お経を聞きながら考えること
祖父の三回忌だった。
実家に親族が集まり、お坊さんを呼んで、法要を行った。
一回忌のときに拝んでもらったお坊さんがなんと亡くなったそうで、その息子さんであるお坊さんがいらっしゃった。
まだ30代と思しき若いお坊さんがお経を唱える。
久しぶりに聞く、抑揚のない重低音。意味をなさない謎の文字列。
まだ新米だからか、その響きはどこかぎこちなくて。がんばって、とつい応援したくなる。
そんなお経を20分ほど聞きながら、ふつふつと疑問が沸く。
この時間には、いったい何の意味があるんだろう?
重低音に響く謎の文字列を聞く時間は、果たして必要なのか?
と。
周りを見ると、大学生のいとこは数珠で遊んでいるし、 叔父さんは仕事疲れでうとうとしている。神妙な顔を作っている叔母さん達も、内心では正座に痺れる足が気になってしょうがない様子。
信心深く手を合わせているのは、祖母だけだ。
遠方からわざわざ集まって、お経を聞くこの苦痛な時間をやり過ごすくらいなら、親戚同士で祖父の思い出話に花を咲かせたほうが、よっぽど有意義じゃないか?
祖父はそこまで信心深かったわけではないし、少なくない額のお金をお坊さんに渡してまで、この意味不明な文字列を仏壇の前で唱えてもらう必要はあるのだろうか?
それが決まりだから、という惰性の慣習で続いている、無駄でしかない行為に思えてくる。一生懸命お経を唱える新米お坊さんには申し訳ないけれど。
だってね、自分の死後、同じように親族にお経を唱えてもらいたいか?と考えると、答えは断然NOだもの。
未来ある自分の子供や孫たちのこと(果たしてできるのかは置いといて)に思いをはせると、有限な人生の時間とお金をお経を聞くことなんぞで無駄にして欲しくないし、もっと有効的な使い方をしてほしい、と心から思う。
私と同じミレニアム世代の若者は、割と同じ考え方なんじゃないかなあ。核家族の都会っ子なんて、特に。
そう考えると、私が死ぬ頃には、お葬式や法事やお墓のあり方ってがらっと変わってる気がする。それこそ、リクルートとかが効率的な葬祭サービスのプラットホームを作っていたりして。
まあでも、私がまだ25才で結婚もしてない子供もいない身だからそう思うだけであって、老いていくと考え方も変わるものなのかなあ。
それに、たまには自分のことを思い出してほしいとは思うから、定期的に親族が集まって故人を悼む機会はあってほしいし、必要だよなあ。
それにこうゆう法事って、人の死について考えたり、家族や親戚が集まる場としての意味もある。
なんだかんだで、仏教は日本人の生活に深く根付いてているものだから、そのしきたりが変わることってそんな簡単じゃないだろうし、もしも無くなったとしたら、それを収入源とするお坊さんやお寺は困っちゃうよなあ。
とかつらつら考えたのでした。
小さい頃は、お経の時間が長すぎて暇すぎて、ひたすらお経覚えてたなあ。だから真言宗のおかんきは、今でもそらで唱えちゃう。
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