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『草原の神々』訳 ⑮

第15章

ヴァレルカの家の庭には、ズヴェズドーチカ(牝馬)が荷馬車に繋がれていた。玄関先では、アルチョム爺さんが煙草を吹かしていた。孫の姿を見ると、彼は深々と煙を吸い込んだ。その顔が闇の中で明るく照らされ、一瞬、中国の鬼の仮面のように見えた。

「お前のお医者さん先生は役立たずだな」

アルチョム爺さんはぼさぼさの頭を振りながら言った。
「何にもできやしねぇ」

ペーチカは一瞬、玄関先で動きを止め、何かを聞きたそうにしていたが、結局何も言わず、祖父の後ろに半開きになったドアをすり抜けて家の中に入った。


部屋の中は何も変わっていなかった。ヴァレルカの母親とペーチカの母親は、相変わらずベッドの横にある小さな椅子にうなだれるように座っていた。広太郎はテーブルのそばでじっとしていた。彼の姿勢がまるで眠っているように見えたが、彼の手は膝の上に置かれていた。

その光景は、灯油ランプのぼんやりとした光の中で特に奇妙に見えた。広太郎の背中は不自然なほどまっすぐで、まるで見えない高い背もたれが彼の椅子に付いているかのようだった。

この三人の姿は不気味なまでに静止しており、その場の空気は死んだように固まっていた。その場に足を踏み入れたペーチカも思わず立ち止まり、彼らと同化したかのように、石のように動かなくなった。

アルチョム爺さんが縁側でごそごそと身を起こす音が聞こえ、その音がペーチカを現実に引き戻した。

「何を座り込んでいるんだ?」と彼は言った。
「こいつ、収容所に戻さないといけないだろう?」

「でも、どうしたらいいのかわからないのよ」とペーチカの母親が小声で答えた。
「あなたなしで送り出すなんてできないわ。そんなの無理よ。」

「僕が子守りかよ!」
ペーチカは広太郎の肩を押し、広太郎はすぐに目を開けた。


「帰れよ、聞こえるか?ここにいる必要なんてないだろう。戻れよ。」

広太郎は立ち上がったが、その場から動こうとはしなかった。

「耳が聞こえないのか?行けって言ってるんだよ。お前なんか必要ないんだ。」

広太郎はテーブルから黒っぽい液体の入ったコップを取り、それをペーチカに差し出した。

「何だよ?」とペーチカは言った。
「僕は飲みたくない。」

「それはヴァレルカのために作った煎じ薬なのよ」とペーチカの母親が言った。
「お庭で何か草を摘んできて煎じたみたい。」

「自分で飲めばいいさ。僕らにはそんなもん必要ない。」

広太郎はベッドで動かずに横たわるヴァレルカを指さし、再びペーチカにコップを差し出した。

「毎時間あげる必要あります。眠る、眠るいいです。」

「お前が寝てろよ。医者だとか言いやがって。治せないくせに、煎じ薬なんて作りやがって。出て行け。」

広太郎はコップをテーブルに置き、黙ったまま出口に向かった。ちょうどその時、庭からアルチョム爺さんが入ってきて、土間で二人は顔を合わせた。

「見ろ、若いの」と爺さんはため息をついた。
「お前の学問には力がないな。日本のでも、こっちのでも、結局あの坊主は死んじまうんだろうよ。可哀想にな、全く...」

広太郎は何も答えず、庭へと出て行った。


追い出した広太郎を追いかける前に、ペーチカはテーブルから灯油ランプを手に取り、慎重にヴァレルカのベッドに近づいた。しかし、不安定な幽霊のような光の中で床に置かれた金属製の洗面器に気づかず、それにつまずいてしまった。ガシャリという音が部屋に響いたが、それでもヴァレルカは微動だにしなかった。

ペーチカは彼の上にかがみ込んだ。ヴァレルカの顔は驚くほど変わり果てており、一瞬、彼が小さくしぼんだ老人を見ているような気がした。

「まったく、病気ってのは人をこんなにも変えちまうんだなぁ」と、背後からアルチョム爺さんの声が聞こえた。
「こんな医者どもじゃダメだ、やっぱり良いブリヤートのシャーマンが必要だ。悪霊が取り憑いとる。タイラガンの儀式をやらねばな。馬を火で焼いて供えたら、ひょっとするとこの子も良くなるかもしれん。ここの土地は悪い...汚れておる…。ブリヤートたちがラーズグリャエフカにあんなに鏡を掛けたのも、それが理由だろうよ?」

「鏡?」ペーチカは爺さんの言葉を聞いて急にピンと背筋を伸ばした。

「どうした?」アルチョム爺さんは驚いて尋ねた。
「何か見えたか?」

「鏡だって?」
ペーチカは爺さんを見つめ、何かを必死に考え込んでいるようだった。

「そうだよ…あちこちに掛かっとるじゃろ。変な文字も書いてあるしなぁ…」

ペーチカはそれ以上爺さんの話を聞かず、ランプを爺さんの手に押し付けると、家を飛び出した。

「何だってんだ、あいつは?」とアルチョム爺さんは驚きながらペーチカの母親に尋ねた。
「どこへ行くんだ?」

ペーチカは広太郎を追いかけた。夜道をさまよいながら、大きな水たまりを避けようと慎重に歩いていた広太郎にちょうど追いついたのは、夕方に彼がブリヤートの鏡を見つけたあの家の前だった。


ペーチカは遠くから広太郎のやせ細った奇妙な姿を認めると、声の限り叫んだ。

「待て! ちょっと待って!」

広太郎は立ち止まった。

「なんで…門に…鏡が…掛かってるんだ?」ペーチカは全速力で駆けた後の息切れを抑えながら途切れ途切れに尋ねた。広太郎のそばに立ち止まり、前かがみになって膝に手をついている。

