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『草原の神々』訳 ③
第3章
ペーチカは樽の暗い腹の中に滑り込み、胎児のように柔らかく丸くなった。腕を胸に抱え、膝を耳元に引き寄せる。ちょうどお尻の下には乾パンがあるが、それを取り出すのは無理そうだ。
「閉めていいぞ」と彼は言った。
上から蓋が覆いかぶさる。これで完全な闇だ。乾パンはそのまま下に置いておけばいい。後で取り出せる。どうせ砕けたりしない。固くて、草原にある岩塩みたいに頑丈だ。2ヶ月ほど前にダリヤ婆さんから盗んだやつだ。その後、アルチョム爺さんが散々怒られた。しかし、ここで座るのはちょっと居心地が悪い。
「ペーチカ」と、彼の頭のすぐそばでヴァレルカの囁き声が聞こえた。
「聞こえてる、ペーチカ?」
「何だよ?」
「もしお前が寝ちゃったらどうする?そしたら、あの人、お前を樽ごと中国人のところに置いていくんじゃないか?」
「寝ないってば」
「でも寝ちゃうかもしれないじゃん?」
「寝ないってば」
「でも、もしも?」
ペーチカは乾パンを下に押し付けながら、答える準備をしていた。その時、ヴァレルカの囁き声が再び聞こえた。
「なあ、ペーチカ。もしも中国人が……」
「いい加減にしろよ、どっか行け!」とペーチカは怒鳴りかけた。
しかし次の瞬間、アルチョム爺さんの声がすぐそばで響いた。
「おい、何でこんな所をうろうろしてるんだ?早くどっか行け!」
「ペーチカを探してるんだ」とヴァレルカが無邪気な声で答えた。
「見かけなかった?」
「いや、見てないぞ。さあ、早く家に帰れ。もう遅いだろう」
「うちの母ちゃんは遅く帰っても怒らないよ。もっと走れって言うんだ。
そうすると鼻血があんまり出なくなるって」
「ふん、まあいい。けど帰ったほうがいいぞ」
そして少し間をおいて、アルチョム爺さんがまた声をかけた。
「おい、待て、ヴァレルカ!これ、ほら、行者ニンニクでも持ってけ……
それにパンも持ってけ……。おいおい、そのシャツ、血だらけじゃないか……カピカピに固まってるぞ」
「ありがとう、じいちゃん。シャツは母ちゃんが明日までに洗ってくれるよ」
ペーチカはヴァレルカが走り去る足音を聞いた。しばらくして、馬車が少し前に進み、隣の樽がぶつかり合う音がした。アルチョム爺さんが前の席に腰を下ろしたのを感じた。
「ふん、ふん」とため息をつくアルチョム爺さんの声が聞こえた。
「子どもが何でこんなに苦しまにゃならんのだ?あのブリヤート人たちが言ってたじゃねえか。ここに鉱山なんて掘っちゃいかんってな。でも誰も聞きゃしなかった。まったくよ……」
アルチョム爺さんは黙り込んだ。そして次の瞬間、ペーチカは鼻をくすぐるマホルカ(自家製タバコ)の匂いを感じた。ペーチカの鼻腔がぴくりと動き、深く息を吸い込む。歯を食いしばった。一日中、彼はまだ一度もタバコを吸っていなかったのだ。ラズグリャエフカではタバコを手に入れるのも簡単じゃなかった。
息を吸い込むたび、彼は新しい木材の香りを感じた。それはタバコの香りと同じくらい心地よいものだった。顔を板に押し付けると、彼は舌を出して、新しい木の表面を舐め始めた。その味はほんのり甘く、ところどころ粘り気のある樹脂の滴に出くわすこともあった。その樹脂のせいで歯は少し苦くなり、互いにくっつくような感じがした。
「行け!」とアルチョム爺さんがズヴェズドーチカ(馬)に向かって叫ぶと、荷馬車は前に進み始めた。その中の一つの樽の中には、舌を出し、膝を耳元にまで折り曲げた状態で小さなイモムシのように丸まったペーチカが隠れていた。
