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『草原の神々』訳 ⑬

第13章

広太郎はすでに2日間、懲罰房に閉じ込められ、人生について思いを巡らせていた。なぜこの地域の植物に突然変異が起きるのか、なぜロシアの少年たちが仲間を絞首刑にしようとするのか。そんなことを考えていた。下級伍長丸田の冷たくなった顔を思い出し、それを自分のノートにスケッチしておけばよかったと後悔した。

彼は、収容所近くの炭鉱を閉鎖する必要性をロシア人にどう伝えればいいのか悩んでいた。捕虜たちがそこで死んでいくのは、決して偶然ではないからだ。そして、もし正広が1939年9月に戦闘地域に来なかったなら、今頃二人とも長崎にいただろうと考えた。

しかし、正広は常に野心に燃えていた。だから、「鎮西日報」の編集部で、誰を従軍記者として派遣するかが議論された際、彼は「ハルハ川(ノモンハン)では自分の兄弟が戦っている」と主張したのだ。
その嘘を知ったとき、広太郎は正広が自分を「兄弟」と呼んだことに一瞬喜びを覚えた。しかし、その直後、正広は笑みを浮かべながらこう言い足したのだ。

「勘違いするなよ。親父が死んでも、お前には何も渡さないからな。」


広太郎はその日の翌日、瀕死の重傷を負った。彼が軍医として務めていた大隊は、左翼を前進し、イリス・ウリン・オボ山を占領し、主力が到着するまでその位置を死守するという命令を受けた。ハルハ川(ノモンハン)での戦いがすでに敗北したことを多くの将校たちは理解しており、この命令が不可能なものであると知っていた。それゆえ、広太郎は友人である正広に夜間の突撃には参加しないよう懇願した。

しかし、正広は広太郎の言葉に耳を貸さなかった。正広は、広太郎が自分の立場を奪おうとしていると思い込んでいたのだ。彼は広太郎が英雄として長崎に戻ることを許すわけにはいかなかった。父親に、誰が真の息子であるかを証明しなければならないと思っていたからだ。

9月7日の夜、大隊は山の位置を占領したが、翌日の夕方までには、敵の軽戦車と砲撃によってほぼ全滅させられてしまった。

広太郎は鉄格子のはまった小窓から鮮やかな青空を見つめ、喉を焼くような渇きを忘れようと努めていた。そして、血まみれの正広を深い穴から引きずり出したときのことを思い出していた。

そのとき、ロシア兵が手榴弾を投げ込むのではないかという恐怖が広太郎を支配していたのだ。さらに、隣の穴から現れた二人の兵士が手を挙げ、近づいてきたソ連の将校に対し、銃剣を使って突進し、刺し殺した場面が思い浮かんだ。

また、停戦後、捕虜として地面に座っていた兵士たちの周囲を、ポツンと一台のバイクのエンジン音が響いていたのを思い出した。それは原田大佐のバイクで、ソ連の高級将校がそのバイクに乗って草原を走り回っていた。彼は明らかに初めてバイクに乗るらしく、時折転倒しながらも笑い声をあげては再び立ち上がり、果てしなくバイクを走らせ続けていた。

その後、捕虜交換のためにソ連軍の拠点に到着した原田大佐も、彼のバイクを見てそれと気づいたが、顔色一つ変えなかった。彼は日本兵たちの列の間を歩き、同行していた衛生兵たちに急ぐよう命じていた。衛生兵たちは素早く、そして乱暴に、捕虜たち全員の頭に厚い白い紙製の袋を被せていった。無数の蚊が集る中、白い袋を被った人々は地面に座り、飛行機に案内されるのをじっと待っていた。

正広はまだ意識を失ったままだったので、衛生兵に頭を乱暴に持ち上げられ、袋をかぶせられても気づかなかった。その隣に横たわっていた輸送大隊の負傷した中尉は、自ら首を伸ばし、衛生兵に頭を差し出した。そして次の瞬間、広太郎も周囲の様子が見えなくなった。袋はどうやら長い間倉庫に放置されていたらしく、燻製の魚と強いタバコの匂いが広太郎の鼻を突いた。