「知らない…」

「嘘だ…知ってるだろ…お前がさっき、あの鏡をじっと見てたの、僕は見てたんだから!」

ペーチカは体を起こし、広太郎の袖をつかんだ。

「さあ、何が書いてあるのか言えよ!」

「何も…何も書いてない。ただの記号だ…」
広太郎は空いている手を振って答えた。

「記号だって? 何のためだよ?」

「悪霊を追い払う…護符みたいなものだ…」

「護符?」ペーチカは聞き返した。

「いや、お守りだ。」

「そう、それそれ。でも、お前はそのお守りを読めるのか? 悪霊を追い払えるのか?」

「俺の悪霊じゃない…悪霊なんていない…」

「どうしてお前のじゃないって言えるんだ?」

ペーチカは広太郎の腕を引き、門のそばに連れて行った。その上に取り付けられた鏡を指差す。

「ほら見ろよ、記号だらけじゃないか。ここにロシア文字がどこにある? 一つもないだろう? お前らの変な記号ばっかりだ。ってことは、お前らの悪霊だ。」

ペーチカは門のそばの小さな踏み台に飛び乗り、手を伸ばして鏡を取り外した。

「さあ、ヴァレルカのところに戻るぞ。」ペーチカは鏡をポケットにしまいながら言った。

「お前がシャーマン役だ。お前の悪霊を追い払うんだ。わかるか? なんで黙ってるんだよ?」


広太郎にはペーチカの言葉が理解できた。目の前には、信じがたい馬鹿げた考えを頭に叩き込んだロシアの少年が立っている。広太郎はどう対処すべきか分からなかった。今朝、収容所の独房に座っていた時には、こんなばかげた状況に巻き込まれるなど夢にも思わなかった。そして何より、この愚かな状況が、自分自身の過去と奇妙な形で繋がることになるとは。

岩谷氏がかつてエクソシズムの儀式を皮肉たっぷりに受け止め、広太郎自身もその皮肉に軽々と同調したことが、今や長い年月を経て毒蛇のように彼自身に襲いかかってきたのだ。

その毒蛇は何年も身を丸め、待ち伏せしていたかのように、ついにその牙を剥き出しにした。京都での医学研究、そしてパリでの留学生活、無数の学術的探求や難解な議論、同僚との原則的な論争――それらすべてが、今この場では何の意味も持たない。目の前にいるのは頑固なロシアの少年で、彼は倒れた侍の子孫であり、医学博士である宮永広太郎に悪霊を追い払ってほしいと言うのだ。

「何で黙ってるんだよ?」ペーチカは繰り返した。
「行こうぜ!」

「無理だ。」広太郎は首を振った。
「俺は学者だ。」

「それがどうしたって言うんだ?お前、祈りのやり方くらい習わなかったのか?行こうぜ、僕がその鏡持ってやるよ。」


ペーチカは広太郎の手を再び引っ張ったが、すぐに足を止めた。

「いや、待て!ダリヤ婆さんのところに先に行こう。あそこにお前らの神様がいるんだ。手がいっぱいあるやつな。役に立つかもしれないから持って行こう。」

広太郎を庭先に残し、「ここから動くなよ」と厳命した後、ペーチカはそっと家の中に入った。彼はアルチョム爺さんが今ヴァレルカの家にいることを知っていたので、ダリヤ婆さんが二倍危険であることも分かっていた。爺さんがいない今、婆さんには気を散らすものがなく、どんな敵にも決定的な一撃を与える準備ができている。ペーチカと戦う理由は今のところ特にないはずだったが、優れた指揮官はいつだって戦闘に備えているものだ。

ペーチカは、板が一枚も軋むことのないよう細心の注意を払いながら、玄関から広間へと足を踏み入れた。テーブルの上には灯油ランプが灯っていたものの、ダリヤ婆さんの姿はそこになかった。ペーチカは息を潜め、周囲の音に耳を澄ませた後、寝室の方へ向かった。アルチョム爺さんは多くの腕を持つ神像を寝台の下のぼろ布の山に隠していた。

爺さんの作業用の材料にダリヤ婆さんが手を出すことは決してなかったため、神像は完全に無事だった。もし他の場所に置かれていたら、その多くの中国風の腕のうち何本かがなくなっていたり、ひょっとしたら頭部までも失っていたかもしれない。ダリヤ婆さんは他人の宗教を全く尊重しなかったのだ。

庭に残された広太郎は、忠実にその場に立ち続け、時折蚊を追い払う仕草をしていた。その蚊の鋭く耳障りな羽音は奇妙な音楽のようでもあり、ときおり遠くから届く荒々しい叫び声や、メロディーの断片、犬の吠える声、笑い声、赤ん坊の泣き声と絡み合っていた。一見ばらばらに聞こえるこれらの音が、何らかの不思議な法則によって一つの調和を成しており、広太郎はそれを聞きながら思いがけずその不格好でありながら魅力的な夜の交響曲を楽しんでいた。


しかし、その全体の調和が小さな納屋から聞こえてきた異音によって突然乱された。広太郎は耳を澄ませ、かすかな金属音、水のはねる音、さらには何かがもがくような音まで聞き取ることができた。

次の瞬間、大きな衝撃音とともに納屋の扉が内側から開き放たれ、怯えきった何匹かのヤギが蹄を鳴らしながら飛び出してきた。無言で立っている広太郎を避けるようにして庭中を駆け回った後、それらは暗闇の中で白い尾を揺らしながら小さな門に向かって一斉に逃げ込んでいった。

