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『草原の神々』訳 ⑦

第7章

広太郎が収容所に戻ったのは真夜中を過ぎてからだった。見張り兵たちはすでに見張り塔から降りていたので、彼は厨房の裏手にある柵の穴から何の邪魔もなく潜り込むことができた。春には、警備兵たちは周囲の見張り塔に立っていたが、戦争が終わった後、見張りの一人が居眠りして誤って落下してしまったため、収容所の上層部は暗黙の了解で夜間は見張り兵たちが詰所で過ごすことを許可した。
広太郎は詰所の前で立ち止まり、暑さのために開け放たれた窓から中を覗いた。3人の警備兵とソコロフ上等兵が、ひっくり返した箱の上でトランプをしていた。

「おい、医者の野郎が来やがったな、くそジャップめ」と顔を上げてソコロフが言った。
「さっさと自分のバラックに帰って寝ろ。明日の朝は独房行きだぞ。アディンツォフが命令したんだ」
「もういい加減にしろよ、逃げ回ってばかりで」と、タバコの煙に目を細めながら怠そうに別の一人が言い、カードを配った。

「そんなに楽しいことでもあるのか?罰せられるって分かってるだろうに」

「草を、探す」と広太郎はわざと発音を誇張して言い、子供のように無邪気に背嚢を頭上に掲げた。彼は、ロシア人たちは外国人が単純者であるときだけ好むことをとっくに悟っており、だからできるだけ単純者であろうと努めていた。

「良い草だ。治療する。ロシアの、日本の—全部治療する」
「とっとと消えろ」と3人目の警備兵が手を振った。
「邪魔なんだよ、見て分からないのか?」

広太郎は開け放たれた窓に丁寧にお辞儀をし、急いで日本人のバラックへ向かった。


彼が寝床の上でのたうつのをやめ、深い呼吸を始めると、上の寝台から正広の頭が垂れ下がってきた。
「おい…」と小声で彼が呼んだ。広太郎は返事をしなかった。

さらに一瞬ためらった後、正広は下に降り始めた。広太郎は何度も彼に下の寝台を使うように勧めたが、彼は頑固で、いつも何かしらの無礼な言葉で答えていた。
長い格闘の末に床に飛び降りた正広は、静かにしてバラックの中の物音に耳を澄ました。左側では、下級伍長の丸田が苦しげに息をしていた。少し離れたところでは、辻大尉が夢の中でうめいていた。平井軍曹は、村中中尉のすぐ上の上段の寝台で眠っていたが、何か呟いてから反対側に寝返りを打った。

正広はさらに一瞬ためらった。これらの兵士や将校たちは、皆1939年の夏にノモンハンの戦いで重傷を負い、捕虜交換の際に最後の輸送機に担架のスペースが足りなかったため、ロシア人のもとに残された者たちだった。飛行機はもう一度飛ぶこともできたが、ソ連側が許した時間は既に過ぎていた。正広自身は重体であったため、捕虜交換を覚えていなかったが、広太郎が負傷者を見捨てないために自らロシア人のもとに残ったことは知っていた。


正広は慎重に広太郎の寝床のそばに腰を下ろし、彼の穏やかな呼吸に耳を傾けた。

「なぜお前はこんなことをするんだ?」と彼は小さな声で尋ねた。答えを期待していなかった。
広太郎は答えなかった。おそらく彼は本当に眠っていたのか、あるいは単にこれ以上明白なことを説明したくなかったのかもしれない。

彼は広太郎を憎んでいた。二人が初めて会ったのは11歳のとき、正広の父が経営するタバコ工場でのことだったが、それ以来、その憎しみはずっと続いていた。

正広は慎重に広太郎の藁布の袋に手を伸ばし、その中にあるノートを取り出した。バラックの中は暗かったので、窓際まで歩いて行き、月明かりの下で適当にノートを開いた。そして、こう書かれているのを読んだ。

「私たちは飛び立つ。
落ちるために。
桜の花びらのように、
純粋で輝かしい…」

「詩か?」と、正広はかすかに鼻で笑い、急いで数ページをめくった。
次に彼の目に留まったのは、煙に包まれた黒い口の芸者の絵だった。その絵の左には短い文章が添えられていた。

「…日本では紙巻きタバコが『敷島(しきしま)』と呼ばれるようになった。このタバコは1905年、日露戦争での勝利の後に販売が開始された。特に女性に人気があり、最初は茶屋の芸者たちが、次第に他の女性たちも『敷島』を吸うようになった。それはロシアへの屈辱を示すと同時に、敗れた敵に対する優越感の表れでもあった。一部の女性は古い習慣に従い、まだ歯を黒く染めていたため、白いタバコのフィルターがその口の中で特に目立っていた…」

「くだらない」と、正広は呟いた。「ロシアのタバコがなんだって?」

1年半前、広太郎が秘密裏に日記をつけていることを収容所の管理者に報告したのは正広自身だった。そのため、この新しいノートが彼の癪に障った。正広は広太郎がロシア人の捕虜として自分たちと同じように苦しむことを望んでいたが、広太郎はまたしても巧みに居心地の良い状況を作り出し、自分の好きなことを続けていた。正広が幼い頃から広太郎を嫌っていた理由の一つがこれだった。広太郎はいつも自分の好きなことだけをやっていた。一方、正広は家の地位に恵まれていたにもかかわらず、それができた試しがなかった。さらに、生まれつき足が不自由だったため、父である岩谷氏からも特に愛情を注がれていなかった。