樽の中で、イモムシは明日、ついに約束していたスピリタス(密造酒)を見張りの隊員たちに持って行くことを考えていた。彼は自分が戦車や潜水艦の中にいるのを想像しながら、樹脂を舐めたり、樽に軽く頭をぶつけたりしていた。
ペーチカは暗闇の中で身を少し動かし、もう少し楽な姿勢を取ろうとした。彼はほとんど怖くはなかった。
この狭苦しい樽の中。でも何が怖いっていうんだ?そのまま乗ってればいいだけだろ。学校のアンナ・ニコラエヴナ先生が昔、授業で声に出して読んでくれた話があった。樽の中に二人詰め込まれたってやつさ。母親と子どもだ。でも、何とかやり過ごしたんだ。それどころか、海に投げ込まれたって話だ。でもここはどうだ?周りは海なんてなくてただの草原だ。
でも暗い。
それに、ちょっと窮屈だ。脚はすぐに痺れてしまった。背中も木みたいに硬くなって、どこが自分の背中でどこが樽なのか全然わからなくなった。木の板同士がぶつかるみたいに背中と樽の壁が音を立てて当たる。そして息が苦しい。体を縮めてると、背中が壁にぶつかって、そのたびに壁もこちらにぶつかってくる。
でもペーチカはほとんど怖くなかった。実は前にもこういう暗闇を経験したことがあった。
「コズィリが防塞(ぼうさい)を見つけたんだ、本物のやつだよ」と、あの時ヴァレルカが言った。
「僕を一度だけ入れてくれたんだ。怖かった。真っ暗でさ。僕は逃げ出したけど、あいつらは笑ってた。僕をそこに閉じ込めようとしてたんだ。」
「防塞(ぼうさい)?」ペーチカは聞き返した。
「ここに防塞なんてあるわけないだろう?」
今、こんな暗い場所に閉じ込められているけど、外には出られると分かっているから、そんなに怖くはない。
暗闇で気分が悪くなるのを防ごうとして、ペーチカはうまく体を浮かせ、バケツの底にある乾パンを引き出した。ごそごそする間に、頭を二度も強くぶつけた。でも、乾パンをかじり始めると少し気分が楽になった。
アルチョム爺さんが鞭を軽く鳴らし、その後、お気に入りの小唄を低く口ずさみ始めた。
「婿が義母にキャベツを運び、若い嫁を手綱につなぐ」
「ここだ」、とその時、ヴァレルカが言った。本当に防塞を指し示してこう言った。
「見た?やっぱり本物だ。信じていなかったくせに。コズィルが言うには、これは関東軍に備えて作られたけど、日本兵たちが怖気づいて、結局、うちの軍もここを離れたらしいよ。」
「ちょっと待てよ」、とペーチカは彼を手で制した。「おしゃべりはそのくらいにしとけ。」
もし、このバケツの中がこんなに暗くなかったら、彼は今、まったく怖くなかったかもしれない。でもペーチカは常に覚えていた。いざというときは手を上げて蓋を押しのければいい。それで、外の空気が吸えるし、この“中に閉じ込められている”という感覚からも解放されるのだ。
「ここ、何の臭いだ? 何か変なものでも放り込んだのか?」
そう言って、ペーチカがあの時、防塞に入りながらヴァレルカに尋ねた。
「違うよ、レンカがネズミを処刑したんだ。もう2週間も『スパイ』ごっこやってるんだよ」
ヴァレルカが答えた。
2枚目の乾パンを食べた後、ペーチカの吐き気はぶり返してきた。ペーチカはそれを何とか耐えようとした。まだ樽から出るわけにはいかない。今出たら、アルチョム爺さんがきっと引き返してしまうだろう。そうなれば、スピリタスはお預けだ。それに、ダーリヤ婆さんに怒られたら命が危ない。
「ここに長くいるとダメなんだよ」
あの時ヴァレルカが言った言葉が思い出された。
「この前なんか、すぐに鼻血が出ちゃったんだ。僕、上で待ってるよ、いい?」
ペーチカはそのヴァレルカの言葉を思い出し、あとどれくらい待たなければならないのかと考えた。その考えがさらに吐き気を強めた。ズヴェズドーチカが駆け足になり、道のデコボコで樽が跳ねるたびに体が揺らされる。