それでも、わずか10分も経たないうちに、この袋を頭にかぶったまま座っているのは耐え難いものとなった。満州の太陽がすぐに紙を熱し、袋の中には蚊が入り込んだ。しかし、広太郎はそれらを追い払うことも、顔を伝う汗を拭うこともできなかった。袋に手を近づけると、すぐそばで袋を取るなと怒声が飛んできたのだ。

広太郎は、「暑すぎるし、負傷者の世話をしなければならない」と何度も訴えたが、「じっと動かず座っていろ」と命じられるばかりだった。袋は、彼自身のためだと言われた。「さもなければ、飛行機で日本軍の駐屯地に着いたとき、皇軍の将校や兵士たちの顔をまともに見られなくなるだろう」と。

横に横たわる正広の様子を時折手探りで確認しながら、広太郎は物資を積み込む音や、飛び立つ飛行機の轟音、原田大佐の短い号令、そしてソ連兵の笑い声に耳を傾けていた。しかし、突然ひどい悪臭が広太郎を包み込み、思わず嘔吐感に襲われた。それは戦死した将校たちの遺体の搬送が始まったことを意味していた。

やがて誰かが彼の肩を軽く押し、広太郎は硬直していた足をなんとか伸ばしながら立ち上がった。


「前へ進め」という声が聞こえた。

「重傷者たちはもう運び込まれたのですか?」と、広太郎は地面に体を傾け、正広が横たわる担架を手探りで見つけようとした。
「彼らはここに残る。」

広太郎は一瞬動きを止めた。そしてぎこちなく地面に身を落とすと、汗と潰れた蚊で湿った紙袋を頭から引き剥がした。太陽に照らされた世界が一気に広がり、同時に涙でぼやけていく。
「立て!」と、輝く薄明かりの中から誰かが命じた。

しかし、広太郎は身動きもしなかった。右手でざらついた担架の取っ手をしっかり握りしめ、左手で涙を拭った。その顔には蚊の残骸と自分の血が混ざり合った跡が広がっていた。周囲にはほとんど誰も残っていなかった。あちこちに担架が散らばり、その上に意識を失った数人が横たわっていた。近くでは最後の輸送機がエンジン音を轟かせていた。

「今すぐ立て!」と、広太郎の上に身を屈めた男が再び命じ、刀の鞘で彼の頭を叩いた。

原田大佐の怒りとその頭上に輝いていた太陽を思い出しながら、広太郎は乾ききった唇でかすかに微笑んだ。あの時、ハルハ川では一瞬、自分が太陽そのものを怒らせたように感じたのだ。

その過剰な自尊心を思い返して苦笑いすると、彼は再び目を上げて鉄格子の窓を見た。

そして、突然の出来事に思わず身震いした。鉄格子越しに、密集して肩を寄せ合った三つの顔が彼をじっと見つめていた。


「水はもらえてるのか?」と、そのうちの一人が言った。

「違うよ、全然違う。」と、もう一つの声が引き伸ばして言った。「上等兵ソコロフが飲ませるなって言ってた。」

「でも、水を飲ませて、食べ物を与えて、それからラズグリャエフカに連れていくべきだ。」

「僕たちが自分で食べさせます!」と、三つ目の顔が子供のような声で言い出した。「ヴァレルカが死んじゃいますよ、中尉殿。お医者さんがどうしても必要なんです…」

広太郎は、差し出されたひしゃくから水を飲み続けた。その様子を見ていたペーチカも、だんだんと喉が渇いてきた。ペーチカは広太郎のそばに立ちながら顔を上げ、ひしゃくから太陽の光を受けて輝く大きな水滴がぽとりぽとりと地面に落ちていくのを数えていた。

その後、再び目を上げ、広太郎の痩せた首で上下に忙しなく動く大きな喉仏を見つめていた。その喉仏はまるで止まることを知らないように動き続けていた。

広太郎はペーチカのじれったい視線を感じながらも、ひしゃくの水があまりにも美味しくて飲むのをやめられなかった。まるで貯水タンクにでもなったかのように、自分の中に水をため込み続けていた。長い間乾ききった植物が雨の恵みを吸収するように、自らの体に水分を送り込んでいた。