生まれてちょうど一週間後、助産婦は泣き叫ぶ赤ん坊をうつ伏せに寝かせ、岩谷氏に膝の裏やお尻の下にある左右非対称なシワを見せた。その後、赤ん坊を仰向けにし、足を大きく広げると、岩谷氏ははっきりと「カチッ」という音を聞いた。

「先天性股関節脱臼です」と助産婦が説明した。「左脚が右脚より短くなるでしょう。しっかりと巻いて固定し、その後は支具を装着する必要があります。」

「好きにしてくれ」と岩谷氏は答え、部屋を出て行った。
彼が望んでいたのは、左右均等な脚を持つ子供だった。

正広が布おむつから解放されたのは3歳の時だった。その後、何年間も、彼は家の中を這い回り、左脚にくくりつけられた木製の支具をカタカタと鳴らしていた。その音が父の書斎のドアに近づくと、岩谷氏はすべての仕事を後回しにし、タバコ工場と「敷島」の仕事に向かうため家を出て行った。正広の最初の記憶の一つは、彼の体をまたいで歩いて行く父の姿だった。

正広は狭い廊下で急いで体を回転させ、せめて父の背中だけでも見ようとしたが、重くて不便な木製の支具が動きを大きく妨げた。それらは激しく音を立て、何かにぶつかり続け、結局、正広は書斎に通じる襖の前で一人取り残されるのだった。

ある時、正広は古い書物の中で、日本の高松出身の有名な海軍大将・河野通有(こうのみちあり)がモンゴルの侵略者フビライ・ハーンの旗艦を奪い、日本を侵略から救ったという話を読んだ。しかし、この話で彼が最も共感したのはモンゴル側だった。彼だけが、彼らの船が狭い海峡で立ち往生し、日本の弓兵の攻撃をかわすために身動きが取れなかった時の無念さを理解できたのだ。

自分自身をその船に例え、無駄な努力に体が震えるのを抑えようとしながら、正広は廊下の床に座り、木製の支具を爪で憎しみを込めて引っ掻いていた。
その支具のせいで、夜になると体は完全に固まり、乳母がようやくそれを外してくれた後も、左脚の感覚はしばらく戻らなかった。まるで支具だけでなく脚そのものからも解放されたかのようだった。布団の中で音を立てないように泣きながら、彼は父の書斎の襖、誰もいない廊下、大きなハサミを思い浮かべていた。そして、あの襖を切り刻み、引き裂き、粉々にしてしまいたいと願った。

もっとも、岩谷氏も最初は、自分の「不完全な」息子が家業を継ぐことができるかもしれないと期待していた。彼は正広にタバコの植物の版画を何時間も見せ、それらの名前を日本語とラテン語で暗記させた。また、汚れたタバコの葉を部屋に運び込み、その中から一枚だけタバコの葉を見つけるよう求めた。

しかし、決定的な場面で、父が工場で正広に試験を課した時、正広は異なる品種のタバコの葉を正しく選び取ることができなかったのだ。
ちょうどその時、彼は初めて広太郎を目にした。


「ペーチャ... ペーチャ... 息子よ...」
ペーチャは目を覚まし、まばたきをしてから母親をじっと見つめた。母親はためらいがちに彼の肘を引っ張っていた。
「母さん、なんで仕事に行ってないの?」ようやく彼は言った。
「さっきね、外でポターピハ婆さんに会ったのよ。」母親はなぜか声を潜めて話し始めた。
「お前の友達のヴァレールカのところに呼ばれたんだって... すごく具合が悪いらしいの。もう、死んじゃうかもしれないって...」

「どうして死んじゃうの?」ペーチャは布団を跳ね除け、かけぶちから飛び降りた。
「なんで死ななきゃならないんだよ?」

「私には分からないの。」母親は相変わらず小さな声で答えた。
「外でポターピハ婆さんに会ったんだけど...」

「ああ、もういいや。」ペーチャは苛立たしげに言い捨て、ズボンを引っ張り上げた。「ちゃんと聞き出せないんだから。」

ポターピハ婆さんは木製の桶で不思議な効能を持つという生地を力強くこねていた。そのせいで、また夏なのにストーブを焚かなければならなかったこともあって、婆さんはすぐに汗をかき始め、重たい黒い光沢のある布でできたブラウスを脱いだ。ペーチャにはその布の名前は分からなかったが、ダーリヤ婆さんもずっとそれを欲しがっていたことは知っていた。だが、アルチョム爺さんはそのために必要なお金を集めることができず、町に買いに行けなかったので、ダーリヤ婆さんは今も我慢していた。

「あの子、なんでここにいる?」ポターピハ婆さんはペーチャに目をやりながら尋ねた。「ここに余計な目はいらないよ。」

「ヴァレールカと友達なんだ。」ヴァレールカの母親が小さな声で答えた。「少しの間だけいさせて。」

「まあ、いいけどさ。でも、その子、目が黒いじゃないか。分かるかい?こういう目をした子が一番邪眼持ちなんだよ。」

ヴァレルカの母親は怯えた表情でペーチカを見つめた。
「目をつけられたら、病気が悪化するよ。間違いない。」と、ポターピハ婆さんが付け加えた。
「僕、目をつぶるよ。」と、ペーチカはすぐに提案した。「それか、あそこに行って、机の下に隠れるよ。そこなら見えないから。」

「お願いだから座ってちょうだい、ペーチカ。」と、ヴァレルカの母親が哀れな声で頼んだ。「何かあったら困るから。」

「何かっていうか、絶対だよ。」と、ポターピハ婆さんは強調しました。彼女は白い下着姿で、家の薄暗い部屋でまるで雪の中の奇妙な雪だるまのように見えた。「さあ、机の下に入りな。」

