
僧侶は手のひらを使っていくつかの動作をし、不思議な、まとまりのない言葉を口にすると、突然テーブルから飛び降りた。旗で囲まれた円の中心に正確に着地すると、彼は目を閉じ、まるで石像のように動かなくなった。
岩谷氏は動かなくなった僧侶を興味津々で観察し、次に何が起こるかを待っていた。正広は怯えた表情で自分の体内で何かを感じ取ろうとしている様子だった。広太郎は息を飲んでじっと見つめていた。
突然、広太郎は鼻がむずがゆくなり、今にもくしゃみが出そうになって焦った。その瞬間、机から霊界に飛び込んだ僧侶が、そこで悪霊を追い払った結果、悪霊たちが自分の小さな鼻から逃げ出そうとしているのではないかという考えが頭をよぎった。広太郎は必死に両方の鼻を押さえ、悪霊を通さないようにしたが、僧侶が霊界であまりに手厳しく対応したらしく、悪霊はどこへも逃げ出すことができなかったようだ。
2、3秒後、広太郎の目には涙が溢れ出し、ついに我慢の限界を迎えた。大きく口を開けると、彼は耳をつんざくほどの大きなくしゃみをした。
僧侶は目を開けると怒りに満ちた表情で傘を投げ捨て、立ち上がってその場を立ち去った。岩谷氏は声を上げて笑い始め、広太郎は怒りで顔を真っ赤にした正広に申し訳なさそうに視線を向け、そっとささやいた。
「ごめん、わざとじゃないんだ。」
今、ペーチカの後について傾いた玄関の階段を登りながら、広太郎はあの時のことを思い出していた。岩谷氏がもう一人の僧侶に約束した金を渡しながら首を横に振り、時折まだ笑っていた場面が鮮明に蘇った。
「こっちだよ。」とペーチカが彼を涼しい暗闇の中へと導きながら、現実の世界に引き戻した。
「あそこ、ベッドの上にヴァレルカがいるよ。」
広太郎は広々とした部屋に足を踏み入れた。そこには大きなベッドの隣に若い女性が二人、スツールに腰掛けてうなだれていた。ペーチカは懐からしわくちゃになった札束をひとつかみ取り出した。
「母さん。」ペーチカは静かに言った。
「見て、このお金の山。すごい量だよ。」
広太郎が夢の世界をさまよっている間中、ペーチカは自分にとって今や極めて重要な疑問について頭を悩ませていた。片足の男と出会い、郵便配達のイグナートおじさんの言葉を聞いた後、ペーチカの心には自分の身分に対する大きな疑念が湧いていたのだ。つまり、彼はまだ「落ちこぼれ」なのか、それともそうではなくなったのか。
もちろん、ヴァレルカの病気のことも彼の頭を悩ませていたが、それ以上に、一気に変わった自分の立場の新しさが、彼の不安定な心をほぼ完全に占領していた。思考は一つの事柄から次の事柄へと飛び回り、迷い込み、新しい未知の森の中でさまよっていた。これらの迷走から、時折彼の胸のあたりが甘く冷たくなる感覚が走った。
彼は、片足の男とともに再び戦場に行く未来や、両足はあるが英雄の星を持たないレンカ・コズィリョフの嫉妬など、ぼんやりとした未来を夢想した。
しかし、突如として「もし片足の男が自分を認めなかったらどうしよう?」という考えが頭をもたげた。それは、片足の男が彼を普通のラズグリャエフカの少年、ペーチカ・チジョフとしては認めるけれども、息子としては受け入れないのではないか、という恐れだった。
この思考の新たな展開により、彼の心は一瞬で重くなり、かつて戦争中にラジオのレヴィタンおじさんが暗い声で「激しい流血の戦闘の末に…」と話し始めたときのような感覚を思い出した。その声を聞くだけで、また後退しているのだと分かった。
ペーチカの人生は、それまで道路でブリッチカ(馬車)と出会う以前までは、彼にとって明確だった。もの、人々、そして病気。いつも無口なお母さん、密造酒を持つアルチョムおじいさん、そしてレンカとその悪ガキたち――これらが形成していたしっかりと安定した世界が、余計な片足の人物の登場によって突然傾き、揺れ動き始めたのだ。
だからこそ、広太郎をヴァレルカの元に連れて行き、母さんにお金を渡した後、ペーチカは1分以上その場にじっと座っていることができなかった。そして、ヴァレルカの家から飛び出すと、ナタリヤおばさんの家に向かって全速力で走り出した。
ミハイロフ家の庭は大混雑だった。門がギシギシ鳴ったり、何度もバタンと閉まったりするのを防ぐために、最初はレンガで押さえられ、その後、完全に蝶番から外されて庭柵に立てかけられていた。ラズグリャエフカのあちこちから人々が押し寄せてきていた。