水を味わいながら広太郎は思わず歯を食いしばり、ひしゃくの縁を噛んでしまった。その痛みに顔をしかめながらも飲むのをやめなかった。その瞬間、彼はオウィディウスの物語の登場人物たちが、どうして木や草に変わりたがったのか、ようやく理解できた気がした。

広太郎自身も、まるで砂漠に生える植物の一種、例えばヨモギやサボテン、いや、むしろ強い根を持ち、地下深くから水を汲み上げるセージのように感じられた。

再び歯がひしゃくの縁に当たり、数粒のゴミやもがく虫を飲み込んだところで、広太郎はようやく息をつき、ひしゃくから顔を離した。そして、まるでお腹いっぱいになった後のように重たい視線をアジンツォフと、隣でじっとしていたペーチカに向けた。


「すごいな、俺だったらもう息が切れてるよ。」と、一人が呆れたように言った。

「鉱山...閉鎖...必要だ...」と、広太郎は息を詰まらせながら答えた。
「全ての人々に危険...」

「この少年と一緒に行け。」と、アジンツォフ中尉が広太郎の言葉を遮った。
「村ではもう一人の少年が死にかけてる。助けてやれ。お前、医者だろう。」

「私、医者、そう、医者。」広太郎は慌ててうなずいた。
「ロシア人も、日本人も、全員治さないといけない。鉱山、危険...鉱山閉鎖必要...」

「こいつ頭おかしいですよ、中尉殿。」ソコロフ上等兵がのんびりと近づきながら言った。
「2日前にも同じこと言ってました。こいつらの言うことを聞いてたら、鉱山なんて全部閉めちまいますよ。」

「破壊工作員め!許可を頂ければ、このままラズグリャエフカまで連れて行きます。俺が見張っていれば逃げませんから。」
アジンツォフ中尉の眉間にしわが寄った。

「なんでこいつに水を飲ませなかったんだ?」と、上等兵に目も向けず冷たく尋ねた。

「申し訳ありません。」

ソコロフは黙り込み、中尉の言葉を理解しきれない様子でじっと見つめた。

「聞こえなかったのか?」とアジンツォフ中尉がゆっくりと、ほぼ一音ずつ話し始めた。
「どうしてこの捕虜に水を与えなかった?それから、その立ち方は何だ!上等兵!姿勢を正して、規律に従って答えろ!」


ソコロフはピンと背筋を伸ばし、素早く上着のボタンを留め直してベルトを整えた。

「申し訳ありません、中尉殿!捕虜番号251は、収容所の規則を繰り返し破ったために食料と水の供給を停止されました...。こいつ、走り回るんですよ、中尉殿。草なんか集めて。」

ソコロフの声にはいつもとは違う服従や、上官への恐れのような響きが含まれていた。普段のゆったりとした態度はどこへやら。

「見張りをしっかりしろ。」と、アジンツォフ中尉が厳しい口調で続けた。

「だらけすぎだ!それで、これは何だ?」突然彼は自分の足元を見下ろして驚いた。

「これは一体どういうことだ?」


広太郎は、戦車兵の元に行くために履かせてもらったペーチカの磨き上げられたブーツのそばでしゃがみ込み、地面に何やら図や数字を描いていた。

「立て!」と上等兵ソコロフが怒鳴りながら、広太郎の脇腹を靴先で蹴りつけた。

だが、広太郎は地面に描き続けた。まるで蹴られたのが自分ではなく、全く別の誰かだったかのように。

「立てと言ってるだろう!」

ソコロフは再び広太郎を蹴りつけた。今度は広太郎は痛みに体を丸めた。

「やめてよ!」とペーチカが広太郎と上等兵の間に飛び込んで叫んだ。
「僕には医者が必要なんだよ!この日本人を傷つけたら、ヴァレルカを誰が治すのさ?」

「どけ!」とソコロフは怒鳴り、ペーチカを横に押しのけた。

「やめろ!」とアジンツォフ中尉が大声で制止した。

「すぐにやめろ!」

ソコロフは立ち直り姿勢をとった。一方、広太郎は満足げに、地面に自分の落書きを描き終えた後、ゆっくり立ち上がり、アジンツォフ中尉に向かって礼をした。
「将校殿、図をご覧ください…とても大事な図です。」