家の中は、しっかりと閉じられた雨戸のせいで薄暗くなっていた。雨戸は10分ほど前にヴァレルカの母親とポターピハ婆さんが閉めたものだった。
「光はこういう治療には邪魔なんだよ。」と、ポターピハ婆さんが玄関先から断言した。「光から病気が始まるんだ。」

さらに彼女は、鶏の鳴き声を防ぐために雄鶏を庭から出すよう命じた。
「もしコケコッコーなんて鳴いたら、治療はすべて台無しだよ。無駄骨になる。」と彼女は付け加えた。

そのため雄鶏は小屋に閉じ込められた。やせ細った2羽の雌鶏は、奇跡的に戦争を生き延び、最後の春に食べられるのを免れていたが、すぐにヴァレルカの母親の後を追いかけてきた。雌鶏たちは小屋の換気口に飛び乗ろうと不器用に跳ね回り、中を覗こうとしていた。

「そのまだら模様のやつ、あとで締めておいて。」と、ポターピハ婆さんは小屋の周りを跳ね回る鶏を見ながらぼんやりと言った。
彼女はいつも助けの見返りに鶏をもらっていた。

ペーチカは今回、ヴァレルカがこんなに具合が悪くなるとは全然思っていなたった。昨日の駅での喧嘩や、そこで起こったすべてのことを経て、ペーチカには確かな感覚があった。「これからは何かが変わるはずだ」と。これまでと同じではなく、何か良い方向に。

つまり、彼は日本との戦争が突然始まるとか、自分自身に父親が現れるとか、そんなことを期待していたわけではない。ただ、レンカがもう彼にちょっかいを出さなくなるとか、ヴァレルカの鼻血がもっと少なくなるとか、そんなことがあれば十分だと思っていた。それが公平ってものだと。

運が向いてきたと思ったのに…。でも今、ヴァレルカは広い木製のベッドに横たわっていて、彼の母親はタオルを手にしながら、不安そうに部屋の隅から隅へ落ち着きなく歩き回っていた。止まる勇気が見つからないようだった。

「座ったらどうだい」と、ついにポタ-ピハ婆さんが言った。「あんたのせいで、生地がどうしても膨らまないよ」

「私のせいですって?」と、ヴァレルカの母親が戸惑って聞いた。「どうして私のせいなの?」

「他に誰のせいだって言うんだい?そこのガキはテーブルの下に座ってる。あそこからじゃ、邪魔はできやしない」

「わかった」とヴァレルカの母親が答えると、ペーチカは彼女の足が緊張したままスツールのそばで動きを止めたのを見た。

ヴァレルカの母親の足は、そこに居場所がないかのようにおどおどしていて、何かを待っているようだった。それに比べて、ポターピハ婆さんの足は堂々としていて、まるで上陸した揚陸艦のように地面にしっかりと根を下ろしていた。一方、ヴァレルカの母親の足は、スツールの横棒に上げたり下ろしたりと落ち着きなく動いていた。

「死んでしまうの?」と、彼女の声が小さく聞こえた。

「誰が?坊やかい?いやいや、死にはしないよ」と、ポタ-ピハが答えた。

彼女の短いフェルトの靴(それも夏の暑さの中でも決して脱がない)を履いた足はスツールの方を向いた。まるで揚陸艦が全体で方向を変えるかのように、彼女の体も一緒に動いた。

「何を言い出すんだい、死ぬなんて。どこに死にに行くって言うんだ?まだお尻も丸くなってないじゃないか」
ヴァレルカの母親の足は一瞬動きを止め、その後、納得したようにスツールの横棒から床に静かに降り立った。

「本当に?」
 


ペーチカはその靴をよく知っていた。ヴァレルカの母親がそれを買ったのは、ヴァレルカの父親の戦死通知が届いたときだった。その時、彼女は長い間玄関で座り込んで、釘の穴やクモの巣を見つめていた。そして、郵便配達人のイグナート叔父が別れを告げて静かに去っていくのに気づきもしなかった。その後、彼女は戦死通知を鏡の後ろに隠し、無言でヴァレルカを連れて地区の中心地へ向かった。そこからヴァレルカは、その靴を履いて戻ってきた。ラズグリャエフカでは、そんな靴を履いている少年はいなかった。大人たちでさえ、本物の革靴を履いている人はほとんどいなかった。フェルトの靴や長靴、チュニなどが一般的だった。でも、突然その靴が現れた。

しかし、ヴァレルカはその靴を全然大事にしなかった。一冬でボロボロにした。ただ他の少年たちが彼を遊びに誘ってくれるなら、それでよかった。母親も彼を叱らなかった。そして靴が壊れると、彼女がその靴を履き始めた。

その靴を履いて、彼女は一度学校のアンナ・ニコラエヴナ先生を訪ねたことがあった。「スタリングラードがどこにあるのか地図で教えてほしい」と頼み、地図をじっと見つめ、手でその場所を覆い隠し、しばらくそうしてから「ありがとう」と言った。それがアンナ・ニコラエヴナ先生に向けた言葉なのか、それともソビエト連邦の大きな地図全体への言葉なのか、ペーチカにはわからなかった。

今、そのボロボロの靴をじっと見つめ、目を開けていることで起こるかもしれない結果を忘れていたペーチカは、ヴァレルカの母親が左足の靴を縛っている紐がもうすぐずり落ちそうなのに気づいた。その靴がまるで空腹のカッコウの口のようにパカッと開きそうだった。ペーチカは慎重にテーブルの下から手を伸ばして紐を直そうとしたが、落ち着きのないヴァレルカの母親が突然動いて、昨日のレンカ・コズィルとの喧嘩で傷ついた彼の指を踏みつけた。