納屋の丸太の間に差し込まれた松明の揺れる光の中で、広太郎は膝をつき、悪魔の面のように醜い老婆が、大きなブリキのバケツの中に何かを沈めようとしている姿を目撃した。その老婆が沈めようとしているそれは、全力で抵抗し、水を周囲に飛び散らせ、うなり声をあげ、どうしても沈もうとはしなかった。



老婆は頭を上げ、自分のヤギたちがどこへ行ってしまったのかを確認しようとしたが、目に飛び込んできたのは、自分の庭の真ん中に立つ日本人だった。この光景はあまりにも予想外で、彼女は一瞬動きを止め、両手を上げた拍子にバケツの中から大きな黒い子犬が飛び出し、甲高い叫び声を上げた。

まるで能の古典的な演目の中で、嫉妬や復讐心に心を引き裂かれた鬼女が、面を「泥眼」から「般若」に変えて叫ぶように。その最も恐ろしい叫び声ですら、彼女の胸を掻き乱す感情の痛みを表しきれない。

濡れた子犬は、この劇での自分の役割が終わったのを悟り、舞台裏に退場するがごとく、周囲に水を撒き散らしながら体をブルブルと震わせ、くしゃみを一つしてから、ゆっくりと家に向かって駆けていった。

その途中でペーチカが玄関に飛び出してきた。ダリヤ婆さんの叫び声は彼に不吉な予感を呼び起こし、能楽の愛好家でもない彼が家から飛び出してきた理由はまさにそのせいだった。左手には多くの腕を持つ神像をしっかり握りしめている。

「どうしたんだよ!」とペーチカはダリヤ婆さんに怒鳴りつけた。
その視線は瞬時に、濡れた子犬、水が入ったバケツ、そして目の前に膝をつき、突然の驚きで疲れ果てた鬼女のような老婆を捉えた。

「何してんだ?」

「日本人だ!」とダリヤ婆さんは声を絞り出し、庭の真ん中に立ち尽くす広太郎を指さした。

「そりゃ日本人だって分かってるよ!でもなんで僕の子犬を溺れさせようとしたんだよ!」

「子犬だって?」ダリヤ婆さんは問い返しながら、ようやく落ち着きを取り戻し、いつもの調子で考え始めた。
「子犬ねぇ…いいわ、見せてやる!」

彼女は腰を上げると、重々しい動きで立ち上がった。


「今すぐその子犬を逆さに吊るして、空高く飛ばしてやる!」

その威嚇に合わせて、彼女は足でバケツを蹴飛ばし、水が地面にぶちまけられた。ペーチカは素早く子犬を片手で抱え上げ、念のため門の近くへと後退した。

「狼なんかを家に連れてきて!」
とダリヤ婆さんは怒鳴りながら、ペーチカに近づき、空のバケツを威嚇するように振り回した。
「見てごらん、こいつめ!婆を侮るつもりか!この間ポタ-ピハが来て言ってたぞ。お前の家には狼がいるってな!お前、爺が目が悪いから分からないと思ったか?この悪ガキめ!」

彼女は徐々にペーチカに接近し、空のバケツを大きく振り上げた。

「逃げろ!」ペーチカは子犬をしっかり抱きかかえながら、ヤギが開けた門をくぐり抜け、叫んだ。
「早く逃げろ!何やってんだ!」

広太郎はその言葉を聞くや否や動き出し、ぎこちない足取りながらもペーチカの後を追って走った。その背後で空のバケツが地面に落ち、カン高い音を響かせた。

「締め上げてやる!」
ダリヤ婆さんの叫び声がラズグリャエフカの夜空に響き渡り、彼女の声はこの無秩序な夜の交響曲に見事なクレッシェンドを加えていった。


「もしお前がいなかったら、婆さんは絶対にやっつけてたよ。」
ペーチカは息を整えながら言った。二人が十分に遠く離れたところで立ち止まった。
「婆さんを何でそんなに怯えさせたんだ?」

「分からない。」広太郎は言った。
「ただ立っていただけ…」

「まあ、それで良かったよ。上官として感謝するよ。見てくれ、これ!」ペーチカは広太郎に多くの腕を持つ神像を見せながら笑った。
「これでお前の悪霊どもを全部追い払って、ヴァレルカを助けるんだ。」

ペーチカは近くにいるダリヤ婆さんのヤギを見つけ、笑い出した。

「さて、これで朝までヤギを追いかけ回さないといけなくなったな。村中に散らばっちまったよ、バカどもが。」

二人はしばらく黙って歩いていたが、ペーチカが再び話し始めた。

「なあ、この神様、なんて名前なんだ?」

「それは観音菩薩だ。」

「菩薩?へぇ、女神なのか?」とペーチカは驚いて聞いた。「てっきり男の神様かと思った。」

「中国では男…インドでも…」

「ほら、やっぱり知ってるじゃないか!知らないふりするのも得意だな。で、なんで腕がこんなにたくさんあるんだ?」

「人を助けるためだ。」

「誰を助けるんだよ?」

「みんなを。」

ペーチカはしばらく黙り込んだ。「みんなを」と言われても、八本の腕じゃ全員を助けるのは無理だろう、と内心考えたが、それを広太郎に言うのはやめた。大事なことを前に気を削ぐようなことを言うのは卑怯者のすることだ、とペーチカは思っていたし、自分はそんな卑怯者ではなかった。それに、この「たくさんの腕」の話はペーチカ自身気に入っていた。

ペーチカはふと、自分に八本の腕があったら誰を助け、逆に誰にお仕置きするかを考え、満足そうに黙ってまた歩き出した。

広太郎も黙り込んでいた。彼の心の中では、助けたいという思いと恥ずかしさがせめぎ合っていた。ペーチカとその家族を助けたい気持ちは本物だったが、これから自分がやろうとしていること――治療の代わりに、まったく無意味な「儀式」を行おうとしていること――が苦々しく、情けなかった。