「将校なんてものは、1917年に全員いなくなったんだ。」とアジンツォフは言った。

しかし、広太郎を止めることはもうできなかった。
「鉱山で人々が病気になります、死んでしまいます。鉱山を閉鎖する必要があります。鉱山は危険です…」

アジンツォフ中尉は、広太郎が地面に描いた図に目を落とした。
「何を描いたのかさっぱりわからん。」と彼はつぶやいた。
「墓のように見えるが…」

広太郎は地面に二つの墓の小さな山と十字架を描いていた。左の墓の下には「20」という数字が、右の墓の下には「3」という数字が刻まれていた。
「これは私たちの鉱山です。」と広太郎は左の墓を指しながら言った。「20人が死にました。そしてこちらが別の鉱山です。」彼は右の墓を指しながら続けた。「3人が死にました…20人、3人…考えてください。大きな違いです。」

広太郎はアジンツォフ中尉の前で立ち止まり、右手を伸ばして3本の指を突き出した。

「考えるまでもないですよ。」とソコロフが言った。
「働きたくないから死んでいくんだ。資源採掘を妨害してるんです。奴らは労働よりも死を選ぶんだ。嫌がらせですよ、まったく。」

「待て、上等兵。」とアジンツォフは顔をしかめた。
「確かにこれはおかしい…」

「中尉殿!」とペーチカが懇願した。
「ヴァレルカが死んじゃうよ。日本人を僕と一緒に行かせてよ。」

「ラズグリャエフカまで彼らを同行させる許可をいただけますか?」とソコロフが再び姿勢を正して言った。

「まあまあ、二人とも落ち着け。」アディンツォフは手を振って二人を制し、広太郎に視線を向けた。
「で、お前の考えでは原因は何なんだ?」

「…とてもむずかしい、です」広太郎は指を広げた手を下ろしながら答えた。
「でも…ここ、この炭鉱は…変化してます。植物が変わった。異常な花が、ある。他の炭鉱では変化なし。花が…正しい。良い花、です…」

「何を言ってるのかさっぱり分からんな」アディンツォフは呟いた。
「花がどう関係あるんだ?」

「中尉殿!」ペーチカが再びせがむように声を上げた。
「医者が必要なんです!命令してください、彼を行かせるように!」

アディンツォフは眉をひそめ、ペーチカに一瞥をくれると、一瞬考え込んでからようやく頷いた。
「よし。後で彼と話す。まずはそれからだ。」

「私が彼らを護衛しましょうか?」上等兵ソコロフが嬉々としてアディンツォフに身を寄せた。

「いや、普通の兵士を誰か送れ。お前は収容所でやるべき仕事が山積みだろう。」

中尉は踵を返し、収容所の広場を横切って食堂に向かって歩き出した。そこでは護衛部隊の小隊が整列して近づいてきていた。ソコロフは数秒間、目を細めてアディンツォフの背中を見つめると、地面に唾を吐き、大股で歩きながら自分の詰所へ向かった。


しかし、彼の思惑は見事に成功した。ペーチカ、広太郎、そして護衛役として指定された兵士が森の中へと向かう道を進んでいたところ、突然、ソコロフが茂みから現れたのだ。

「お前はもう自由だ。」ソコロフは護衛兵とペーチカに短く言い放った。

「お前の日本人は俺が運ぶ。心配いらん。」

「なんで俺に一緒に行くよう命じたんだよ…」護衛兵が口を開きかけたが、ソコロフは苛立った様子で手を振って彼を遮った。

「消えろ!」と命じた。
「もし中尉殿に何か告げ口しようものなら、明日から便所掃除担当にしてやる。」

「何でいきなり便所掃除なんだよ…」護衛兵はぼやきながら、銃剣の付いたベルトを直しつつ踵を返し、去って行った。

「それと晩飯を俺の詰所に持って来い!」ソコロフは彼の背中に叫んだ。「いいな?」

「わかったよ、わかった」護衛兵は振り返らずに答え、そのまま角を曲がって見えなくなった。

ソコロフは再びペーチカにウィンクを送り、楽しげな緑色の目を輝かせた。

「ほら、こうやるんだよ。『だめだ』とかなんとか言ってみろ、指揮官様がいるぜ。でもな、中尉殿までは誰だって昇進できる。それを上等兵まで持ってこられるかが本物だ。」

ソコロフは笑い声を上げ、全身をぐっと伸ばした。それはまるで目覚めたばかりか、退屈で骨の折れる仕事を終えたばかりのようだった。
「なぜかって?それは、力だよ、坊主。上等兵には力があるんだ。さあ、お前の日本人を連れて行こうか。お前らの村には、前線から戻った男たちがいるんだって?」