「シューッ!」とペーチカが小さく声を上げると、ポターピハ婆さんの頭がすぐにテーブルの下に垂れ下がってきた。彼女は体を回すよりも、前屈する方が楽だった。

「何だい?」と彼女は疑わしげな声で尋ねた。「何でそんな音立ててるんだい?」

どうやら、ペーチカが悪意から新しい音の邪視の方法を考えついたと思ったらしい。そのことで彼女はかなり心配したが、ペーチカがすぐに目をぎゅっと閉じて、さらに両手で口を覆い隠したので、彼女は少し考えた後、怒りを収めることにした。

「ただ座っているくらいなら、ゴキブリでも捕まえな。ただし、すぐに殺さないで、少しだけ押さえつけて。この箱に入れておいて。でも、絶対にテーブルの下から出るなよ」とポターピハ婆さんが言った。

ペーチカはゴキブリ狩りを始めた。

家の中にはゴキブリがあまりいなかった。なぜなら、ゴキブリは食べ物の残りがある場所にしかいないからだ。ヴァレルカとその母親がいる家では、食べ物が残ることはなかった。どう考えても無理だ。彼ら自身が食べ物をギリギリの量でやりくりしていた。パンくず一つ残らず手のひらに集めて、目の前で悔しがるゴキブリたちを横目に口の中へ運ぶ。まるで炭鉱のトロッコに石炭を積み込むように。

だから、最初の獲物を見つけるまでに少し時間がかかった。ペーチカはまだ目を細めて半分疑心暗鬼でゴキブリを探していた。彼は邪視(人や物を不幸にする視線)が本当にあると信じていて、それを信じる気持ちは、ジューコフ元帥を信じる気持ちと同じくらい強かった。

心のどこかでペーチカは、ドイツが戦争に負けたのは、自分があのヒトラーを邪視したからだと思っていた。もちろん、ソ連軍は必死に戦い、世界で最も優れた軍隊だったのだが、それでも自分も一役買ったのではないかと。

約1年前、彼はダーリヤ婆さんの干し草小屋の壁に、ヒトラーに対する悪口を書き始めた。最初はただのいたずらだったが、次第に書いた言葉と「ソ連情報局」の報道との間に関連性があると感じるようになった。悪口を一つ刻むたびに、大きな都市が解放されたというニュースが流れるのだ。

ある日、彼はその法則を確かめるために試しに書くのをやめてみた。しかし、その後すぐに自分の行動を激しく後悔することになった。新聞やラジオで「敵の激しい抵抗…多くの損害…」という報道が繰り返されるようになったからだ。

ペーチカは過去の失敗を恐れ、あの時屋根裏部屋にこもり、釘で壁にヒトラーに関する罵詈雑言を一晩中刻み続けた。不安と罪悪感で眠れなかったのだ。翌朝、村役場からラジオでレビタンおじさんが、マリノフスキーとトルブーヒンの指揮する第2、第3ウクライナ戦線の部隊が、19万のドイツ軍集団を壊滅させ、ブダペストを解放したと伝えたとき、ペーチカは自分の努力が無駄ではなかったと感じた。


村役場から戻ると、夜通しの作業の成果を満足げに見回し、屋根裏部屋の干し草の上に倒れ込んで翌日の昼までぐっすり眠った。その瞬間、ペーチカはおそらくソビエト連邦で一番幸せな人間だっただろう。もしかしたらトルブーヒンとマリノフスキーだけが彼と競い合えるかもしれないが、それでもペーチカは彼らと幸せを分かち合っても構わないと思った。

一晩で19万人のドイツ兵を倒すなんて、釘を持った少年ひとりの仕事としては悪くない成果じゃないか?
だからこそ、ペーチカは「目の力」、つまり邪視の力を信じていた。

今、彼は机の下に座り、部屋の真ん中に逃げ出したゴキブリを捕まえようともせずにいた。ヴァレルカへの哀れみが、静寂を破ることをためらわせていたのだ。彼は、ポターピハ婆さんにもらったマッチ箱をそっといじりながら、ゴキブリをおびき寄せるようにカサカサと音を立てていた。ゴキブリがその音に引き寄せられるかどうかはわからなかったが、ほかに手段はなかった。

「こっちにおいで、ハンス」ペーチカはささやいた。「こっちに来いよ、かわいそうなアドルフちゃん」

ゴキブリはペーチカのささやきを聞き取ると、一瞬考え込み、迷ったが、最終的にそのささやきが自分にとってどんな結末をもたらすかを悟り、部屋を横切ってヴァレルカのベッドへと勢いよく駆け出した。

「ちくしょう」とペーチカはつぶやきながら床に這いつくばった。

床板の隙間から、ベッド全体、くしゃくしゃになった毛布、そして垂れ下がったヴァレルカの手が見えた。その手はまるで敵に奪われた連隊の旗のように、生命を失い、無用のものになっていた。

ペーチカはそのヴァレルカの手を見つめながら、なぜかこれまで死んだ鳥を見たことがないと突然思った。撃たれた鳥ならいくらでも見たが、人間のように年を取ったり病気で死んだりする鳥を目にしたことはなかった。もし鳥が自然に死ぬのなら、どこかにその死体が転がっているはずだ。空から落ちるのは地面しかないのだから。だが、ラズグリャエフカやその周辺で、ペーチカは一度も自然死した鳥の姿を見たことがなかった。猫や子供たちに殺された鳥だけだった。だから鳥たちは死ぬとき、どこか別の場所へ飛んでいくのだろう。もしくは、そもそも死なないのかもしれない。

