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マルコ・ベロッキオ - エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命(2023) Rapito

エドガルド・モルターラ誘拐事件の一部始終を映画化したマルコ・ベロッキオ監督長編26作目。2023年カンヌ国際映画祭コンペ部門選出作品。

モルターラ家で使用人として働いていたクリスチャンである女性が、病気になったエドガルドが、受洗しないまま死んだら辺獄(リンボ)に行くという忠告のもとユダヤ人一家の両親に内緒で洗礼を行ったことに端を発し、1858年、キリスト教の権威のもとに両親のもとから強制的に離された(誘拐されて)という事件があったらしい(まったく知らなかった)。慈悲のもとに生かされている(とキリスト教の権威では考えられる)ユダヤ人が洗礼を受けたのにユダヤ人のコミュニティのなかで育てられるのはありえず、神の家のような学校でキリストの教義を教え込まれ、次第に改宗していくという話の流れだけれど、結末はもちろん残酷であり、宗教の名の下、両親のもとから離されてしまった彼がそれでも学校のなかに友達を見つけ、(おそらく)教皇にかなり寵愛されて少年時代を生き延びたことをだれも批判できないし、他者から勝手にそれは不幸せだったとは決めつけがたく、それでも両親からしたらこれは「不幸せ」なことであって、と両義的な見方ができる事件だとおもう。そして、似たような言葉を唱える(アーメンなど)ことで近しくも相容れない宗教の複雑さ、困難さを、クロスカッティングすることで巧妙に示唆してくれるベロッキオ監督の思いも、かなり複雑なのか?と想像した。なぜ、子を思う親の気持ちは同じなのに(神としての子、産みの親としての子という意味で)なぜここまで傷つけあってしまうのだろう、、、とか。相互理解の不可能性を突きつけられたようにおもう。それに加えて、エドガルドの少年期を描いた部分では、彼が宗教に近づいていくときの幻想を地に足ついたファンタジーとして落とし込む技はさすがだなと思わされた(エドガルドがキリストの手や足にささった釘を抜いてあげると、突然キリストが動き出し、どこかへ行ってしまう。それに子どもにとっての10年は長く、順応のもと生きながられることの素晴らしさと怖さを物語っている)。

ただ、イタリア統一戦争や、ローマ教皇領がフランスの保護下にあったこと、なぜ保護していたフランス軍が教皇領からいなくなったのか、など歴史やキリストとユダヤのイタリア内での関係を後追いして調べてようやく理解が追いついたという感じだった。歴史的状況や、ロスチャイルド家を含むユダヤ教コミュニティの強固なつながりなど、もうすこしスケールを大きく描いてほしかった気がする。


1858年、ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、何者かに洗礼を受けたとされる7歳になる息子エドガルドを連れ去りに来たのだ。取り乱したエドガルドの両親は、息子を取り戻すためにあらゆる手を尽くす。世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、モルターラ夫妻の闘いは急速に政治的な局面を迎える。しかし、教会とローマ教皇は、ますます揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に決して応じようとしなかった…。

2023/イタリア、フランス、ドイツ/125分/アメリカンビスタ(1.85:1)/カラー

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