「ああ、そうさ」とペーチカがうなずいた。

「で、俺のアリョーナの旦那も帰ってきたって?」

「そうだよ。昼ごろにはみんな駅に行っちゃった。みんなで迎えてるんだ。」

「じゃあ、早く村に向かおうぜ。まだ間に合うかもしれない。」

ソコロフは夢見るような微笑みを浮かべると、広太郎の肩を軽く押した。
「ほら、行けよ!寝てるのか?」


広太郎は、自分がどこへ連れて行かれ、何のために歩いているのか、ほとんど理解していなかった。少年と護衛兵が交わす会話はとても速く、広太郎のぼんやりした意識の中では、そのすべてが水面に反射する太陽の光のように断片的にしか捉えられなかった。つまり、キラキラと光る断片的な輝きはかろうじて感じ取るものの、それを生み出す太陽そのものがはっきりと見えず、全体像がつかめないのだ。光は常に細かく砕け散り、ひとつの明確な円にはならなかった。

さらに、広太郎はひどく気分が悪かった。広場でがぶ飲みした水が、彼の体内で一歩ごとにぐるぐると渦巻き、明らかに不快感をもたらし、いつ吐き出されてもおかしくない状態だった。彼は、サボテンという植物が人間よりも遥かに効率的にできていることに思いを巡らせていた。サボテンはどんな水分でも簡単に保持できる。

それに比べて今の自分はどうだ。この気分の悪さがなく、後ろでペーチカがちょこまかと走り回ることもなく、護衛兵が背中を押してくることもない、サボテンとして再び生まれ変わることができたらと願っていた。だってその時は、背中に大きな鋭いトゲがあって、誰も押してこないだろうから。

広太郎は、自分が乾いた灼熱の砂漠の真ん中で、延々と続く砂のさざめきに耳を傾ける姿を想像していた。そのとき、体というものがなくなるという考えが不思議と喜ばしく感じられた。


「ところで、アリョーナおばさんの子どもを知ってるか?」その間にソコロフがペーチカに尋ねた。

「レンカ・コズィリョフ?もちろん知ってるよ」とペーチカが答えた。さらに何を思ったか、続けて嘘をついた。
「僕たち、友達なんだ。」

「それでさ、なんでコズィリョフのことをコズィルって呼んでるの?」とペーチカが尋ねた。

「コズィル(切り札)のように特別だからさ。それでそう呼ばれてる。」とソコロフが答えた。

そのとき、遅れていた広太郎が小さな声で何かを呟いたかと思うと、大きな道端の茂みにかがみ込み、突然激しく嘔吐し始めた。ペーチカが立ち止まったその瞬間、村の方へ向かって村長の馬車が勢いよく通り過ぎていった。

馬車の前座には郵便配達人のイグナートおじさんが座っていた。ペーチカがその姿をちらりと見た次の瞬間、最初の馬車が巻き上げた砂埃の中から、2台目の馬車が現れ、ペーチカの方へ何かが投げられた。

それが彼の頬に当たると同時に、車中の誰かが陽気に笑い声を上げた。御者の隣に座っていたアコーディオン奏者が自分に調子を取りながら「ヤーブロチコ(ロシア民謡)」を奏で始めた。

さらにその後ろには、埃をかぶった都会風の人々を乗せた荷馬車が、でこぼこ道で跳ねていた。その人々は首からカメラをぶら下げていた。

ペーチカは頬を拭きながら、その騒々しい一行を見送った。そのとき、イグナートおじさんが振り返って同乗者に何かを言った。その直後、彼の馬車が突然止まり、その馬車の上から軍服を着た男の頭が現れた。男の胸元には、太陽の光を受けて「英雄金星勲章」が鮮やかに輝いていた。そして、彼の満面の笑みに金歯がきらりと光った。