さらに考えれば、人間は墓地や棺、泣き声や追悼といった儀式で死を必要としているように見えた。死を、5月1日や11月7日のような祭日の一つとして迎え入れ、酒を飲み交わし、殴り合い、キスし、泣いていた。一方で、鳥たちは空の中で死をまったく必要とせず、生き生きと飛び回り、もし死んでも、それを誰も目撃することがなかった。


「バケツを置いてやれ」とポターピハ婆さんが言った。
「 見てないのかい、この子がどうにかなっちまうぞ。今にも全部吐き出しそうだ。」

ヴァレルカの母親の足音が土間を通り、すぐに戻ってきた。ベッドの横に木のバケツがドスンと音を立てて床に置かれた。

「ちょっと見てみなよ」とポターピハ婆さんが言った。
「私の家にもまったく同じのがあるよ。アルチョムが作ったんじゃないのかい?」

「わからないわ」とヴァレルカの母親が答え、再び腰掛けた。

彼女は本当に知らなかった。このバケツはペーチカが持ってきたものだった。二人で本気で前線に行こうと計画した時のものだ。でも、その計画は春を待つのに時間をかけすぎたせいで実現しなかった。ラズグリャエフカでは春がドイツよりもずっと遅くやってくるのを計算に入れていなかったのだ。
後になってペーチカはヴァレルカを散々叱った。

「お前、地理が分かってただろ!授業で僕より賢かったんじゃないのか?」

ヴァレルカは申し訳なさそうにため息をつき、頭をかきながら鼻をすすった。それでもペーチカはすぐに彼を許した。巨大な軍隊、何千もの戦車、熱くなる大砲の集結を想像すると、あれだけの熱気、火、轟音、攻撃があれば春が早く訪れるのも当然だと思えた。そしてその先に勝利が待っているのだと。

このバケツをペーチカが持って行こうとしたのは、他に持って行くものが何もなかったからだ。旅の途中で何か役立つ物がある方がいい。これは食べ物と交換するつもりだった。きっと誰かに必要になると思ったのだ。昨日駅で海兵たちがバケツをどれほど欲しがったかを見れば、それは明らかだ。それで冬のうちにここに運び込んでおいた。ダリヤ婆さんに見つからないようにするためだ。

「アルチョムが作ったんだよ」、とポタピハ婆さんが続けた。

「ダリヤと一緒に彼を酒から立ち直らせようとした時のものさ。」

ペーチカはよく覚えていた。ダリヤ婆さんとポターピハ婆さんが、第一メーデーの日にアルチョム爺さんにナマズの粘液で作ったチンキを飲ませようとしていたことを。

「お前たち、いい加減にしろ!とアルチョム爺さんは手を振り払った。

「俺は清らかな酒が欲しいんだ。お前たち、こんなものに粘液なんて入れやがって、台無しにしやがったな!」

でも婆さんたちは諦めなかった。ペーチカも知っていた。婆さんたちの計画では、このチンキを飲んだ後、アルチョム爺さんはひどい気分になり、酒を思い浮かべるだけで震え上がるようになるはずだった。あとはどうにかして飲ませるだけだった

ペーチカは、好奇心から婆さんたちの周りをうろうろしていた。彼女たちがその強烈な薬を準備している間に、ペーチカは数回その液体を嗅いでみて、事前にアルチョム爺さんのことをひどく気の毒に思っていた。しかし、アルチョム爺さんはあまり長く拒否しなかった。ポターピハ婆さんがにやにや笑いながら、その薬が男性の力を高めるのに役立つとほのめかしたとき、アルチョム爺さんは一瞬考え込み、何かを思い出したような顔をして少し悲しげになり、それから大きく手を振って言った。

「さあ、注いでくれ!一度きりの人生だ!」

アルチョム爺さんはその液体を大きな一口で飲み干し、少し咳き込みながらまた何かを考え込み、すぐにおかわりを求めた。その夜のうちに、彼はポターピハ婆さんの薬の全在庫を空にし、知っている限りの下品な歌をすべて披露し、最後には感謝の印として、売り物にしようと思っていたバケツを彼女に贈った。ダリヤ婆さんはその様子を渋い顔で見守り、次第に落ち着かなくなって、最後には念のためポターピハ婆さんの家に泊めてもらうことにした。がっかりしたアルチョム爺さんはしばらく畑で怒鳴り声を上げ、それから自分のウォッカを持ってステップへと走り去った。

もちろん、この出来事の後でも彼が飲酒を減らすことはなかった。


「もっとしっかり押さえて!」ポターピハ婆さんが命じた。「見えないのかい、全身が震えてる!」

ペーチカは机の下から身を乗り出し、彼らがヴァレーリカに何をしているのか見ようとしたが、ポターピハ婆さんの幅広い背中がベッドの上に覆いかぶさるようにして視界を塞いでいた。

彼女の頭上には、ヴァレーリカの腕が空中に向かって突き出されて揺れていた。まるで溺れている人のようで、水面下から突き出たその腕が、必死に空気を掴もうとしているかのようだった。

静かに、静かにと、力尽きたような唇でヴァレールカのお母さんが繰り返しつぶやきながら、彼をますます強く押さえつけ、両手をしっかり固定しようとしていた。

「もっとしっかり押さえて!もっと強く!」ポタピーハ婆さんが鋭い声で叫んだ。

「窒息させる気だ」とペーチカは心の中でつぶやき、ほとんど机の下から這い出してしまった。

ペーチカは常々、婆さんたちは密かに小さな子どもを窒息死させているのではないかと疑っていた。そうでなければ、どうしてここ2年間であんなにも多くの子どもが亡くなったのか説明がつかない。そして、ラズグリャーエフカの婆さんたちの目には何か不気味なものが潜んでいると感じていたペーチカは、そのことをスターリン同志の名にかけて誓えるほどだった。