広太郎はそもそも「悪霊祓い」など信じていなかった。それだけでなく、かつて岩谷氏が冗談交じりに批判したあの儀式の詳細をほとんど覚えていなかった。


軽信的な正広の父親が投げかけた皮肉な一言一言の方が、僧侶たちが行った神秘的な手順よりも記憶に深く刻まれていたのだ。

広太郎は、この不快な思考をかき消すために、なぜロシアの少年が観音菩薩の像を持っているのかについて考え始めた。厳密に言えば、それは観音ではなく、その中国の対応である観音(グアンイン)の像だったが、広太郎はペーチカにその日本名を教える方が簡単だった。それにしても、この二つの神がどちらも菩薩アヴァローキテーシュヴァラの化身であることには変わりはなかった。

広太郎は幼少期に興福寺を訪れた際、仏教の神々について学んだ記憶を思い出した。アヴァローキテーシュヴァラは、苦しみの中で彼に祈りを捧げる全ての者の声を聞き届けるという大いなる誓いを立てた菩薩であった。彼はすべての生き物を救うまで、自らの仏の位を受け取らないと決意していた。

この考えに思いを巡らせていた広太郎は突然足を止め、ペーチカが不安そうに彼の顔を見上げた。


「どうしたんだ?もうすぐだぞ。」ペーチカが言った。
「また考え込んでるのか?行こうぜ、もうすぐだ。」

ペーチカは彼の指を甘噛みしている子犬の耳に息を吹きかけた。広太郎は手を差し出し、ペーチカが抱える観音(グアンイン)の多腕像を指差した。

「貸してくれ」と彼は言い、ペーチカは素直にその像を手渡した。

広太郎は数秒間、月明かりの中で神々しい顔をじっと見つめた。その表情は静謐でありながらも、どこか悲しみをたたえているように思えた。彼は像をペーチカに返すと、突然足早にヴァレルカの家に向かって歩き始めた。その勢いに驚き、ペーチカは軽く小走りになって追いつかざるを得なかった。

広太郎は家に果敢に足を踏み入れると、玄関口でいきなりインクと鶏の羽ペンを要求した。驚いた母親に対し、ペーチカは「早くしろ」と小声で急かし、数分後、広太郎は羽ペンを手に持ち、ヴァレルカのベッドへと近づいた。灯油ランプで彼の手元を照らしていたアルチョム爺さんは、訝しげに孫の顔を見たが、ペーチカはしっかりとうなずいてみせた。

ペーチカは床に子狼を下ろすと、ポケットからブリヤートの鏡を取り出し、それを頭上に掲げた。もう一方の手には多腕の中国の神像を握っている。ヴァレルカの母親は、ベッド脇に座ったまま息子から視線を外し、無表情のままペーチカを見つめた。

ペーチカは広太郎の背後に立ち、古びた鏡と木の彫像を持っているだけにもかかわらず、まるで対戦車手榴弾を手にしているかのように真剣な表情を浮かべていた。そして、まるでヴァレルカからは邪悪な霊ではなく、ドイツの「ティーガー」戦車が出てくるかのように見えた。

広太郎もペーチカの真剣な顔を振り返り、彼の後ろに立つその姿を見つめた。その瞬間、かつて正広のために笑いを堪えようとした自分自身を思い出し、このロシアの少年に対して計り知れない感謝の気持ちを抱いた。そして、ペーチカが自分の背後で奇妙な「武器」を構えて立っている以上、たとえ霊が実在するかどうかに関係なく、何かが起きると信じた。

少なくともそれは、自分自身と正広との間に横たわる何かを償う最後の、そして最も重要な試みになり得ると感じた。


広太郎はヴァレルカの掛け布団を跳ねのけると、彼のやせ細った腹に鶏の羽ペンで何か日本語を書き始めた。

「これ、何してんだ?」とアルチョム爺さんがペーチカに顔を近づけ、小声で尋ねた。緊張で少しふらついているペーチカは、低い声でささやいた。

「お守りだ。」

「なんだって?」

「悪霊を追い払う護符だよ。」

「ほう、そりゃいいことだ、こいつめ」とアルチョム爺さんは理解したように頷き、そう呟いた。

広太郎は背筋を伸ばして、自分がヴァレルカの体に書いた漢字を読み返した。

「目覚めよ…
草むらに眠る蛍よ、
また友になれ。」

この俳句は、死にかけている少年のそばに身を屈めたとき、彼の心に最初に浮かんだものだった。広太郎はもうこれらの人々に対して恥じることはなかった。もし詩に何か力があるなら、その力を今こそ示さなければならないと感じていた。

「紙を…」広太郎が静かに言って、机に向かった。

ペーチカの母親は急いで壁掛けのカレンダーから一枚を引きちぎり、それを広太郎に渡した。

広太郎はランプを頭上で持っているアルチョム爺さんの光の下、机に腰を下ろして、カレンダーのイラストの上にもうひとつ俳句を書きつけた。


「空高く
昨日と異なる場所で遊ぶ
ヒバリかな。」

それから広太郎は爺さんの方を振り返って、ランプのホヤを外してカレンダーの紙を燃やした。みんながこの二つ目の炎をじっと見つめる中、広太郎は紙が完全に燃え尽きるのを待ってから、その灰を空のグラスに入れた。