2台目の馬車と荷馬車も立て続けに止まり、車輪の軸がもう少しで接触しそうになった。広太郎は依然として茂みのそばで嘔吐を続けていた。ソコロフは巻き上がる埃に目を細めながら、不意に止まった行列を警戒するように見つめていた。


「おい、そこのガキ!」金歯の男が酔っ払ったような声で馬車から叫んだ。

「さっさとこっちへ来い!急げ!」

ペーチカが2台目の馬車の横を通るとき、彼はその中にレンカ・コズィリョフの姿を見つけた。レンカは本革のシートに座り、楽しげに笑いながら、こっそりペーチカに拳を見せつけた。レンカの隣には、真っ赤な顔をしたアリョーナおばさんが座っており、その反対側には、見上げるような大男が座っていた。それが彼の父親に違いなかった。

ペーチカは、アリョーナおばさんの夫の顔を覚えていなかった。それもそのはず、彼が戦地に出征したのはずっと前のことだったからだ。

ペーチカは、ダリヤ婆さんのチェストの上に飾られている写真がなければ、自分のおじたちであるヴィーチャとユーラの顔さえも覚えていなかったかもしれない。その写真は美しい額に収められ、彼の記憶に残っていた。

大男は、レンカをしっかり抱き寄せていた。その手は復活祭のクーリチ(パン菓子)ほどの大きさがあった。

「ここに来い!」と金歯の男が再びペーチカに向かって叫んだ。
「何をぼんやりしている!待たせるな!」

ペーチカは馬車に近づき、中に座っていた男が片足であることに気づいた。

彼の左側には汗ばんだフレンチコートを着た集団農場の議長が座っており、右側には派手に化粧をした女性がいた。片足の男はその女性をしっかりと抱き寄せ、その脇腹を撫でていた。
「さあ、乗れ。手を貸すぞ」と男はペーチカに体を傾けながら手を差し出した。

その手は触るとシャベルのように硬く、ざらざらしていてしっかりしていた。
「よし!おい、詰めろ」片足の男は、すでに前座に体を傾け、何か見逃さないようにと後ろを気にしていたイグナートおじさんの背中を押した。

郵便配達人のイグナートおじさんはすぐに前座の端に移動し、その姿勢にペーチカは彼が落ちないか心配した。しかし、イグナートおじさんはただ満足そうに笑みを浮かべ、自分の馬がハエを追い払うときのように頭を上下させただけだった。

ペーチカは片足の男が前座に楽に置いていた木製の義足をまたぎ、派手な化粧をした女性の向かい側に腰を下ろした。

「見たか?」と片足の男は汗をかいた議長に肘で軽く触れながら言った。「見ろよ、どうだ?いいだろう?英雄に見えるか?」

そして彼は突然ペーチカを自分の方に引き寄せた。その不意の動きにペーチカは驚いて馬車の床に落ちそうになった。体勢を立て直すため、片足の男を押し返し、しっかりと座席にしがみついた。


「おい、何してるんだ!」とイグナートおじさんが小声で言った。
「お前、何やらかしてるんだ?わかってるのか?この人が誰だか?この人はソビエト連邦の英雄だぞ!しかもお前の父親だ!まったく…何もわかってないやつだ…」


ペーチカは、片足の男を見つめたまま凍りついた。そして、その瞬間、彼の周りの世界はすべて消え去った。駅に続く道、左手に広がる草原、右手の埃まみれの低木、アリョーナおばさんとその夫の巨大な拳を見つめている上等兵ソコロフ、吐き気がようやく収まって立ち上がり、手のひらで日差しを遮りながらペーチカを見つめている広太郎――すべてが一瞬で消え去り、残ったのはイグナートおじさんのささやきだけだった。

「馬鹿だな……あれがお前の父親だぞ……父親だ……」

「父ちゃん……」とペーチカはつぶやいた。

その瞬間、彼の頭の中は不思議な感覚に包まれた。それは、どうしても思い出せない大切な答えを一日中、そして夜になっても探し続け、疲れ果てて眠りについた後、朝目覚めた瞬間に突然その答えがすぐそこにあるような感覚だった。しかし今回は夜の眠りもなく、ただ馬車に乗り込んだだけで、その答えが目の前にいた。片足の、酔っぱらって笑みを浮かべる男が――。