「あんた、またそこに戻りな!」とポターピハ婆さんは後ろにいたペーチカの動きを、どうやら背中越しの謎の視覚で察知したのか、鋭く怒鳴った。

「静かに、静かに」ヴァレルカの母親は、今度はヴァレルカではなく、恐怖で口を開けて床に座っていたペーチカに向かって言った。

彼女が振り向いたおかげで、ペーチカはようやくヴァレルカを見ることができた。ヴァレルカは横向きに寝ており、顔をしかめ、目を固く閉じていた。その耳には長い紙で作られた漏斗が突き刺さっているように見えた。ペーチカは一瞬、ポターピハ婆さんがヴァレルカを殺そうとして、彼の耳にオニグルミの杭でも突き刺しているのではないかと思ったが、よく見たらただの新聞紙だった。しかし、もっと恐ろしいことがこれから起こるのだった。

ポターピハ婆さんは、まるで不死身のナチス兵士が登場する悪夢の中にいるかのように、椅子からマッチを取り上げ、火をつけてから紙の漏斗の口にその火を近づけた。炎はヴァレルカの頭に向かって下へ飛び跳ねた。ヴァレルカは目を開け、大きく口を開いた。その瞬間、ペーチカはヴァレルカの大きく開けた口から白い煙が枕に向かって細く流れ出すのをはっきりと見た。



「おお、まだ夜じゃない、まだ夜じゃない…」と議長は歌いながら涙を拭った。 その後、肖像画の方に振り返り、立ち上がって興奮気味にスターリン同志に対して自分たちがどのようにして、なぜそうなったのかを報告し始めた。

1週間前、彼らは地区の中心部へ連れて行かれた。ステープカという警官がピストルを持ってやってきて、彼らが議長の家で恐怖のあまり飲んでいる間に二人を逮捕した。しかし、彼らを見つけるのに警官は3日もかかった。その間に二人は、アルチョム爺さんのスピリッツをすべて飲み干してしまった。そして、そのせいでアルチョム爺さんは再び中国に行く準備を始める羽目になった。それまでは、あと2週間後に行く予定だったのに。

「スターリン同志!」議長は肖像画の前で姿勢を正し、敬礼をした。しかしすぐに、何も被らずに敬礼するのは適切でないことを思い出した。そして慌てて玄関に駆け込み、耳まで深く帽子を被り、再び急いで戻ってきた。
バランスを立て直し、恐怖に満ちた鋭い手のひらをこめかみに強く押し当てて、彼は続けた。

「スターリン同志!党員ミハイル・ヤクーブが報告します!1934年からの党員です…同志、私たちは悪くありません!すべて偶然のことなんです!」

その最初の戦争の冬、エフィムという狩人がいた。彼は右手の指が全くないという理由で前線に送られなかった。そのエフィムがラズグリャーエフカのコルホーズに唯一残っていた馬を死なせてしまった。他のすべての馬は軍馬動員で連れて行かれたが、この馬だけは徴用を免れた。なぜなら、この馬が軍事委員自身を肩に噛みつき、激怒した軍事委員がその場で射殺命令を下したからだった。

兵士たちは早速、背中から巨大なモシン銃を引き抜き、この馬を撃とうとしたが、最終的に軍事委員は命令を撤回した。彼は怒りよりもむしろコルホーズの議長を助けたいという気持ちに動かされていた。議長とは長年の友人だったため、彼はその友情から善意を示そうとしたのだ。しかし、結果的にその善意がポターピハ婆さんの唯一の息子を失わせることになった。

もしその馬が前線に送られるか、ラズグリャーエフカのコルホーズ厩舎で三線銃で射殺されていたならば、後にエフィムの野生のヤギ用の罠でその馬が見つかることはなかっただろう。そしてその馬が完全に死んでしまうこともなかっただろう。だが、エフィムは不器用な狩人ではなく、狩りの腕は確かだった。可哀そうな馬の背骨はすっかり折れていて、まるで本のように真ん中で開いたり閉じたりできる状態だった。

もっとも、エフィムは本など一度も読んだことがないので、そんな例えを思いつくことはなく、ただひどく怯えただけだった。戦時中の法律では、コルホーズの財産を損壊した者には死刑が科される可能性が高かったため、エフィムは自分が処刑されることを確信していたのだ。


エフィムはしばらくの間、困惑したまま雪を噛み、罠の周りをきしませながら歩き回ったが、最終的にはコルホーズ議長の元へ行き、全てを話すことしか思いつかなかった。
議長もステプカ巡査を呼んでエフィムを軍法会議送りにする勇気はなく、気がつけば二人でノコギリを手にしていた。二人は凍りついた丸太のように固い馬の死骸を切り分け、小声で罵りながら肉を周囲の茂みに分けて隠していた。

本来であれば、この肉をラズグリャエフカの住民に分け与えるべきだった。しかし、それをすればエフィムと議長自身が間違いなく有害分子として処分されてしまうのは目に見えていた。何の説明もなく撃たれて処分される運命だったに違いない。

その結果、不運な運命により細かく切り刻まれた馬の肉は、風に散らされる雲のように森中の茂みや少し離れた谷間に隠された。そして議長とエフィムは家に戻り、恐怖を紛らわすためにウォッカを飲み始めた。