「水を…」と広太郎が短く言った。

ペーチカの母親がひしゃくでグラスに水を注ぐと、広太郎はスプーンで灰を溶かし始めた。

「草原へ行かないと…」
広太郎がやっとのことで言った。
「日が昇ったら、この水を飲ませて。」

「草原なら」とアルチョム爺さんはすぐに同意した。
「うちにはズヴェズドチカがまだ馬車に繋がってる。さあ行こうか、迷うこともあるまい。」



収容所の警備隊では、この時点で広太郎のことを思い出す者は誰一人いなかった。
アディンツォフ中尉は、自室の机に向かい、前線への異動を願う報告書を必死に書き上げようとしていた。

昼間、彼がアリョーナ・ネステロワやペーチカ、その母親と一緒に戦車兵たちのところにいた時、タダ酒のウイスキーに酔い、新たな勝利を予感していたバランディン少佐が、ほのめかすどころかほとんど直球で「もうすぐ大規模な進撃が始まる。日本軍にはとびきりのサプライズが待っている」と語った。

アディンツォフは目の前の紙に目をやり、ペンをインク壺に浸すと、書きかけの一文を線で消した。

「私の体調にはこれ以上の療養が必要ないことを考慮し...」

彼はこの失敗した文書を丁寧に他の用済みの紙と重ね、きっちりと端を揃えた。それはまるで、これまで書き散らかした文章が目に入らないようにするための儀式のようだった。しかし、彼が手を離すや否や、開け放たれた窓から吹き込んだ風がその紙の束を机の上に散らしてしまった。

アディンツォフは散らばった紙をぼんやり見つめながら煙草に火をつけた。

「...私の状況を考慮して...」と書かれた一枚が目に入り、
「...以上の点をご配慮いただき...」と別の紙が視界に入った。

彼は自分の上官に、負傷のために一度は勝利を逃したが、二度目は絶対に見逃せないということを、シンプルかつ明快な言葉で伝えたいと思っていた。だが、そんな言葉はどうしても浮かんでこなかった。

ついに、右手に持った煙草を左手に移すと、再びペンを手に取り、真っさらな紙にこう書いた。

「私の血は煮えたぎっています。」

その瞬間、窓の外から笑い声とも咳払いともつかない音が聞こえた。アディンツォフは驚いて顔を上げた。

そこには、窓の向こうで彼を見つめている上等兵ソコロフの姿があった。実際には、ソコロフが注意を引くために咳払いをしたのだが、アディンツォフには彼が嘲笑しているように思えた。


「どういうことだ、上等兵?」とアディンツォフは顔を赤らめながら立ち上がり、机から声を荒げた。
「何をするつもりだ?」

しかし、ソコロフはその怒りを全く気にする様子もなく、淡々と口を開いた。

「殺されますよ、アリョーナ。旦那に、死ぬまで殴られる。」

アディンツォフはその言葉に面食らい、数秒間何も言えず、困惑した表情で部下を見つめた。静まり返った部屋には、窓から吹き込む風が散らばった紙をかすかに揺らす音だけが響いていた。

「誰が? 誰が誰を殺すって?」
やっとのことでアディンツォフが口を開いた。

「アリョーナの旦那です。あの人、今彼女を死ぬほど殴っています。俺たちのせいで。」

「俺たちのせい?俺が何をしたっていうんだ?」アディンツォフは驚きからソコロフに少し身を乗り出した。
「それに、どうやってそのことを知った?」

「ラズグリャエフカに行ってきました」とソコロフはため息をついた。

「俺が残るように命じたのを忘れたのか?」

「いや、最初は行かないつもりだったんですよ。途中で引き返そうとしました。でもな、考え直して行くことにしたんです。そして行ってみればこの有様で。」

ソコロフは顔をしかめ、深く息を吸い込みながら煙草を吸い、首を横に振った。

「あの旦那にかかっちゃ、彼女は持たないですよ。健康だってたかが知れてますからね。」


アディンツォフは椅子に座り、短い間何かを考え込んだ。

「自分の目で見たのか?」アディンツォフがソコロフに尋ねた。

「ええ、いや、そんな無茶なことするわけないでしょ...女たちに聞きました。」

「うーん...厄介なことになったな。」

「自分だけじゃないですよ、他の連中もやってます。」

「聞け、そういうのを俺に...」アディンツォフは苛立ちながらソコロフを制しようとしたが、話はまだ続きそうだった。

アディンツォフは突然黙り込み、ソコロフの背後に視線を固定した。ソコロフはすぐに振り返る。暗闇の中、少し離れた場所に日本人捕虜の一人がじっと立っていた。

「なんだ、おい、驚かせやがって、ツリ目!」とソコロフが毒づいた。
「何しに忍び寄ってきた?お前、誰だ?よく見えねぇ。」

「岩谷正広!」と日本人は直立不動で名乗った。

「おお、お前か、足が悪い方のな」とソコロフが鼻で笑った。
「なんだってんだ?」

「もう消灯だぞ。牢屋にでも入りたいのか?」

正広は無言で彼を見つめていた。

「なんだよ、黙りこくって。舌でも抜けたのか?」

「宮永広太郎…二日…牢屋…いた…でも今…牢屋ない…バラックもない…」

「もう行っちまったよ」とソコロフが言った。
「地元のガキを治しにラズグリャエフカへ行ってる。」

正広は不信感を込めた目でアディンツォフを見た。

「説明した通りだろ」とアディンツォフは肩をすくめた。
「問題ないよ。すぐ戻ってくるさ。さっさとバラックに戻れ。」

正広は数秒間その場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返し、大きく足を引きずりながら暗闇に消えていった。


「まったく、分からねえ奴らだな」とソコロフが振り返ってアディンツォフに言った。
「犬みたいに喧嘩してるかと思えば、今度は互いがいないと眠れやしない。訳が分からん。」