「なんだ、口をぽかんと開けて。こっちに来いって言ってるだろ!」

片足の男は笑いながらペーチカを前座から引きずり下ろし、再び議長の脇腹を肘でつついた。

「席を替われ!狭いだろうが。」


議長は顔をしかめたが、仕方なくイグナートおじさんの隣の高い席に移動した。郵便配達のイグナートおじさんは、その新たな隣人を避けるようにさらに端へと移動し、まるで奇跡のような姿勢で前座の端にしがみついていた。

「こうだ、こうだ」と片足の男は甘いウォッカの匂いをペーチカに吹きかけながら、彼を自分の隣に座らせた。
「ここが、お前にぴったりの場所だ。英雄の隣にな。」

そして彼は背後から膨らんだ布の袋を引っ張り出し、袋の口を開けてペーチカに山積みになった紙幣を見せた。

「ほら、持ってけよ。惜しくないからな。ほら!」片足の男は一握りのくしゃくしゃになった紙幣を掴み、ペーチカの服の中に押し込んだ。
「さあ、村中で豪遊しろ!ほら、これも見てみろ!俺が連れてきたカワイコちゃんだ!」

彼は派手に化粧をした女の首を抱きかかえ、自分の方に引き寄せて、厚く塗られた口紅の唇に強くキスをした。
「おお、ナスチューカ!お前、分かってるか?これ、俺の息子だぞ!わかるか?」

「私はナスチューカじゃないわよ」と派手に化粧をした女は、片足の男を押しのけながら言った。
「私はリューバっていうの。」

「俺がナスチューカだって言ってるんだ!」


片足の男は突然怒りだし、全力で前座の座席を拳で叩きつけた。ペーチカは、その拳が議長に当たるのではと怯えたが、それはちょうど議長とイグナートおじさんの間に落ちた。馬車がガタガタと揺れ、道端で草をゆっくり噛んでいた馬が頭を上げ、足を踏み換えた。

「おい、記者を呼べ!」片足の男は議長に怒鳴りつけた。
「英雄が写真を撮りたいんだ!家族に囲まれたポートレートが欲しいんだ!みんなみたいにな!」

彼はペーチカと化粧の濃い女を両腕で抱き寄せ、二人をぎゅっと押し付けた。ペーチカの頭は彼女の柔らかい胸に埋まり、そこから強い汗とコロン、そしてなぜか炒ったヒマワリの種の匂いがした。

「放してよ……」と彼女は小声で言ったが、片足の男は二人を抱きしめたまま、大声で笑い続けた。

「ほら見ろ、お前にこんな母ちゃんを連れてきてやったぞ!」彼はペーチカの後頭部に向かってささやいた。
「これからは俺たち、贅沢な暮らしだ!」

ペーチカは、片足の男と派手に化粧した女との生活を思い描き、炒ったヒマワリの種の匂いをもう一度吸い込んだ。そして、無言の蛇のようにその強い腕の中からするりと抜け出した。ちょうどその時、写真を撮るためにカメラを持った男が馬車に乗り込んで来た。

「撮れ!」片足の男は叫んだ。

記者のために、イグナートおじさんと議長はさらに前座で押し合いを強いられた。写真家はペーチカにレンズを向け、次に片足の男に向け、そしてついにシャッターを切った。

「ナスチューカが写ってないじゃないか!」片足の男が叫んだ。
「もう一回だ!」

記者が再びカメラを構えると、今度は片足の男が注意深く彼の動きを見て、すぐに異変を察した。

「どこ狙ってんだ?彼女がフレームに入ってないだろう!俺をバカにしてるのか?」

片足の男は記者の脇腹を拳で突き、記者は苦痛に顔をしかめながら議長の方を見た。議長はため息をつき、頭を横に振ったが、しばらく考えた後、派手に化粧した女も撮影することを許可した。
 
「歴史のためだぞ、ナスチューカ!」片足の男は記者がカメラを下ろし、馬車から地面に飛び降りた時、声高に叫んだ。
「英雄、ソビエト連邦の英雄が帰ってきたんだ!俺はここで全員に見せつけてやるぞ!収容所での年月の代償を払わせてやる!奴らに楽しい人生ってものを教えてやる!」

