著者と翻訳者の共同作業
「ブリタニカ百科事典」は、244年の印刷の歴史に終止符を打ち、これからは、オンライン上でのみ更新してゆくと、2012年3月14日のニューヨーク・タイムズ紙が伝えている。
筆記具が鉛筆やタイプライターから、キーボードに変わり、ネットへ常時接続していれば、いまさら重い辞典をひもとく気にはならないだろう。
無料の百科事典「ウィキペディア」の英語版は、11年間で400万項目近くまで増えて、専門家からも、おおむね正確だと一応の評価を得ているという。
嬉しいことに、わが国の推理小説の発展に大きく寄与した江戸川乱歩は、このネット事典の英語版にも掲載されている。そして、短篇集の英訳は、早くも1956年に出版されたことが記されている。
序文を読んで驚くのは、なんと翻訳者は、日本語がまったく読めないと告白していることである。翻訳者は、父が英国人、母が日本人であり、教育はすべて英語で受けたと記している。だから、日本語は読めないが、会話は流暢だという。
一方、乱歩は、会話はできないが、英文を読んで理解することはできる。早稲田大学を卒業して、貿易会社にしばらく勤めているので、このとき英文の読解力を身につけたのではないか。
こうして、著者と英訳者は、週に1回会って翻訳の共同作業を5年にわたって続けたと記している。著者が一文を何度か声に出して読み、その意味とニュアンスを丁寧に説明する。英訳者はタイプライターを前に、著者の満足のゆくまで何度でも文章を推敲する。
日本語がぜんぜん読めないにもかかわらず、英訳に挑戦しようとした翻訳者の度胸にも呆れてしまうが、著者の懐の深い度量にも感じ入ってしまった。
おそらく、海外の作品に引けを取らないだけの独創性があると、乱歩は自負心を抱いていたのではあるまいか。
はたして、2人の血と涙と汗の結晶は、豊かな実を結んだのか。大成功といってもいいだろう。「人間椅子」の英訳を
10ページほど読んだ筆者の偏見かもしれないが。
一字一句にこだわるより、楽しく読めるような作品になることを、著者は望んだに違いない。だから、英訳者は、原文から少し逸れることがあっても、文章の自然な流れを心がけたと考えられる。
また、原文をそのまま訳しただけでは何のことか分からない箇所は、説明や描写を詳しくする必要があるだろう。
何よりも大事なのは、読者が翻訳臭を感じることのない簡潔明快な文章を生み出すことである。
乱歩の自叙伝「探偵小説四十年」によると、この英訳者はジェイムズ・ハリス。自身でも推理小説を英語で書き、翻訳してもらって日本の雑誌に発表していた。後ほど旺文社から高給で迎えられ、稿料の安い小説家から足を洗っている。
乱歩は英語を読みこなすことは出来たが、書くことは苦手だったようで、英文の手紙を書くとき、ジェイムズに手伝ってもらっていたが、その量が減ってきたので、短篇小説の翻訳を頼んだという。
翻訳者も自ら、小説を書いていたのが幸いしたのか、現在でも、この翻訳に対する読者の評価はかなり高いといってもいいだろう。