「うおおおおお!」
その時、レンカが叫んだ。
「俺はアレクサンドル・マトロソフだ!」
彼はどこからともなく銃眼に飛びかかった。まるで空から降ってきたように、あるいは最初から近くに隠れていてタイミングを狙っていたかのように。ヴァレルカがペーチカをここに連れてくるのを待っていたのかもしれない。本当にそうだったのかも。それはヴァレルカにしか分からない。
「うわああ、痛えよ!」
レンカは胸壁の上に倒れ込みながら体をバタつかせ、硬直したペーチカの顔の目の前で声を張り上げていた。まるで口から機関銃の音を発しているように。そして、ついに静かになった。
しかし、ペーチカは銃眼越しにレンカを見つめていた。レンカがこのまま死んでいるわけがないと理解していた。彼は「死ぬため」ではなく「生きるため」に飛び込んだのだ。この場面には続きがあるはずだ。
ズヴェズドーチカが突然足を止め、ペーチカの額はもう一度、しかも今回は痛いくらいに樽の壁にぶつかった。アルチョム爺さんは樽の間で何かゴソゴソと音を立てながら動き始め、何か重いもので木をコンコンと叩き始めた。
ペーチカはその音の意味に気づくまで数秒かかった。アルチョム爺さんは樽の蓋がガタついたり、スピードを上げたときに飛び出したりしないよう、蓋をしっかり打ち込んでいるのだった。つまり、国境がもう近いのだ。アルチョム爺さんは突っ切る準備をしている。
蓋を叩く音が2回短く響き、ペーチカの頭上の蓋が彼の痩せた膝に痛いくらい押し付けられた。
あの時、胸壁の上のレンカは目を開け、ペーチカを見てにやりと笑った。
「ここにはネズミがいるぜ」
レンカは低い声で言った。
その後、レンカは膝をつき、銃眼越しに掩体壕を覗き込んだまま、大声で誰かに向かって叫んだ。
「ここにネズミがいるぜ、みんな!入口をふさげ!ネズミを逃がすな!」
その時、ペーチカは胸壁の上に転がっていた石を手探りで見つけ、それを勢いよく投げつけた。
「くそ野郎が、」 レンカはそう吐き捨て、血を唾のように掩体壕の中へ吐きかけた。
「ここでくたばれよ。」
今、樽の中で動くことさえできないペーチカは、再び自分が墓の中に閉じ込められているような気分に襲われた。
鞭の鋭い音が鳴り響き、ズヴェズドーチカはその場からほとんど飛び出すように駆け出した。樽は互いに響き合いながらぶつかり合い、大きな音を立てた。
「頑張れ、お前ならできる!」 アルチョム爺さんは、ささやくような声で馬に言った。
「頼むぞ、愛馬よ!」
掩体壕の中で、ペーチカは出口に向かって突進した。しかし、ドアはもう開かなかった。外から巨大な岩塩の塊が押し付けられていたのだ。銃眼から逃げ出そうとしたものの、顔に砂や石片が飛んできて失敗に終わった。
息苦しさにむせながら咳き込み、ペーチカは力尽きて地面に崩れ落ちた。出口は完全に塞がれていた。そして、さらに1分も経たないうちに、銃眼までもが何か重いもので覆われてしまった。辺りは完全な暗闇に包まれた。
今、樽の中に座っているペーチカは、再び息が詰まるような感覚に襲われた。恐怖に駆られ、彼は力いっぱい足を突っ張り、樽の底を蹴った。その力で頭上の蓋がわずかに動いた。その瞬間、全速力で駆けていた馬車が大きく揺れ、樽が横倒しになり、ペーチカは外に放り出された。ねじれた指でアルチョム爺さんの背中にしがみつきながら、彼は転がり出た。――
「この星、ヴィーチャおじさんやユーラおじさんにも今見えてるのかな?」
アルチョム爺さんは少し黙った後、ため息をつき、ようやく答えた。
