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【番外編】ミュンヘンでビールを飲みながら

 今年のはじめ、上海に行き久しぶりに外灘わいたん(The Bund)を訪ねた。この辺りは、19世紀末から20世紀初めに外国の租界となり、海外資本の建物が立ち並んだ地域である。今でも当時の外観のまま洒落たホテルやレストラン、オフィスなどに使われていて、不思議な異国感漂う界隈となっている。黄浦江こうほこう(Huangpu River)対岸の浦東ほとう新区(Pudong New Area)に見える近代的な高層建物群との対比はフォトスポットとして格好で、多くの人がスマホやカメラを浦東や外灘の建物に向けている。そんな建物群の中に外灘24号と呼ばれる建物がある。外壁には、中国工商銀行の文字が浮かぶ。この建物が建てられたのは、今から100年前の1924年(大正13年)で、当時の名称は横濱正金銀行大樓。横浜正金銀行の上海支店だった。租界時代には、上海の街を欧米列強や日本の軍関係者、ビジネスマンたちが闊歩し、その中には特務機関に所属する人間もいた。各国の思惑が入り乱れた上海は、秘密めいた怪しい魅力に満ちた街となり「魔都」とも呼ばれていたのである。

左の建物が旧横浜正金銀行上海支店(現中国工商銀行)

 横浜正金銀行は、少し変わった銀行だった。明治になって日本と欧米との貿易も活発になったが、金や銀の裏付けを前提にした為替ステムの中で、日本企業は不利なビジネスを強いられていた。そのような状況を打開するために日本の為替銀行設立が急務となり、国策に沿って横浜正金銀行が出来たのである。1880年(明治13年)のことである。横浜正金銀行は、日本銀行と一体となって日本の経済発展を目指す金融機関と位置付けられていて、土方晉ひじかたすすむは『横浜正金銀行』のなかで両行の密接な関係を、

 「政府は両行をして同心協力、内外相応じて国家経済の発達進歩に貢献させる趣旨で、正金銀行条例に特に日銀副総裁の正金銀行頭取または正金頭取の日銀理事兼務の条項が制定された。よって同(明治)二十一年九月、両行は協約を締結し、『共ニ政府ノ御旨意ヲ遵奉シ互ニ其業務ヲ区画シ協心戮力以テ国家経済ノ進歩ヲ謀ル』ことを契約した。」

 と記している。海外支店の開設は、設立初期の頃は欧米、その後は日本の軍事的影響力の拡大とともに中国、東南アジアへの展開が続いていった。上海出張所ができたのは1893年(明治26年)のことで、1900年(明治33年)には支店に昇格している。日本資本の銀行としては最初に上海に進出した銀行だった。1940年(昭和15年)発行の『上海に於ける邦商組合事情』に表記された邦銀グループ水曜會八行の序列は、横浜正金銀行上海支店、台灣銀行上海支店、住友銀行上海支店、三井銀行上海支店、三菱銀行上海支店、朝鮮銀行上海支店、上海銀行、漢口銀行上海支店と並んでいて、日本銀行と並ぶ格付けの横浜正金銀行がトップに置かれている。

横浜正金銀行の強大な店舗網

 1922年(大正11年)から1940(昭和15年)年にわたって、横浜正金銀行勤務の父に伴われて、ロンドン、上海、東京、横浜、大連などに滞在した経験を持つ八木和子が『ある正金銀行員家族の記憶』という本を書いている。和子の父は、1925年(大正14年)に上海支店支配人代理の辞令を受け、その年の11月に上海に赴任しているので、前の年に出来たまだ新しい横浜正金銀行上海支店で仕事をしていたことになる。新たな赴任地、新たな建物、しかも高い職位についたのだから張り切っていただろうが、当時の上海では反帝国主義運動が起こり、治外法権が認められていた租界に対する中国人の反発も強かった。1925年の5月にはデモに対する租界警察の発砲事件も起き、和子の父は政治的にも軍事的にも不安定な状態の中で仕事をしていたはずである。