しかし、ステプカ巡査は1939年、ハルハンゴルでジューコフ元帥の指揮下にあった前線偵察隊に所属しており、状況を一目で把握した。馬がいない、議長とエフィムが泥酔している、そして森の茂みや丘陵地に肉の破片が散らばっている。これは明らかにおかしい。

「狼がやったのなら、普通は肉を食い尽くしているはずだ。それに、狼がノコギリなんて使うか?それとも、歯でこんなに正確に切り分けることができるのか?」と巡査は考えた。

議長は大きなスターリンの肖像画に向かって不満を述べた。

「百ルーブルで人を消してくれと言うんだ!」と彼は嘆いたが、自分自身もその百ルーブルでどこか知らない場所へ消されていたかもしれないことはすっかり忘れていた。

「百ルーブルだぞ!」

突然、議長はベンチの上に飛び乗り、壁にかけられていたスターリンの肖像画を乱暴に外すと、家族全員を恐怖に陥れながら、それを庭へと引きずり出した。そして、納屋へ向かい、そこにはコルホーズが集団化の時代に手に入れた共有の草刈り機が保管されていた。

「これだけの価値なんだ!」議長は肖像画に向かって草刈り機を指しながら言った。「いや、これだけじゃない、これくらいなんだ!」

その後、彼は肖像画を持って納屋から飛び出し、最近自分で作ったばかりの新しい門を示した。それがどれだけの価値があるか、彼はよく知っていた。

「門だよ、スターリン同志!この門の価値と、少しだけ上乗せしたくらいさ…それに、この門に使った木材は、ほんのわずかなんだ。誓って言うけど、わずかだ。いい木材は全部地区に送っているんだ…期限通りに、遅れたことなんて一度もない!」

そう言い終わると、彼は肖像画を抱えたまま庭の真ん中に立ち尽くし、頭を垂れた。暖かい室内に戻ることを拒み、スターリン同志の肖像画を誰にも預けようとしなかった。彼は肖像画を絶対に誰にも信用していなかった。

そして、ふと我に返ると、歌い始めた。

「おお、冷たい風が吹きつけた…
東の方から…」

でも結局、最後まで歌えずに泣き出してしまった。


こうして、ポターピハ婆さんがかつて息子を産んだことが、全くの無駄だったと分かった。どんなに指がなかろうと、息子は助からなかった。そして春が訪れると、息子に続いてポターピハ婆さんは嫁も失った。

その嫁が頼りにしていた牛は、父親を失った子供たちのために乳を出してくれる命綱のような存在だった。しかし、その牛が4月中旬のまだ薄いアルグン川の氷の上に愚かにも出てしまったのだ。牛はそこでしばらく鳴き、滑りながらついに氷が割れて川に落ちた。子供たちは母親を呼びに走り、その場に駆けつけた彼女はその場で卒倒しそうになった。牛がいなければ、三人の子供を抱えたままその場で死んでしまうしかなかった。

氷の穴から牛を引き上げる間に足が折れてしまった。岸に運び出された牛は激しく鳴き、黄色い毛皮の上に大きな目を向けて転がっていた。ポターピハ婆さんの嫁は、涙を流しながら斧で息の根を止めて肉にしようと考えたが、その覚悟も持てず、仕方なく牛をラズグリャエフカへ引いていくことにした。小さい子供たちには牛を押すように言い、自分と長女は牛にロープを巻きつけて、雪がまだ少し深い場所を選んで岸を引っ張り上げようとした。娘を気遣いながらも、自分の力を振り絞って牛を引っ張った。

まるで地面から根を引き抜いて空へ飛び立とうとする二本のヤナギの木のようだった。その姿は力を込めて背中を曲げながら懸命に引っ張る木々のようだった。

翌朝、ポターピハ婆さんの嫁はベッドから起き上がることができなくなった。子供たちは家の中を走り回り、何か食べ物を求めて彼女の顔を覗き込んだが、彼女はただ涙を拭うばかりだった。

牛は三日後に死に、エフィムの子供たちの母親も一週間後に亡くなった。


子どもたちは母親を起こそうと頭を撫でたり、くすぐったりしてみた。しかし、母親が二度と目を覚まさないことを悟ると、彼らは隣人の家に向かった。一番下の子どもだけはどうしても行きたがらず、「お母さんを一人にして何を食べさせるの?」と泣きながら繰り返し尋ねた。

アーキポフカに住んでいたポターピハ婆さんは、すぐに孫たちを迎えにラズグリャエフカにやって来た。最初は彼らを連れて帰ろうとしたが、結局、自分自身がこの地に永住することになった。息子の家の方が広く感じられたからだ。

なんとか食べていくために、ポターピハ婆さんはラズグリャエフカの人々を病気から癒すことを始めた。治療の報酬は主に食べ物だったが、それが彼女には十分だった。

学校のアンナ・ニコラエヴナ先生は眉をひそめ、「こうした古い信仰に基づく療法は文化の欠如だ」と非難していたが、それでも時々、ポタピハおばあさんの孫たちに食べ物を持ってきていた。それは治療の代価ではなく、単なる思いやりだった。

ポターピハ婆さんは、手荒れをスズメの糞で治し、喉の痛みを灯油で、また、皮膚病(癬)をタール、硫酸銅、硫黄、無塩豚脂の混合物で治療していた。ただし、無塩豚脂を手に入れるのが難しいため、皮膚病の治療はあまり成功しなかった。それでも、犬に驚かされた人に対しては、その犬の毛とアザミの焼き煙で患者をいぶし、それ以降、その人はどんな恐怖にも動じなくなると言われていた。