「誰にも分からんさ。もしかしたら見えてるかもしれんがな。さあ、早く乗れ。暗いうちに国境を越えなきゃならん。」
ペーチカはもう一瞬だけ空を見上げ、底知れぬ広がりをじっと見つめてから動き出した。
「どこでぐずぐずしてるんだ?」とアルチョム爺さんが苛立たしそうに言った。「早く乗れ。さもないと、あの中国人どもが起きちまう。」
ペーチカは荷車に飛び乗った。アルチョム爺さんは小さく「チッチッ」と舌打ちし、ズヴェズドーチカが前に進み始めた。
「おじいちゃん」と、ペーチカはまた呼びかけ、荷車に積まれた大きな瓶に体を寄せながら言った。「どうして夜の草原で道が分かるの?」
「この土地で俺みたいに長く生きてみろ。道どころか、他のことだって見つけられるようになるさ。あの丘が見えるか?てっぺんが二つあるやつだ。あれだ、あれが目印だ。ほら、あそこ、ちょうど乳房みたいに突き出してるだろう?いや、そっちじゃない、もっと左だ。そこから左に曲がれば、アルグン川だ。中国人の言葉じゃ『ハイラル』だ、ちくしょうめ。あの川を渡るときは頭を低くしてろ。川沿いの見晴らしがいい場所から向こうに見つかると、撃ってくるぞ。」
ペーチカは腹の奥がひんやりと心地よくなるのを感じた。
「でも行きのときは撃たれなかったじゃないか。」
「行きは気にしないんだよ。一番大事なのは、向こうから何かが出てこないようにすることさ。」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの命令だよ、ちくしょうめ。」
「命令」という言葉をペーチカは理解したので、それ以上は深く聞こうとはしなかった。だが、それも長くは続かなかった。
「こっちに戻るときは、うちの人たちも撃つのかな?」
「そりゃ撃つさ。そりゃ仕方ないね。うちの連中だって容赦ないからな。」
「でも、僕たちは味方だろ?」
「どこが味方なんだ?」とおじいちゃんは笑った。
「俺たちはな、ペーチカ、密輸業者だよ。正真正銘の破壊工作員ってやつさ。」
ペーチカは驚いて黙り込んだ。ラズグリャエフカで樽に潜り込んだとき、そんなことは全く考えもしなかった。
そうなると、自分は荷車で全速力で走りながら頭を隠し、ソ連の国境警備隊から「トカレフ」ピストルや「シュパーギン」短機関銃で撃たれることになるというのか。つまり、自分は破壊工作員、密輸業者、そして「落ちこぼれ」のペーチカ・チジョフ。その頭上には星々が輝いていて、それをおそらくユーラおじさんとヴィーチャおじさんも見ているかもしれない。
二人はソ連の戦車兵で、二人合わせて「勇敢勲章」1つ、「赤星勲章」2つ、「栄光勲章」1つ、そして3つの負傷の経歴がある。
ペーチカは困惑しながら頭を掻き、荷台に寝転がって暗い空を見上げた。暗闇の中、揺れる空を見ているうちに、まるで自分が川を漂っているような気分になった。そして次第に、自分が上を見ているのは空ではなく、自分自身が空を漂いながら見下ろしているように思えた。
そして、なぜだか分からないが、落ちてこない。とっくに荷台から滑り落ち、星がウインクしている深い闇の中へと飛び込むはずだったのに、なぜかまだそのままだった。
「おじいちゃん」とペーチカはもう一度呼びかけ、頭を上げて空を元の場所に戻した。「で、スピリタスはどこに隠すの?」
「見つけるさ」とアルチョム爺さんは声を少し変えて答えた。
「まずは無事に川を渡りきらないとな。隠す場所は後で探そう。だが、いったい何でお前までついてきたんだ?」
「鉱山のところに隠すのはどう?」ペーチカは提案した。「あそこにはほとんど誰も来ないし、周りは全部有刺鉄線だ。」
「そこはだめだ。」
ペーチカはおじいちゃんが理由を説明してくれるのを待ったが、答えはなかった。