 神戸から上海への船上で、和子の父に上海航路慣れしている客が声をかける。

 「大都会ですよ。ロンドンやニューヨークは知らないが、日本のどの町より大都会だね。外国の租界があってね。各国が軍隊で自国民を守っているんですよ。日本租界も日本陸軍が日本人居住者を守っています。今のところは平和だけれど、ちょっと危険な都会です。」

 まだ小学校低学年の和子も、銃声を聞き中国人が怪我をしたり、道路にできた鉄の門で軍人が通行人を取り調べたりする姿を見たことがあったという。異常な雰囲気の上海で、父の仕事場であった横濱正金銀行大樓、つまり私が見た中国工商銀行の建物が、幼い和子の記憶にも深く刻み込まれたことは間違いない。

 今から、おおよそ100年前の出来事だが、それが大きな戦争につがっていく前触れだった。海外生活、租界地域の緊迫感、戦争の拡大と終結、過酷な国際関係の中でも和子たち家族の暮らしは続いていった。悲しいことだけでなく、微笑ましいこともあるのだが、戦争という大きな波にかき消されてしまう。そんな歴史の中でも、横浜正金銀行上海支店の建物は中国工商銀行として残った。河岸に立って街並みを眺め、この街並みが、そしてこの建物が激動の歴史を紡いできたのだと考えると、胸に迫ってくるものがある。 

 上海から帰って、神奈川県立歴史博物館を見るために横浜へ行った。1904年(明治37年)に、横浜正金銀行本店として作られた建物なのである。道路の角にある中央入口の上に大きなドームがあって、左右壁面には装飾のある石柱や窓が連なっている。彫りの深い堂々とした建物である。和子は、父が大学卒業を前にして横浜正金銀行への就職を望み、大学4年生の夏に横浜にある本店を見に行ったことも書いている。その頃、横浜正金銀行は、香港上海銀行、チャータード銀行と並んで世界三大為替銀行となっていたので、海外で仕事をしたい若者にとっては憧れの銀行だった。前掲書には、

 「その日の一番の目的は明治三十七年(一九〇四)八月八日に百十万円の巨費を投じて落成された銀行の建物を見ることで、前もって設計者の工学博士、妻木頼黄つまきよりなかについても調べていた。妻木はアメリカとドイツで勉強したエンジニアで、正金銀行本店の建築スタイルは、ドイツルネサンス様式とネオバロック様式を合わせたもので、いかにも明治建築界の巨匠の一人、妻木の代表作にふさわしい建物だった。(略)当時、正金の建物の周囲は低い民間の家屋ばかりだった。だから、完成十年目の堂々たるドームの聳える四階建てを目にした時は、本当に感激して惚れ込んでしまった。」

 和子の父が横浜正金銀行本店を見た約10年後の1923年(大正12年)、関東大震災でこの建物も大きな被害にあった。大震災から100年目の2023年に神奈川県立歴史博物館で行われた特別展に合わせ、朝日新聞(2023年7月26日付)は大震災時の横浜正金銀行の様子を、

 「地震の揺れによる倒壊は免れたものの、内部に火が入り、1階から3階までの室内をほとんど焼失した。ドームも灼熱の炎で銅板が溶け、骨材とわずかな銅板を残すだけに。馬車道一帯は火災で多くの焼死者が出たが、本店の地下室に避難した行員約100人、雇い人約40人、避難民約200人の合計340人は難を逃れた。」

 と伝えている。ドームは破壊されたが、銀行の頑丈な地下室には多くの人が避難をして命を救われた。朝日新聞の記事は、この建物を大震災の「生き証人」として位置付けていた。その後、建物は修復されたが壊れたドームは再建されなかった。それでも、横浜正金銀行はその役割を果たしてゆき、1945年(昭和20年)5月の横浜大空襲の中を生き延びて、終戦を迎えた。軍事資金調達に関与したという理由から、GHQによって閉鎖機関に指定された横浜正金銀行は1946年(昭和21年)に解散し、為替銀行としての機能は新設された東京銀行に引き継がれた。旧本店は東京銀行横浜支店として37年間使用されたが、その東京銀行も今はない。1964年(昭和39年)に、土地・建物が神奈川県に売却され、1967年(昭和42年)に神奈川県がドームを復活させた。妻木頼黄が設計した横浜正金銀行本店の姿に戻ったのである。しかし、館内にある当初建物の模型では屋上に装飾的な手摺子を持つ欄干がついているのだが、復活した建物では単なる立ち上がり壁になっていて手摺子はない。欄干の間から空がリズミカルに見えていれば、スカイラインがもう少し軽やかにかつ装飾的になっていたと思う。完全な元通りのスタイルを見たかったと考えるのは私だけではないだろう。それでも、改修・増築されて神奈川県立歴史博物館として建物は残った。この建物も、地震や空襲そして時代の激変を経て、多くの人の喜びや悲しみを染み込ませながら歴史を紡いできたのである。

旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)


横浜正金銀行本店の模型(屋上の欄干に手摺子があった)

 
 東京の官庁集中計画に携わり、官庁営善の基礎を作った妻木頼黄は辰野金吾、片山東熊と並んで明治の建築三大巨匠と言われた人で、横浜正金銀行本店の他にも多くの著名な建物を設計している。現存しているものでは同じ横浜の旧横浜新港埠頭倉庫(横浜赤レンガ倉庫)、旧丸三麦酒醸造工場(半田赤レンガ建物)、旧大蔵省醸造試験所、旧山口県庁舎など、現存していないものでは東京府庁舎、東京商工会議所、日本赤十字社などがある。国会議事堂の設計をめぐって辰野金吾と激しく争ったこともよく知られている。妻木の設計した建物の中でも特にユニークなものは、広島の臨時仮議事堂だろう。1894年(明治27年)8月、日本は清に宣戦布告し、日清戦争が始まった。この時、広島港が最前線の軍港となったことから広島に大本営が置かれたのである。明治天皇や政府高官も広島に移ったことから、広島は臨時首都の様相を呈していた。その年の10月18日から7日間、軍事予算を組むための第7回帝国議会が広島で行われることになり、そのために臨時仮議事堂が必要となったのである。設計者となる妻木に広島出張の指示があったのが9月22日。木内昇の『剛心』によれば、この時点では仮議事堂建設の話は妻木に伝えられていない。乗り換えのために途中下車した静岡で新聞記事を見て、10月15日に広島で帝国議会が招集されることを知った妻木は、出張の目的を直感したのである。軍用列車優先の事情から、妻木や部下たちが広島入りしたのが9月25日未明。その日に大本営で臨時仮議事堂建設の話を正式に聞いたのである。静岡で出張目的を察知していた妻木は、広島への移動の車中や宿泊先で設計図面を作成していたので、翌26日には設計書と見積もりを大本営に提出することができた。予算認可が降りた9月30日には着工して、10月14日に竣工。15日から議場で、議会招集、議長選出等の帝国議会開催の諸手続きが行われた。木造平家とはいえ約3,000㎡の建物を設計・積算から施工まで、おおよそ20日で仕上げたことになる。短期施工・短期利用が前提となり、広島の職人よる施工や資材調達などを勘案した合理的な設計だったという。基礎はなく、逓信省へ納入予定の電信柱の使用や妻木が学んだドイツ仕込みのトラス工法と職人が慣れ親しんだ小屋組の併用、同一部材の使用、シンプルな小口とボルト締の採用、内部足場を使わない天井工事、陣幕による内装など設計段階からありとあらゆる方法が考えられた。設計者が施工の隅々まで合理性を追求して調整していくという凄技だった。昔の建築家はすさまじい。日本建築学会の『妻木頼黄の都市と建築』によれば、妻木はある講演会で臨時仮議事堂について、

 「堀立造りでありますが(略)私の見込みでは三四年は此儘で保つだらうと思ひます。併しながら大体一週間長くて二週間の積りでありましたから十分な構造のものではありませぬ。」

 と話している。妻木の言った通り、臨時議会が終了したあとは軍関係の施設に転用されつつ4年後には解体された。今は、建物を見ることはできないが、広島県庁の東側には「臨時帝国議会仮議事堂跡」というプレートが設置されていて、東京以外の場所で帝国議会が開催されたことを教えてくれる。戦時下の政府発注の工事とはいえ、妻木の設計能力とプロジェクトマネジメント能力の高さは素晴らしいものだったのである。『剛心』には、職人たちとの間で激しい意見のぶつかり合いがあったことも書かれているが、最後に妻木が建築予算の中から、職人に金一封を渡すというエピソードも紹介されている。妻木は、