片足の男は一度立ち上がり、体を反転させ、唯一残った膝で座席に踏ん張りながら、拳を後方に向かって振り上げた。まるで彼の辛い運命に責任のある者たちが、後ろの荷馬車にでも乗っているのか、それとも草原のどこかに隠れているのかと言わんばかりだった。


その騒ぎの隙に、ペーチカは静かに馬車から滑り降り、後ろに回り込んでそっと足音を忍ばせながら、彼の日本人医者と上等兵ソコロフの元へ向かった。ソコロフは相変わらずアリョーナおばさんをじっと見つめていたが、彼女はまるで彼の存在に気づいていないかのように振る舞っていた。

彼女は終始、巨大な山のような夫に寄り添い、彼のベルトや軍服、さらにはなぜか勲章まで直し続けていた。それらの勲章は、日差しを受けてキラキラと輝きながら音を立てていた。

「どこ行くんだ!」と片足の男はペーチカが上等兵のそばにいるのを見つけて怒鳴った。
「おい、戻ってこい!ラズグリャエフカに行くんだぞ!飲んで楽しむんだ!」

「無理だよ」とペーチカは太陽の光を浴びて目を細めながら答えた。
「友達が死にかけてるんだ。」

「友達が?」片足の男は驚いたように言葉を切った。
「そいつ、どうしたんだ?」

「わかんない。だから、この日本人医者を連れて行くんだ。」

「そうか、じゃあいいさ」と片足の男は手を振った。
「また会おうな。元気でな!」

彼は座席にどっかり腰を下ろし、イグナートおじさんを小突いた。
「出発だ!」

前の馬車が動き出し、それに続いて2台目の馬車も進み始めた。アリョーナおばさんはついに上等兵ソコロフにチラリと視線を投げた。それを見ていた御者の隣に座るハーモニカ奏者は、それを待っていたかのように彼女の夫に身を寄せ、何かを耳打ちした。

レンカ・コズィリョフの父親は急に首を激しく振り始め、馬車から飛び出そうとしているように見えた。しかし、その時、馬車が少し揺れて彼は座席に押し戻された。


その瞬間、片足の男が突然叫び声を上げた。
「止まれ!止まれ!」

馬車が急停止すると、レンカの父親は再びもがき始め、妻のアリョーナおばさんの強い腕に捕まっていた。アリョーナおばさんはまるでクマにしがみつく小さな犬のようだった。馬車は彼の重みできしみを上げ、傾き、彼女は絶望的に御者に向かって叫んだ。
「走って!走って!」

御者は鞭で馬を叩き、馬車は前の車両に接触しながらも右側から追い越した。その後、さらに2度ほど揺れた後、スピードを上げ、草原に舞い上がる砂埃の中へと消えていった。ハーモニカが陽気に鳴り響き、遠くから聞こえる罵声が微かに残るばかりだった。

「おい!名前なんだ?」片足の男がペーチカに向かって叫んだ。

「僕の?ペーチカだよ。」とペーチカが答えた。

「いい名前だ!よくつけてもらったな。俺も戦場にペーチカって友達がいた。殺されちまったけどな。すごいやつだった!」
片足の男は親指を立てて見せ、ペーチカに手を振った。

「じゃあな、元気でな!」

イグナートおじさんが馬に鞭を入れると、馬は前へ進み始めた。片足の男は馬車の上で酔っ払ったようにふらつきながら、砂埃越しにペーチカを見つめ続けていた。


報道記者たちを乗せた荷車も視界から消えると、しばらくその場で何か大事なことを考えていた上等兵ソコロフが、ついに振り返らずに何も言わずに収容所の方向へ歩き出した。

「おじさん!」ペーチカが困惑しながら彼を呼び止めた。
「僕たち、ラズグリャエフカに行かなきゃならないんだよ…」

「お前が行きたきゃ、勝手に行け。」と上等兵は振り向きもせずに答えた。

「でも、日本人医者はどうするの?」

「自分で戻るだろうさ、大人なんだから。」

ペーチカは一瞬ソコロフの背中を見送ったが、すぐに広太郎の方へ向き直った。

「行こう!」と彼は言った。
「何してるんだよ。ヴァレルカを治さないといけないだろ。」
 
 

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