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『草原の神々』訳 エピローグ他

エピローグ

1945年8月9日のその朝、ソ連軍は国境を越えて攻勢に出た。同じ頃、長崎では空襲警報が鳴り響いた。午前8時半には警報が解除され、その約2時間後、アメリカ軍のB-29爆撃機が2機、長崎上空に現れた。対空防衛部隊はこれらを偵察機と誤認し、新たな警報は発令されなかった。そのため、人々は防空壕に避難することもなく、普段通りの日常を送っていた。

午前11時ちょうど、1機の爆撃機が3つのパラシュートに吊るされた計測機器のブロックを投下した。続いて午前11時2分、もう1機の爆撃機から原子爆弾が投下された。

広太郎の家族は、その瞬間、他の4万人と共に爆風に呑まれた。彼らの存在は、熱したフライパンに落ちた水滴のように、跡形もなく消え去った。

捕虜収容所の粗末なバラックで、広太郎は家族の物語を記録するために油紙に包まれたノートにペンを走らせた。長い間、彼は自分が死者の世界から生者の世界への手紙を書いていると思い込んでいた。しかし、実際にはその逆だったのだ。

1952年、広太郎は東京で『シベリアと極東の薬草』という本を出版した。その本には、捕虜生活の中で記したノートから抜粋したイラストが掲載されていた。このノートは、広太郎が長崎への原爆投下を知った日、絶望のあまり破り捨てようとしたものだった。

しかし、そのときノートを救ったのはペーチカだった。「こんなに良い紙を無駄にするなんてあり得ない」と彼は思ったのだ。もっとも、ペーチカはノートの白紙のページだけをタバコ代わりに使った。残された絵や記録は、広太郎が落ち着きを取り戻し、それらを尋ねたときに返された。

ヴァレルカは1947年に亡くなった。その年、ソビエト連邦地質省第一総局において、ザバイカル地方でウラン鉱床の探索と調査を目的とした秘密のソスノフスカヤ探査隊が設立された。ペーチカの父は、国家配給と高い給与を期待してその探査隊に応募したが、採用されなかった。

それでも彼は数年間ラズグリャエフカで暴れ続け、酔っぱらってはコルホーズの執行部に押し入り、義足で議長の机を叩きつけて文句を並べ立てた。彼の振る舞いは次第に村人たちの堪忍袋の緒を切らせ、ついにある騒動の後、彼は地区の留置所に入れられた。だが、なぜか再び収容所に送られ、そこでいつもの調子で盗賊たちに威張り散らした結果、昼休みに製材所で彼らに刺し殺されてしまった。

ペーチカの母親は、バランディン少佐とともにラズグリャエフカを去った。帝国主義日本への勝利に対する勲章を授与された彼は、礼服を着てダーリヤ婆さんのもとを訪れ、結婚の許可を求めた。

ペーチカ自身は地質学を学ぶために村を離れた。そして1963年、彼は「ソスナ(松)」と通称されるようになったソスノフスカヤ探査隊に就職し、仲間たちとともにラズグリャエフカ近郊でウラン鉱床を発見した。こうしてすべてが元の場所に収まったのだった。

著者について

アンドレイ・ゲラシモフは現代ロシアの作家であり、『渇望(Жажда)』『欺瞞の年(Год обмана)』『草原の神々(Степные боги)』『ラヒリ(Рахиль)』『寒さ(Холод)』『風のバラ(Роза ветров)』などの著書を持つ。ロシア国内外で数々の文学賞を受賞しており、「ナショナル・ベストセラー」賞の受賞者でもある。作品は英語、フランス語、ドイツ語を含む多くの言語に翻訳されている。


簡単なあらすじ

1945年の夏、ペーチカ少年は、父を知らず、村で疎まれながらも生きている。舞台は中国国境沿いの辺鄙な村。ペーチカは軍の列車を見送り、敵から身を隠し、谷でヒトラーを探す中で、捕虜となった日本人医師広太郎に出会う。

一方、ソビエト軍は関東軍への攻撃を準備している。ペーチカの唯一の友人であるヴァレルカは、原因不明の病でゆっくりと命を失いつつあり、ペーチカと広太郎は草原の神々に助けを求めながら、希望を捜し求める。

 

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