 「建築の善し悪しもわからん政府に金を戻すくらいなら、頑張ってくれた職人たちに配ったほうが生き金になるからね。」

 と言ったと書かれている。事実なのか創作なのかわからないが、2週間という短期間で議事堂を作り上げた職人たちの気持ちを心底ありがたいと思った妻木にとって、このエピソードはさもありなんということだろう。また、神代雄一郎の『近代建築の黎明』によれば、

 「(妻木)先生は建築家中まれにみる法律、財政、経済の通人と申すべく建築の政治家として通っていた。建築士報酬規定案、建築法令案の作成、建築学会事務所の設置などには学会創立者中もっとも尽力された方で、建築学会はもちろん、工学会、工主学校などその会計は常に先生を煩わし、今日の揺るぎない基礎を固められたものだ。」

 という話を紹介していて、妻木の並外れたオールラウンドプレーヤとしての資質を書き留めている。Mission Impossibleと考えられた広島の臨時仮議事堂の成功は、妻木の建築を包含した幅広い知識と統括力によるものだったのである。この仕事は、妻木だけでなく広島の施工関係者や職人、資材調達に関与した人たちに強い感動を与えたはずである。建物は残っていないが、彼らの記憶にはしっかりと刻まれた建物で、やはり歴史を紡いだのである。

臨時帝国議会仮議事堂跡の碑(再開発される建物敷地にあるので移設されるのだろうか)


 今、ミュンヘンでビールを飲みながらフランクフルトソーセージを食べ、横浜正金銀行や妻木のことを考えている。ミュンヘンとは言っても、ドイツにいるのではなく、神戸にあるニューミュンヘンというビアホールである。妻木は、1905年(明治38年)、日本で初めてビアホールと名付けられた銀座の建物の内装設計も手掛けている。『大日本麥酒株式會社三十年史』には、

 「當時烏森の方から、新橋を渡って銀座街に入ると、左には博品館という勸工場があり、右角には明治初年の建築にかゝる二階建ての煉瓦造りがあった。家主は安田銀行で下では果實商を營んでゐた。日本麥酒會社では其二階三十五坪を借受、こゝにコップ賣場を設けたのである。麥酒の賣場は工學博士の妻木賴黄氏に賴んで奇抜な設計にしてもらった。入口の向かって左側にバーを設け、これにニッケルスタンドをつけ、後方を飾り棚とし、床はリノリューム張り、椅子やテーブルは麥酒樽にもちいる樽材、酒器は硝子製の手付一リーター入りおよび半󠄁リーター入りで、當時としては隨分こったものであった。」

 とあって、妻木に設計の指名がかかったことが窺える。『ビールと日本人 明治・大正・昭和ビール普及史』によれば、その頃の日本では,

 「英国ビールは濃くして苦味十分に含み、独逸ビールは淡くして呑口さらさらと好し。」

 とされて、ドイツビールが舶来の主流になっていき、日本のビールメーカーもドイツ風の国内ビール製造に傾いていったと書かれている。妻木は建築家2名と職人17名を引き連れ、総勢20名でドイツへ渡り、ベルリンでエンデ&ベックマン事務所の指導を受けながら、日本の議事堂、司法省、裁判所などの設計図作成や施工技術習得にあたっているから、当然本場ドイツのビールを飲み、ソーセージやハムも食べたはずである。エンデを通じて、ドイツの醸造工場の建築にも触れることがあったのだと思う。妻木は、ドイツでビール好きになったと言われているので、ベルリンで過ごした1886年(明治19年)からの約3年間には、ミュンヘンで行われるビールの祭典「オクトーバーフェスト」に行ったと考えても不思議はない。妻木と時を同じくして、衛生学研究のためにドイツに派遣されていたのが森鴎外である。ミュンヘンなどいくつかの街を巡った後、鴎外がベルリンに滞在したのは1887年4月から1888年7月なので、妻木のベルリン滞在と重なっている。妻木の名前は、鴎外の「独逸日記」にもわずかとはいえ登場している。衛生という観点から日本の家屋や都市のあり方を研究していた鴎外だから、建築や都市に関しては妻木と通じあうものがあったのではないだろうか。想像の域を出ないとはいえ、ドイツで社交家ぶりを発揮していた大のビール好き鴎外が妻木をベルリンのビアホールに誘ったことは十分考えられる。先にあげた半田丸三麦酒工場や醸造関連施設、ビアホールの設計を手掛けたのは、妻木のドイツでのビール体験が影響していると考えても、あながち間違いではないだろう。言い換えれば、妻木はドイツの建築技術だけではなく、ビールというドイツ文化の紹介にも一役買ったのである。