アディンツォフは返事をしなかった。ただ、自分の書類を丁寧に束ねていた。

「で、どうしましょうか、中尉?」と少し間を置いてからソコロフが言った。
「私はアリョーナを助けるべきだと思います。俺たちで彼女をかばったらどうでしょうか?どう思います?」

アジンツォフは机から立ち上がり、短く答えた。

「俺は、彼女が自分で招いたことだと思う。」
そう言って窓を閉め、ソコロフの顔を遮った。


夜明けまであと1時間を切った。気落ちした様子の馬「ズヴェズドーチカ」は、道なき草原をゆっくりと歩いていた。アルチョム爺さんは、馬の前方の草むらに目を凝らしていた。薄暗い夜明け前の薄明かりの中で、馬がタルバガンの巣穴に気づかず、脚を踏み外して骨折するのではないかと心配していたのだ。

その隣にはペーチカが座り、一生懸命、奇跡の水が入ったコップをこぼさないようにしていた。ヴァレルカを家から運び出したとき、アルチョム爺さんはペーチカに「そのコップを母さんに渡せ」と言った。しかし、ペーチカは何も言わず、自分の子狼を荷車に投げ入れると、自分も荷車に飛び乗り、他の人が座り終わるのを待って、膝をペーチカは、荷車がでこぼこ道で揺れるたびに慎重に身を寄せてアルチョム爺さんのほうを向いた。

コップの中の水が自分の手にこぼれるのを、爺さんに見られたくなかったのだ。彼はこっそり爺さんを横目で見たが、その薄白い光の中で、どこか見覚えのない人物に見えた。この時間の草原に漂う疲れたような空気のせいだった。ぼさぼさの白い髭は半透明の空気の中に溶け込み、爺さん自身が少し透明になり、まるで夢のように見えた。

ペーチカは後ろを振り返り、頭を垂れた2人の女性、毛布の下で身動きしないヴァレルカ、そして斜めに目を細めながらどこかをじっと見つめる広太郎の姿を見た。

そのすべてが、草原を漂う夢のように見えた。彼は意識を取り戻し、爺さんが消えたりしていないことを確かめるために、恐る恐る手を伸ばしてみた。しかし、荷車がまた跳ね上がり、コップの水が膝にこぼれると、彼はこれが夢ではないことを改めて実感した。


「もういい加減決めてくれよ、どれだけ待たせるんだ。」

これまでに何度も同じように止まっては、広太郎が静かに辺りを見回し、首を横に振るということが続いていた。

「ここは良くない場所だ」と短く言い放ちながら、広太郎は周囲を見渡すこともなく草むらに飛び降りた。それを見てアルチョム爺さんはため息をつきながら、疲れ切った馬に「ほら、行け」と声をかけた。

しかし今度は広太郎は何も答えなかった。周囲に白く輝く岩塩の塊を見つめると、何も言わずに草むらに降り立った。

「やれやれ、ありがたいことだ」と、爺さんは荷車から降りながら呟いた。

「もう、この男はうちのズヴェズドーチカを殺す気かと思ったよ。丸一日もこの草原を歩かせやがって。 昨日なんか、朝から村長に呼び出されて、英雄様たちに酒が足りないって? ミーチカ・ミハイロフなんか英雄だと? ヤナギの棒でも投げつけてやりたいもんだ。それに比べりゃ、うちの密造酒でも買っていけばよかったものを。いやいや、アルチョム、国のために行ってこいって? だが餌をくれって頼んだら、そりゃお断りだ。まあいいさ、兄弟たちがベルリンから戻ってきたら、やつにお灸を据えてやるさ。その時が楽しみだ。」

爺さんは馬の周りを世話しながらぶつぶつ呟いていた。

その間、広太郎は手に中国の仏像を持ちながら、じっと東の方角を見つめていた。草原の上の空はすでに明るくなり始めており、地平線の向こうには紫色の島々がピンク色の海に浮かんでいるかのように雲が広がっていた。

「爺ちゃん!」ペーチカが呼びかけた。
「で、どうする? ヴァレルカを降ろす?」

「降ろせ、降ろせ」とアルチョム爺さんが答え、孫の元へ歩み寄った。
「お前、自分で降りないのか? 着いたぞ。ほら、あの日本人、ようやく落ち着いたみたいだ。さっきまでずっと先へ進めって言ってたのにな。」

「爺ちゃん、なんで泣いてるんだ?」ペーチカが尋ねた。

「俺が? 泣いてなんかいないさ」とアルチョム爺さんは頬を流れる涙を拭いながら答えた。「ただ、悔しいだけだ、それだけだ。」

「何が悔しいんだよ?」

「はあ...」爺さんは深く息をついた。
「お前には分からんさ。いや、分かる必要もない。とにかく、ヴァレルカを降ろすのを手伝え。」

ペーチカは半分ほどしか水が残っていないコップを荷車の中に置き、友人の肩を支えた。

「おい、お前ら! 座り込んで何してる!」アルチョム爺さんが叱りつけた。「早く降ろすんだ!」


三人がかりでヴァレルカを荷車から降ろし、広太郎の背後に立ちながら次の指示を待ったが、日本人は振り向こうとしなかった。仕方なく、彼らはヴァレルカを草むらの中、岩塩の塊の間にそっと横たえた。

「最初に毛布を敷いておくべきだったな、まったく」とアルチョム爺さんがぼやいた。

「そのままでいいよ」とヴァレルカの母親がほとんど聞こえないくらいの声で答えた。
「草の上のほうがいい。」

彼女は息子の頭の横にコップを置き、地面に座り込んだ。全員が黙り込んだ。どこか近くで最初のヒバリが目を覚ました。鳥は空高く飛び立ち、灰色の霧の中でまだ見えない翼を激しく震わせながら空中にとどまっていた。