「なんで?」ととうとう彼は聞いた。
「なんでって何がだ?」
「どうして鉱山はだめなの?」
「お前なぁ、だめだと言ったらだめなんだよ!悪い場所だ。」
「どうして悪いの?」ペーチカはさらに食い下がった。
「今すぐ荷車から突き落としてやる!そしたら分かるだろう!」
「でも僕、いつもそこで遊んでるよ。」
「ばかだな。」アルチョム爺さんは少しの間黙り込んだ。
「そこで遊ぶんじゃない。それに特にあのヴァレルカには、絶対そこで走り回るなって言っとけ。あそこはだめだ。穢れている。」
「穢れてるってどういうこと?」ペーチカは四つん這いになり、おじいちゃんのそばに這い寄った。
「前に一度、あそこで隠したことがある。」
「それでどうなったの?」
「どうもこうもないさ。ラズグリャエフカの半分がほとんど死にかけた。残った酒は全部捨てるしかなかった。」
「いつのこと?」
「いつって去年の夏だよ。お前が2日間も草原中を探されてたときだ。あの『くそったれ』な防空壕に潜り込んでた時な。やっと掘り出したんだぞ。」
ペーチカは眉をひそめて黙り込んだ。しかしアルチョム爺さんは話を続けた。
「鉱山なんか開けるべきじゃなかったんだ。昔、この辺にはブリヤート族が住んでたけど、あいつらもほとんどあそこには近づかなかった。いや、もしかしたらブリヤート族じゃなかったのかもしれん。全部混ざっててよく分からんが、シャーマンがいたのは確かだ。それで、シャーマンの嫁が妊娠すると、すぐにあそこへ送られたんだよ。出産するまで別の小屋で過ごさせられてな。で、生まれるのは奇形ばかりだった。指が7本あるとか、目がないとか。」
「目がないってどういうこと?」
ペーチカの背筋に寒気が走った。
「そのまんまだよ!目がない。まるで顔を布で拭き取ったみたいにツルツルなんだ」
「おじいちゃん、自分で見たの?」
「見たさ。一度だけだけどな。お前と同じくらいの歳だった時だ」
「それで、なんで?」
「なんでって何が?」
「なんであそこで赤ちゃんを産んだの?」
「いやー、お前な!あのシャーマンたちは、自分たちのやり方があるんだよ。天気を予測したり、死者と話したりするには、ああいう奇形が必要だったんだ。普通のブリヤート人じゃ死者と話すなんて無理だろう。でもな、ひょっとしたらブリヤートじゃなかったのかもしれん。トゥングースとかそういう連中だったのかもな。もうずいぶん前にここからいなくなったんだ。ラズグリャエフカはそいつらが去った後にできた村さ」
「どこに行っちゃったの?」
「そんなの俺が知るわけないだろう!どっか行っちまったんだよ」
アルチョム爺さんは少し黙り込んだあと、何かを思い出すようにまた話し始めた。
「墓地だけは残ったな」
「どこに?」
「ほら、あそこだ。鉱山のそばだ。あいつら、亡くなった仲間をそこに運んでたんだよ。でも墓を作ることはなかった。ただそのまま置いてたんだ。今じゃもう何も残っちゃいないだろうな」
「それ、墓地って言えるの?」
「だから言ってるだろ。悪い場所なんだよ」
「あそこでは遊ぶな」
アルグン川を一発の銃声もなく渡りきったあと、ロシア側では激しい銃撃を浴びせられた。音からして、機関銃まで使っているのが分かった。アルチョム爺さんは慣れた手つきで荷車から瓶を引きずり下ろし、それを体で守るように地面に伏せた。ペーチカもその隣に倒れ込み、空高く飛んでいく弾丸の音を聞いていた。
「狙いはつけてないぞ!狙いはつけてない!」
ペーチカは爺さんに叫んだ。
だがアルチョム爺さんは耳を貸さず、大事そうに瓶を抱えながら目を閉じ、全力で歌い始めた。
「婿が義母にキャベツを運び、若い嫁を手綱につなぐ」