 妻木が広島に臨時仮議事堂を作ってから約20年が経過した1915年(大正4年)には、第一次世界大戦で中国の青島で俘虜になって収容されたドイツ人たちが広島にいた。彼らは、俘虜収容中も広島高等師範(現広島大学)や中学校チームとサッカーの試合をしたり、ドイツの物産展示会を開いたりして地域の人たちと交流をしていた。この物産展示会では、俘虜たちがそれぞれの専門に応じて、手芸品や家具、ハム、ソーセージ、菓子を作って展示即売をしたのである。そんな俘虜の一人、カール・ユーハイムが作ったのが自慢のバウムクーヘンだった。『ユーハイム物語』には、

 「ユーハイムさんの作ったバウムクーヘンとサンドケーキは、作っていく片端から飛ぶように売れていった。」

 と書かれていて、大好評だったという。この時の経験が、1920年(大正9年)に俘虜釈放後日本で菓子作りをする決心をさせ、本国にいる妻子を日本に呼び寄せることになったのである。同書には、明治屋がユーハイムを雇ったことも書かれている。

 「当時明治屋は、朝鮮京城にまで支店を持っていたが、東京支店のほかに新しく洋風喫茶を銀座に持つ計画を建て、その製菓部の主任に三年契約でユーハイムさんを採用しようというのであった。同じ俘虜仲間であったフロインドリーブさんが愛知県半田町の『敷島パン』の主任技師に迎えられたのも、同じ時期だった。」

 今では、ユーハイムもフロンイドリーブも神戸には欠かせないドイツのお菓子屋さんであり、パン屋さんである。この他にも、各地に収容されていた多くのドイツ人たちがソーセージやハム製造、ドイツ料理などの世界で、その地位を揺るぎないものにしていった。ビールも、バウムクーヘンも、パンも、そして横浜の博物館も100年を超えて日本に馴染んでドイツの香りを伝えたのである。大きな建物だけでなく、身近な飲み物や食べ物もそれぞれに歴史を乗り越えてきたのだとあらためて思った。このニューミュンヘンの建物も阪神淡路大震災で倒壊し、多くの利用者の声に応えて2年後には再建された。ドイツビールのルールに基づいて作られているこの店のクラフトビールのグラスには、大震災の時刻5:46を表示した時計塔があしらわれている。神戸の風景に馴染んでいたその時計塔は倒壊してしまったのだが、今ではビールグラスにその姿をとどめている。ここにも歴史が紡がれているのだと思うと、ドイツに拘ったクラフトビールが一層味わい深くなってくる。

ビールグラスの時計塔と大きなフランクフルトソーセージ


 日本交通公社の『観光文化210号』で、明治初期に欧米21ヵ国を訪問した岩倉使節団が、植民地からの豊富な資源や産業革命を通じた長い歴史を持つ英仏のような国は、容易に真似できるものではなく、日本とドイツとの類似性に着目をしたことを、久米邦貞は次のように書いている。

 「ドイツでは、海外の植民地にも乏しいこの国が、専ら国内のわずかな資源と勤勉な国民の努力のみによって急速な発展を成し遂げ、他の欧州諸国に追いつきつつある様を自らの目で見聞して、この国をより身近に感じ、この国こそ日本がモデルとすべき国であると考えるようになったといわれる。」

