いつも居てくれる人(3)|沖縄の友人
いつも居てくれる人について書いています。今回は、沖縄の友人についてです。生命の恩人です。
出会い
大学院博士課程在学中にフィリピンに留学していて、知り合いました。わたしとこの友人は、ともにビサヤ語圏で調査しており、ビサヤ語をしゃべります。現地滞在中、日本語ではなく英語とビサヤ語でしゃべることが多かったです。
「はじめてジャパンに行ったとき」と友人が表現したときに、友人が沖縄出身であることを大事に思っていることを知りました。ジャパンは、いろいろと沖縄(琉球)を犠牲にして成り立っている国なのです。
それぞれの暮らし
沖縄の友人には配偶者があり、わたしもフィリピン人の夫がいて、それぞれの家族ぐるみでつきあいました。わたしたちには娘が生まれ、赤ちゃんの娘を最初の頃に抱いてくれたのも友人ですし、夫が亡くなったときも寄り添ってくれました。
友人は京大に、わたしは東大に職を得て、友人のほうは世界中を回りながら仕事をし、わたしのほうはフィリピンと米国の決まった場所で仕事をしていました。友人は外向的、わたしは内向的。かつ、わたしはASDと精神疾患があり、動けず。
生命を助けてもらう
複雑性PTSDなど疾患があり、ハラスメントをきっかけに、わたしは自殺企図をはかりました。過剰服薬と縊首です。だいぶあぶなかった。意識がなくなっていくなか、わたしは友人に何をしてしまったか告げるメールを打っていました。
目が醒めると、「もし動けるようだったら沖縄にきて」とメッセージがあり、那覇行きの航空券が送られてきていました。ふらふらでしたが、那覇に飛び、それから3週間、友人の選んでくれたホテルで療養し、呼吸を取り戻していきました。
療養中、友人のお母様(作家)が蔵書を選んで貸してくださったり、手料理をご馳走してくださったり、温かく見守っていただき、ほんとうに助かりました。「食べたらなんとかなる」というお母様の言葉をいまも大事にしています。
いまの関係
メンタルが落ち込んで苦しかったり、空間認知がわるすぎて迷子になったり、困ったときに気楽にメールできるのが、この友人です。必ずしもすぐにレスがないのも気楽です。友人には友人の都合があるので、時間のあるときにレスをくれます。
わたしの産業医ともつながっており、万一、わたしがまた自殺企図するようなことがあったら、連絡がとれるようになっています。友人に負担がかかりすぎないように、わたしなりに気をつかっているつもりです。
お互いの出張のときなどに、東京や那覇で会うこともあります。でも、わたしにとっては、この友人がこの世に存在してくれているというだけで、はかりしれない安心感をおぼえます。お互いの人生のなりゆきをしっているのは、いいですね。
むすびに
亡くなった夫をわたしは愛しています。家族です。でも、家族とはまた異なる、たましいの友人というのはいるのだなあ、と思うと、神さまに感謝せずにはいられません。友愛にめぐまれていることの奇跡に感謝しています。ありがとう。