ペーチカは庭にするりと入り込むと、笑い声をあげながら家から運び出されているテーブルの下をくぐり抜け、おめかしした若い娘たちの間をすり抜けて、薄暗い土間へ滑り込んだ。そこでは都会的なジャケットを着た記者たちが煙草を吸っていた。
「まぁ、こんなに煙だらけにして!」と、ナタリヤおばさんが大きな塩漬けきゅうりの瓶を抱えて家から押し入ってきて記者たちを叱った。
「外に出れば広い場所があるでしょうに!全く、あんたたち、新聞記者だなんて言うけどね!これが文化人のすること?」
記者たちはナタリヤおばさんを見ているのではなく、テーブルの周りで笑っている娘たちに目を向けていた。やがて一人また一人と外へ出て行き、ペーチカはその間をうまくすり抜けて家の中に入り込んだ。
家の中は煙が立ち込めており、まるで梁に掛かった天秤棒のようだった。誰かが歌い、誰かが笑い、誰かが髪を引っ張られ、村の村長は何とかスピーチをしようとするも、一方で片足の男がアリョーナおばさんとその夫と一緒に馬車に乗っていたあのハーモニカ奏者を背中から追い出していた。
そのハーモニカ奏者はラズグリャエフカ出身ではなかったため、自分が何故追い出されるのか理解できていない様子だった。
「さぁ、静かにしろ!みんな外に出るんだ!母さんが外のテーブルを準備してる。ここでゴタゴタするな!」
家に詰めかけていた人々は騒がしく土間へ移動し始め、ペーチカは押し出されないように暖炉に身を寄せた。彼は家の中に残りたかった。片足の男もまだ外に出る様子がなかったからだ。客たちを押し出しながらも、彼は軽口を叩き、ウインクし、木製の義足を床に叩きつけて音を立て、ついでに女性たちにちょっかいを出していた。最後に彼が外に押し出したのは村の村長だった。
「で、お前はここで何してるんだ?」と、片足の男がペーチカに向き直り、出口に誰もいなくなったことを確認してから尋ねた。
「お前、誰の子だ?」
その時、庭からナタリヤおばさんが片足の男を呼ぶ声が聞こえた。彼はすぐにペーチカの存在を忘れ、暖炉に身を寄せている汚れた少年のことなど気にも留めなかった。
一人になったペーチカは部屋を覗き込むと、窓のそばに座っている女性を見つけた。それは片足の男と一緒に駅から来た化粧の濃い女性だった。彼女はどういうわけか他の人たちと一緒にテーブルの方へ行かず、今は一人で空っぽの部屋に座り、庭で賑わう酔っ払いの客たちではなく、道を駆け回るラズグリャエフカの大きな犬の群れを眺めていた。
背後で微かな物音が聞こえ、化粧の濃い女性は振り返り、ペーチカを見た。
「あんた、あいつの息子?」と、少し間を置いてから彼女が尋ねた。
「分からない。」
ペーチカは肩をすくめ、それ以上何も言わなかった。
ミハイロフ家の庭では、夜が更けても客たちは帰らなかった。その騒ぎは、まるでまたベルリンを制圧したかのような喧騒だった。
ナタリヤおばさんは家から灯油ランプを持ち出してきたが、その灯りはテーブルの端までは届かず、遠く暗闇の向こうからは地獄のように騒ぎ声が響き渡り、グラスがぶつかり合う音や、伸びる手が見え隠れしていた。ペーチカは片足の男の近くに何とか席を確保し、その暗闇をじっと見つめていた。彼の頭の中では、都会のスーツを着てカメラを下げた帽子をかぶった悪魔や吸血鬼がうごめいているように感じられた。
ペーチカは片足の男が自分を認める瞬間を、あるいは彼が自分の勲章「英雄の星」をどうやって手に入れたか話し始めるのを待ち続けていた。しかし、片足の男はグラスを次々と空け、罰則兵について乾杯し、戦死した兄弟たちを思い出して涙を流しながら、何も話そうとしなかった。
その一方で、ペーチカの隣に座る女性たちは、片足の男に聞こえないように小声で互いにいろいろ話していた。ペーチカの耳にはその会話が全て聞こえた。どうやら化粧の濃い女性は以前にもラズグリャエフカに来たことがあり、それどころか、ミーチカと一緒に住んでいたという。
しかし、当時彼女は精神を病んでおり、少し良くなるとすぐにミーチカを捨ててしまった。なぜなら、彼がまだ青臭い若造だったからだ。そして彼女はそのまま姿を消したという。
その後、失恋のショックでミーチカは酒に溺れ、腕を骨折した。結果、トラクター運転手になる道も断たれ、代わりにラズグリャエフカの少年が地区センターの学校に進学することになったのだと、彼女たちは囁いていた。