 そして、同書で川口マーン恵美は、使節団に対してビスマルク宰相が、

 「全ての国は礼儀正しく友好的に交わるが、それは外見だけ。本当はどの政府も違うことを考えている。強い国は常に弱い国に圧力をかけ、小さな国は大きな国にさげすまれる。プロイセンは長い間、弱小で哀れな状況にいた。今の日本は、まさに数年前のプロイセンだ。我々は、権利の保持と自己保存に努めねばならない。同じ状況にいる我々両国は、特別友好的に交わるべきである」

 と挨拶したことを紹介している。ビスマルクの挨拶は、使節団の胸に響き、その後の日本の対外方針に大きな影響を与えたのである。日本政府がドイツの建築家に日本の官庁集中計画を立案させ、妻木たちをドイツに派遣した原点は、このあたりにあったのだろう。


 『剛心』に書かれている妻木頼黄と辰野金吾の国会議事堂の設計をめぐる争いはなかなか興味深いのだが、2人とも紆余曲折を経て始まった国会議事堂の設計作業を待たずに亡くなってしまう。特に妻木は1916年(大正5年)に58歳で亡くなり、その翌年から国会議事堂の設計の動きが本格化したというから、さぞかし心残りであったに違いない。病に倒れたとはいえ、妻木自身もそのような若さで亡くなるとは思わなかっただろう。今更ではあるが、人生いつ何が起こるかわからないのである。妻木も辰野も誇るべき実績を世に残した偉人であるが、私のような凡人はいつ何が起きても心残りがないように、ミュンヘンのビールをもう一杯飲んでおくことくらいが関の山である。お土産には、ドイツに因んでユーハイムのバウムクーヘンかフロッケンザーネトルテと、少し歩くが久しぶりにフロインドリーブでハードトーストでも買おうか。いやいやすぐ近くのケーニヒスクローネのクローネという手もある。それとも、トアロードまで行ってデリカテッセンのソーセージサンド? 手頃なモーゼルリースリングワインもあればいいかもしれない。それとも、この話を上海から始めたのだから、中華街の恵記商行で我が家お気に入の焼きそばの麺でも買って帰るとするか。心残りの無いように、美味しいものもたくさん食べておかねばならない。


⚫︎『横浜正金銀行』 土方晉 教育社 1980年・・・土方晉の本書出版時の肩書は、東京銀行貿易投資相談所副参事役となっている。
⚫︎『上海に於ける邦商組合事情』(參考資料第七號) 発行:上海日本商工會議所 1940年
⚫︎『ある正金銀行員の家族の記憶』 八木和子 海の人 2019年
⚫︎『剛心』 木内昇 集英社 2021年・・・妻木はアメリカやドイツで建築の勉強をしているが、欧米一辺倒の都市計画には反発した。そして江戸の美しさを追求したという。
⚫︎『妻木頼黄の都市と建築』 発行:一般社団法人日本建築学会 2014年
⚫︎『近代建築の黎明 明治・大正を建てた人』 神代雄一郎 美術出版 1963年
⚫︎『大日本麥酒株式會社三十年史』 編集:濱田徳太郎 発行:大日本麥酒株式會社 1936年
⚫︎『ビールと日本人 明治・大正・昭和ビール普及史』 編集:麒麟麥酒株式会社社史編纂委員会 発行:麒麟麥酒株式会社 1983年 
⚫︎「独逸日記」 森鴎外 『森鴎外全集13』に掲載 筑摩書房 1996年・・・「明治二十年(1887年)四月二十九日 島田を訪ふ。小倉、妻木、加治等在り。小倉は自ら政治学を修むと称する少年なり。妻木は建築家、加治は画工なり。」の記述がある。森鴎外がベルリンに入ったのが1887年4月16日だから、ベルリンに入って間もなく妻木に会ったことになる。
⚫︎『ユーハイム物語』 発行:株式会社ユーハイム 1964年
⚫︎『観光文化 210号』 発行:財団法人日本交通公社 2011年・・・久米邦貞(ベルリン日独センター総裁 元駐独大使)が「日独関係の変遷をたどって 経験から見える両国の関係」、川口マーン恵美(作家 ドイツ・シュトゥットガルト在住)が「プロイセンが面白い 明治維新を先導する日本人とプロイセン」と題して、岩倉使節団のドイツ訪問のことを書いている。

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