「アーニャ、じゃあ行こうか」と、アルチョム爺さんが口を開いた。
「朝までに村中のヤギを全部集めなきゃな。でないと婆さんに大目玉くらっちまう」

「俺たちは?」とペーチカが尋ねた。

「後で迎えに来るさ。お前の日本人、急いでる様子もないしな」

アルチョム爺さんとペーチカの母親は再び荷車に乗り込み、50メートルほど進んだところで、ペーチカが自分の仔狼のことを思い出した。慌てて彼らを追いかけ、荷車の中で気持ちよさそうに眠っていた仔狼を引っつかむと、その場に立ち止まった。アルチョム爺さんはそんな彼に気づくことなく、何かため息をつきながら、もじゃもじゃの頭をひっきりなしに振っていた。


広太郎は相変わらず動かず、もうすぐ陽が昇るだろう東の空をじっと見つめていた。夜明け前の草原が彼の目の前に横たわり、沈黙の中で無数の道を約束するかのようだった。それは彼を引き寄せ、足を踏み出し、草原に溶け込み、そして砂漠の植物のように存在そのものとなることを誘っているようだった。

空気は静まり返り、まるで深い悲しみや親しい人の喪失のように、または偉大な芸術家が最も深い感情を表現するために身振りを必要としないように、動かないままだった。

広太郎はこの静けさに思いを巡らせていると、彼の頭には、自分が突然現れて怯えさせてしまった庭先の老婆の姿が浮かんだ。彼女が桶の上で身じろぎもせず凍りついた、その表情がまるで仮面のように静止していたのを思い出した。その瞬間、彼は自分が何をすべきかを理解した。


彼は振り返り、病気の少年のそばに座っている女性に目を向けた。その目には変化があった。手を上げると、滑らかな動きで腕を振り、次いで素早く滑るような足取りでその場を歩き始めた。そして、静かな調子で能楽の古典劇の一節を語り始めた。

もちろん、彼はその戯曲の台詞を正確に覚えているわけではなかったが、それはもはや重要ではなかった。古の悪霊退散の物語が自然に頭に浮かび、彼は突如湧き上がった感動に駆られ、それを疲れ切った観衆なのか、あるいは草原そのものに向けて演じ始めた。

ぎこちないながらも心を込めて舞台の舞を繰り返しながら、広太郎は彼らに、嫉妬と復讐に燃える六条御息所の霊に苦しめられる葵の君の物語を語った。

彼は時に廷臣となり、時に巫女の照日となり、時に悪霊そのものとなり、またそれを追い払うことに成功した僧侶となった。ペーチカとヴァレールカの母親は目を離すことなく、その姿を見つめていた。彼らは広太郎がまさに魔法を使っているのだと信じて疑わなかった。


戯曲では、光源氏の妻である葵の上が、夫に会うことを許されなかった対抗者を深く傷つけ、その対抗者があまりの怒りに生前にもかかわらず霊魂となって妊娠中の葵の上を苦しめたという物語が語られる。巫女の照日が悪霊を呼び出すことに成功し、光源氏に愛される正妻に拒絶された六条御息所は復讐を誓う。

この場面で、広太郎は少し困惑した。能の舞台で嫉妬深い女性を表現する「嫉妬の面(泥眼)」をどう表現するべきか分からなかった。しかし次の瞬間、彼は再び桶を持った老婆を思い出し、それを思わせる顔を作った。この表情に、ヴァレルカの母親が思わず身震いし、ペーチカは口をぽかんと開け、手に持っていた仔狼を落としてしまった。

悪霊を追い払う場面に近づくにつれ、広太郎はますます自信を深めていった。彼は合唱のパートも必要な解説を交えながら見事に演じきった。その動きは正確で、彼自身が間違いなく舞台上の本物の役者になったように感じられた。周囲を流れるように動きながら、腕を一振りするだけで深い意味を伝える本物の役者の優雅さを完全に再現していた。

広太郎は、自分が実際に着物を着ているかのように感じていた。彼はその場で即興で作り上げた僧侶のモノローグを没頭して朗読し、その言葉の意味を見せかけの広い袖の動きで強調した。

六条御息所が悪霊の姿となってペーチカとヴァレルカの母親の前に現れると、広太郎は僧侶として果敢にその霊と対話を始め、怒りに満ちた霊の悪意を打ち破った。最後に悲痛な叫びを上げて悪霊が消え去ると、広太郎は勝者の威厳を無言のポーズで示した。そして、夜明け前の草原には再び静寂が訪れた。


ペーチカは広太郎に魅了され、その先に何が起こるのかをじっと待っていた。この役に立たない医者を使って、ブリヤートの悪霊を追い払わせることを思いついた時、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。広太郎が繰り広げた行動は、きっとあの世の霊たちですら気分が悪くなるほどのものだった。

ペーチカは堪えきれないほどの衝動に駆られ、立ち上がって広太郎がしたことを少しでも真似したい気持ちになった。それは叫び声や足踏み、遠吠えのようなものだった。彼の中には何か抑えきれない野生のような喜びがあふれており、ヴァレルカが全く動かないにもかかわらず、どうしても叫びたい、わめきたい、飛び跳ねたい衝動が湧き上がってきた。

おそらく、もう少しでペーチカはその場で叫び出していたかもしれない。しかしその時、ヴァレルカの母親がそっと彼の肩に触れ、小声で囁いた。


「ペーチャ、見て…」

ペーチカは振り返り、広太郎のことをすっかり忘れてしまった。

彼らの背後には、大きな半円を描いて座っている一群の狼がいた。ペーチカは最初、自分の目を信じられず、見間違いかと思って瞬きをした。しかし、狼たちは消えるどころか、じっと座ったまま人々を見つめていた。そして、なぜかその場から動こうとしなかった。