ここまでペーチカは、女性たちの話をそれほど注意深く聞いていなかったが、親戚の話が出ると急に耳をそばだてた。どうやらこの話の中で、自分が登場する瞬間が近づいているような気がしたのだ。それに、化粧の濃いあの女性――どうやらモスクワの駅のどこかで片足の男が拾ってきたという――が、自分や母親、さらには自分が生まれた背景と何らかの関係があるように感じられた。
「もし、あの女、まあ、許しておくれよ、ナスチューカとかいう女がいなかったら、あいつはあのときに地区センターにでも行ってしまっていただろうに」と、1人の女性が小声で、それでも興奮した様子で話し続けた。
「そうすれば、こんな恥ずべきことにはならなかったのに。なのに今となってはどうだ? チジョフの娘を傷つけて、さらにこの、見ての通りの売春婦まで連れてきてさ。もう、情けないったらない!」
「静かにしなさいよ!聞こえちゃうでしょ!」と、もう1人の女性が注意した。
ペーチカはこの話の詳細をもっと知りたいと思ったが、彼の近くに座っていた女性たちは話を止め、冷たいゼリー寄せ肉に夢中になった。ナタリヤおばさんは息子の帰宅に合わせて本当に気合を入れて準備したようで、ペーチカはこんな豪華なテーブルを一度も見たことがなかった。
「なんだって?」と突然、片足の男が母親に向かって叫び、身を乗り出した。
「もっと大きな声で言えよ!聞こえない!」
ナタリヤおばさんは息子を自分の方に引き寄せ、ペーチカを何度も見やりながら、急いで何かを耳打ちした。片足の男もペーチカをじっと見つめ、ついに彼のことを思い出したようだった。
ミーチカは席から立ち上がり、ふらつきながらも威厳をもってペーチカを手招きした。ナタリヤおばさんはすぐに彼の隣のスツールを空け、少し離れた場所へ移動した。ペーチカはそのスツールに座ると、片足の男は彼を肩で抱き寄せ、酒の匂いを耳元に吹きかけるようにしてこう言った。
「それで、どうだ?ここでいじめられてたりするのか?」
「いや、大丈夫だよ、全然。」
ペーチカは念を押すように頭を横に振ったが、片足の男はどうやら信じていない様子だった。
「嘘つけ。絶対にいじめられてるんだろう。でも、お前は偉いよ、誰にも告げ口しないで。俺はな、告げ口する奴をこうしてやるんだよ……」
片足の男は空のグラスを手に取り、思い切りテーブルに叩きつけた。ガラスは粉々になり、キラキラと光る破片が四方に飛び散る。その瞬間、庭は静まり返り、しんとした空気が漂った。
「さあ、飲んで遊べ!」片足の男は叫びながら、近づいてきたナタリヤおばさんが手にしていた布を振り払い、ガラスで切った手を放っておいた。
「わかったか?」と彼はペーチカに問う。
「うん、わかったよ」と答えたペーチカだったが、実際には何がわかったのか自分でもよくわからなかった。
「そうだ!忘れるなよ」と片足の男は続けた。「お前は俺と同じ血筋なんだから覚えておけ。ロシア人ってのはな、そう簡単に素手で倒せるもんじゃない。ドイツ人とかルーマニア人とかなら簡単に倒せるだろうが、ロシア人は違う。ロシア人は中に収まりきらないくらい大きいんだよ。だから暴れる。ドイツ人なんかは自分の中にすっぽり収まるし、他に5人くらい余裕で入るスペースがある。だけどロシア人は自分の中に収まりきらない。それで外に飛び出そうとするんだ。ロシア人は大きすぎるんだよ。だからこそ暴れるんだ。」
片足の男は血の滲む手を舐め取ると、ペーチカに向かってウインクをした。
「もし誰かがお前にまた手を出してきたら、ここだ、ここを噛みつけ!」片足の男はペーチカの首にあるロープの跡を指差しながら言った。「そして思い切り引っ張れ。奴らが自分の血で窒息するくらい強く引き裂いてやれよ!わかったか?」
ペーチカの答えを待つことなく、片足の男は立ち上がり、近くにあった他人のグラスを手に取り、庭中に響き渡る声で叫んだ。
「勝利に乾杯だ!」
宴席にいた客たちは一斉に立ち上がり、手元のグラスを片足の男に向けて掲げた。しかしその時、門の外から突如として悲鳴が上がった。
「助けて!おおお、神様、殺される!」