ある日、ペーチカが重い風邪をひき、足が突然動かなくなったとき、ポターピハ婆さんはペーチカをしっかりと包み、雨で傷んだ草の干し草の山に座らせて三日間そこに留まらせるよう指示した。

ペーチカは、リラックスしながらうたた寝をし、大量に汗をかきながらそこに座り続けたが、三日目には足が再び動き始めた。ペーチカ自身は後に、「あの時は単に空腹が原因だったのではないか」と疑ったが、干し草の山の中でダリヤ婆さんが油の乗ったパンケーキをたくさん与えてくれたおかげで体力が戻ったと感じていた。
しかし、それはあくまで彼の推測であり、ダリヤ婆さんはこの出来事以降、ポターピハ婆さんの力を完全に信じるようになり、例えばアルチョム爺さんを酒癖から治す必要があった時も、彼女のもとを訪れた。

もっとも、ラズグリャエフカの多くの人々はポターピハ婆さんの治療法を奇妙に思っていた。ペーチカ自身は、それらをまったく理解できなかった。


「どうだ?」とポタピハおばあさんがテーブルの下を覗き込んで言った。

「集めたのか?それともそこで寝込んだか、蛇の子め!」
ペーチカは無言でマッチ箱を差し出した。

「これだけ?!」 おばあさんはつぶれたゴキブリを指でつまみ上げ、まるでペーチカの顔に突きつけようとするかのようだった。

「これ以上いなかったんだ」とペーチカは不機嫌そうに言った。

「これだってやっと捕まえたんだよ」

「どこで捕まえたっていうんだ?!見てみろ、こいつ、こんなにボロボロだ!あたしには無傷のがいるんだよ!しかも一匹じゃなくて十匹だ!」

「他にいなかったんだ!」

「口答えする気か。ほら、これでお前の歯をぶっ叩いてやる!」

おばあさんはゴキブリを持った手をペーチカに向けて振り上げたが、ペーチカは避けて彼女の手首を軽く噛んだ。

「かみつきやがった、この悪ガキめ」とポターピハ婆さんは手首をさすりながらヴァレルカの母親に言った。彼女も心配そうにテーブルの下を覗き込んでいた。

「ペーチカ、かみつくのはやめておくれ」とヴァレルカの母親はお願いするように言った。

「ヴァレルカを治さなきゃならないんだから。見てるでしょ、彼がどれだけ弱ってるか」

「それがどうだって?」

「『どうだ』だって?!」とポターピハ婆さんが怒って言いながら噛まれた手をさすった。

「出てこい、このガキ!」

「出ない!」

「ナイフを貸して」とポターピハ婆さんはヴァレルカの母親に言った。

「この子の頭の中を探る必要があるよ。ゴキブリがいないならシラミで代用するしかない」

数分後、ペーチカは部屋の真ん中のスツールに座らされ、ポターピハ婆さんが彼の頭をナイフで探っていた。ペーチカはまた目を閉じたが、今回はヴァレルカをうっかり呪ってしまうのを防ぐためではなく、純粋な心地よさのためだった。最近、母さんは仕事で疲れているのか、ペーチカのことをすっかり忘れてしまったのか、ずっと頭を探ってくれなかったのだ。


頭のてっぺんをナイフで掻いてもらうのは、いつも気持ちよかった。

「もういいだろう」とついにポターピハ婆さんが言い、ペーチカは大きな未練を感じながら目を開けた。

「もうテーブルの下には行かなくていい? あそこからは何も見えないんだよ」

ポターピハ婆さんは少し迷ったようだったが、その後手を振り払って言った。
「まあいい、座っていな。もし何かあったら『黒い目』を抑えるおまじないをしてやるから……でも、どうやらお前の目は黒くないようだな。ちょっとこっちに来てみろ」

彼女はペーチカを窓の板戸の隙間まで引っ張っていき、そこから部屋の中に差し込む剃刀のように鋭い細い光の中に彼の顔を当てた。温かい太陽の光が頬をくすぐり、ペーチカは一瞬で目がくらんだ。

「いやいやいや」とポターピハ婆さんが涙でかすんだ暗闇の中から言った。

「どこが黒い目だって? 全然黒くないじゃないか。何だい、異教徒のガキめ、私らに嘘を吹き込んだのか?」

「嘘なんかついてないよ」とペーチカは言い、目から涙を追い払うように瞬きをした。

その後、ペーチカは静かに部屋の隅に座り、ポターピハ婆さんがテストから作った生地をこねているのを眺めていた。その生地には、彼の頭から見つかったシラミや、押しつぶされたゴキブリを丁寧に落とし込んでいた。そして、ヴァレルカがその生地で作られたパイを食べ、その後バケツに吐き出すのを見た。

婆さんは彼のそばに寄り添いながら、
「まあまあ、大丈夫だよ、大丈夫だよ、もうすぐ治るからね、かわい子ちゃん」と言い聞かせていた。

その後、ポタ‐ピハ婆さんは家を出て行き、脇に抱えたまだら模様の鶏はすでに首を絞められ、酔っ払ったアルチョム爺さんのふらふらした姿のように首をだらりと垂らしていた。婆さんはどんどん通りを進み、自分の孫たちのところに向かっていた。孫たちはもうきっと、婆さんの帰りを首を長くして待っているだろう。

そして彼女は静かに、彼女の大好きなチャストゥーシュカ(ロシアの即興歌)を口ずさみ始めた。

「踊りに行くわ、ベレー帽をかぶって。
小椅子より高く足を上げるわ!」
 
 
 

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