「喰われる…」とペーチカの頭に一瞬よぎった。
「これじゃ、戦車に乗る夢も叶わないや」。

広太郎はゆっくりと地面に身を沈め、ヴァレルカの母親はなぜか手にグラスを持ち上げた。

「お前が持っている仔狼だ」と、広太郎は低い声でつぶやいた。目線は数メートル先に座る狼の群れに釘付けだった。
「彼らは自分の子を求めている」。

ペーチカは最初、彼の言葉が理解できなかった。一瞬、広太郎が自分のペットを狼に差し出すつもりだと思った。しかし、広太郎が指差したのは、狼の半円形の中央に陣取ったメス狼だった。そのそばには、ふわふわした毛玉のような3匹の子狼が寄り添って座っている。どれもペーチカの「イスプグ」と同じくらいの年齢のように見えた。

「こっちへおいで」とペーチカは眠そうな目をしている狼の子を引き寄せるように囁いた。

2匹か3匹の狼がペーチカの動きに反応して身を起こした。そのうちの1匹が鋭い牙を剥き出しにした。

「やめて、ペーチャ…」とヴァレルカの母親が小声で頼んだ。
「そのうち、いなくなるかもしれないわ」。

ペーチカは何も答えず、狼の子を胸にしっかりと抱き、立ち上がった。それに応じるように、他の狼たちも一斉に立ち上がった。

「ペーチャ…」と彼女がかすれた声で再び呼びかけたが、広太郎がそっと彼女の肩に手を置いたため、彼女は黙り込んだ。


ペーチカの心臓は太鼓のように激しく鼓動していた。その鼓動は膝や足の指先にまで響いているようだった。一歩踏み出すと、彼は立ち止まり、それ以上進むことができなくなった。そして、目の前に迫る巨大なオオカミを見つめた。オオカミは頭を低く構え、牙を剥き出しにし、背中の毛を逆立てながら、一歩一歩ゆっくりと近づいてきた。

オオカミが跳ぶ準備を整えた瞬間、ペーチカは目を閉じた。

「ごめんよ、母ちゃん…」ペーチカは心の中でそう呟き、母親の悲しげな顔が一瞬脳裏に浮かんだ。

その時、近くから突然エンジンの轟音が響き渡った。草原が震え、ため息をついたかのように重々しい戦車のエンジン音で唸り始めた。狼たちは地面に身を伏せ、混乱し、リーダーが跳び出して群れを引き連れて逃げていった。

「味方だ…」ペーチカは低い声で言った。「やった…攻勢開始だ…」

彼は力尽きて地面に崩れ落ち、肘で涙を拭いながらも、まだ小さな狼を手放さなかった。広太郎が彼のもとへ駆け寄り、ヴァレルカの母親は手に持っていたグラスを落とし、顔を手で覆ったまま動かなかった。

突然、子狼たちを置いて行かざるを得なかった母狼が群れから遅れて戻ってきた。彼女はペーチカと広太郎の周りをぐるぐる回りながら、悲しげにクンクン鳴き、地面に伏せた。ペーチカは小さな狼を彼女に差し出すと、母狼はその首根っこを優しく咥え、駆け去っていった。

その瞬間、草原に太陽が昇った。


ペーチカは跳ね起き、口笛を吹き、叫びながら両手を振り回して広太郎の周りを狂ったように走り回った。彼は戦車のエンジン音を掻き消すかのように声を張り上げ、広太郎も太陽を見上げて微笑んだ。そしてついに彼も喉を震わせるような声で何かを叫び、ペーチカを追いかけて走り出した。

二人は塩の岩塊の間をぐるぐると駆け回りながら、何か訳の分からないことを叫び、手を振り回し、ピンク色に輝く草の上に巨大で長い影を落としていた。不意にペーチカが振り返り、興奮のあまり広太郎の背中に飛び乗った。広太郎は少しの間そのまま走り続けたが、ふと彼らの影が一つに溶け合っているのを見て立ち止まった。

しばらくその場に立ち止まった後、広太郎は両手を左右に広げた。バランスを崩さないように、ペーチカは彼にしっかりとしがみつきながら、二人の一つになった影をじっと見つめていた。そして、自分も両手を大きく広げた。

その瞬間、今や広太郎の足元から遠く草原へと伸びる影は、四本の腕を持つ中国の神の姿のように見えた。広太郎はもう一瞬その場に立ち止まってから前へと歩き出した。
その足元からヒバリが飛び立つと、彼は顔を上げてその場でくるりと回り、笑いながらまばゆい空の高みに飛び去る鳥の姿を追いかけようとした。

しかし、ヒバリはもう一羽だけではなかった。太陽の光に目覚めた他のヒバリたちが、茂った草むらから騒がしく飛び立ち、翼を震わせながら空高く留まった。その高みからは、ほとんどすべてが見渡せた。

目を開けたヴァレルカと、涙を浮かべながら息子に寄り添う彼の母親の姿も見えた。丘の方へと姿を消していく狼の群れも、そして収容所からラズグリャエフカへと埃っぽい道を一人走る上等兵の姿も見えた。

川に向かって近づいてくる轟音を響かせる戦車の群れも、それを追いかけるように声を上げながら急ぐアディンツォフ中尉の姿も目に入った。ヒバリたちの目には、広太郎の背中に乗るロシアの少年と、二人の後ろから地平線の向こうまで逃げていく、滑稽でありながら多くの手を持つ神のような影も映っていた。

 


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