門に近い客たちが真っ先に外へ飛び出し、残りの客たちも慌ててフォークを放り投げ、狭い門口へと殺到した。ペーチカはその間をすり抜け、門の外に出た。そこには血まみれのアリョーナおばさんが暗闇の中を必死に逃げ回る姿があった。彼女の後ろでは、怒り狂った巨漢の夫が薪の棒を振り回し、時折それをアリョーナおばさんに振り下ろしていた。どれだけ彼女が逃げても、枝付きの棒が肩や頭に重く打ちつけられるたびに、アリョーナおばさんは苦しそうな悲鳴を上げた。それでも彼女は走り続けた。止まれば全てが終わることを彼女は理解していたのだ。
「殺してやる」と夫は低い声で呟きながら、しがみついてくるレンカを振り払おうとした。レンカは父親の巨体にしがみつき、ぶら下がる布切れのように見えた。
夫の一振りでレンカは遠くに投げ飛ばされ、塀に頭を打ちつけた。血と涙で顔を汚しながらも、レンカは叫び続けた。
「走れ、母ちゃん!逃げろ!」
彼もまた、これが良い結末を迎えることはないと悟ったのだろう。
ミーチカの宴席の客たちは、一瞬立ち尽くした後、ついに我に返り、レンカの父親に飛びかかった。しかし彼の巨体に容易く弾き飛ばされてしまう。それでも、その一瞬の隙を突いて、アリョーナおばさんは細い路地に逃げ込み、高いチェリーモモの茂みの影に消えていった。
「それでも殺してやる」と夫は執念深く呟き、彼女を追って走り去った。
他の客たちも次々と路地へと消えた。
門の近くにしばらく立ち止まり、遠ざかる怒声と罵声、悲鳴を聞いていたペーチカは、やがて振り返り、レンカに目を向けた。レンカはまだ塀の下に座り込んで泣いていた。
ペーチカは、レンカが本当に泣いているのか確かめるために、彼のそばに寄り、しゃがみ込んだ。レンカは青い綺麗なシャツを着ていた。それはおそらく、父親が戦場から持ち帰ったもので、肩や胸がボロボロに裂けていた。
「戦利品か?」とペーチカが尋ねた。
「うるさいよ」とレンカはすすり泣きながら答えた。
そのとき、門から片足の男が少しふらつきながら出てきた。
「なんだ、騒いでるだけで喧嘩もないのか?」と周りを見回しながら彼が言った。
「みんな逃げちゃった」とペーチカが答えた。
「そうか」と片足の男は伸ばしながら言い、少年たちのそばに近づいてきた。
「ずいぶん楽しそうに暮らしてるじゃないか。それで、このガキは誰だ?」
「レンカ・ネステロフ」とペーチカが答えた。
「アリョーナおばさんの息子さ。おばさんは戦争中ずっと守衛のいる収容所に行って、みだらなことをしてたんだ。だから今、こいつの父親がおばさんを殺そうとしてる。」
「それは正しい」と片足の男が頷いた。
「女がみだらなことをするのは良くない…。で、こいつが、お前に容赦しなかったっていう小悪党か?母さんから聞いた話の奴か?」
「ああ」とペーチカが頷いた。
「じゃあ、すばらしいじゃないか。今こそ借りを返す時だ。さあ、思いっきりぶん殴ってやれ。その悪党に、誰がこの家の主人か思い知らせてやるんだ。」
ペーチカはためらいがちに父親を見上げ、それからレンカに視線を移した。
レンカはまだすすり泣きながら、うつむいたままペーチカを見上げていた。
「僕は殴らないよ」とペーチカが言った。
「なんでだ?」
「僕は先に手を出さない。」
片足の男は突然ペーチカの襟を掴むと、意外なほどの力で地面に投げ飛ばした。それから、自分も素早く片膝をつき、木製の義足を巧みに横へ払いのけると、レンカの腕を掴み、その拳をペーチカの顔に押し付けた。
「さあ、これでお前は先手じゃない。今こそ殴れ!さあ、殴るんだ!」と片足の男が叫んだ。
しかし、ペーチカはためらっていた。彼はレンカを見つめた。レンカは、どうすればいいのか困惑しながら鼻をすすり、片足の男の様子をちらちらと伺っていた。ペーチカは眉をひそめ、顔をしかめながらも、心の奥で怒りがじわじわと湧き上がるのを感じていた。
「殴れ!」片足の男は再び怒鳴りながら、ペーチカの右手を掴んでレンカの顔に押し付けようとした。
「もう一度でも触ったら――」ペーチカは父親の手を振り払って立ち上がり、叫んだ。
「お前の耳を噛みちぎってやるぞ!」
片足の男は一瞬驚いたが、すぐに笑い出した。
「さすが俺の血だな!」彼はそう言うと、息子の頬を軽く叩いた。
しかし、ペーチカは迷わなかった。彼は父親の手に噛み付くと、歯茎が痛くなるほど力を込めた。それから、一気に身を引き離し、ヴァレルカの家へと駆け出した。彼の口からは不要な、他人の血が吐き出されていった。