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10. 初明かり円空の仏おだやかに

前号で、下北半島佐井村、長福寺にある円空仏のことを書いた。円空は同じ頃、秋田でも仏を彫った。場所は湯沢である。名物の稲庭うどんを食べたに違いない。

10. 初明かり円空の仏おだやかに

    円空は63歳で亡くなった。生涯で12万体の仏像を彫ったと言われている。仏像を彫り始めたのは30歳のころなので、約30年間仏像を彫ったとして年間4千体。1年に300日間彫ったとすると1日に13〜14体である。人間技とは思えない。小さな仏像があったとしても驚異的である。独特の朗らかな顔と鉈の削り跡が残る一刀彫りのダイナミックさがその特徴で、見る人の心を癒してくれる。円空仏といわれている。

 円空が1665年(寛文5年)に、初めての長旅で向かったのは青森であった。梅原猛は『歓喜する円空』のなかで「親友であり恩人である」人の突然の死が、円空を青森、それも恐山へ向かわせたのではないかと推測している。親友であり恩人の霊を恐山に訪ね、仏像を彫る機会を与えてくれたことに感謝しその霊を慰めるために長い旅に出たのではないかと考えたのである。もちろん、恐山に行ったのは若くして亡くなった母親の霊に会うことが目的だったのだが、梅原はこれに友人であり恩人との再会も加えたのである。同書によれば、弘前から下北、そして北海道へ渡りそのあと津軽から弘前に戻り秋田に行ったというルートとなっているが、他のルート説もあるという。いずれにしても1665年から青森・北海道を回って、弘前に戻ったあと秋田に行ったのは間違いないようである。秋田には12体の円空仏があるが、南の端にある湯沢の愛宕神社にも円空の彫った十一面観音像が残っている。

    湯沢は稲庭うどんで有名な街である。『稲庭うどん物語』には、湯沢村稲庭に住んでいた佐藤市兵衛が地元の小麦粉を使って干しうどんを作ったのが稲庭うどんの始まりであり、1665年には佐藤吉左衛門が稲庭干しうどんの製造を始めたと書かれている。その後、元禄(1688年〜1704年)のころに佐竹藩御用達となってからは、高級品となり一般の人はあまり食べられなくなったらしい。稲庭うどんは日本三大うどんの一つで、特に冷たい稲庭うどんは滑らかな口当たりと喉越しの爽快感がなんとも言えないのである。初めて稲庭うどんを食べたのは30年以上も前であるが、目の前に出された稲庭うどんが水で光り、品の良い美しい艶っぽさを示しながらも、端正で礼儀正しい麺姿に心が惹かれ見とれてしまったのを覚えている。食べる前から美味しいことが分かるのである。お酒を飲んだ後の少し熱った身体に爽やかな朝の音楽が流れるように喉を通っていく。円空が湯沢で仏像を彫ったとしたら、時期的には稲庭うどんを食べることができたはずである。まだ高級品にはなっていなかった時期である。地元の有力者が円空の仏像に感謝の気持ちを込めて、佐藤吉左衛門の稲庭うどんを振る舞ったことは十分考えられる。梅原は『歓喜する円空』に古書から引用して、

 「円空は衣食を求めず、食物を与える人があっても煮たものはもらわず、生で食べるもののみをもらった。」

 と書いているが、うどんであれば人々の感謝の気持ちを受けたのではないだろうか。塩と小麦粉と水だけで作ったうどんは食材としては簡素である。仏像を彫る作業を一段落させて、稲庭うどんを口にしたら疲れも飛んだはずである。湯沢の人の心遣いを受け、そのありがたい美味しさに歓喜したかもしれない。円空が湯沢で稲庭うどんを食べたことは、どの本にも載っていないが、円空仏がある愛宕神社と稲庭はすぐ近くなのである。円空は美濃の生まれで、その周辺には多くの円空仏が残されているのだが、美濃加茂市の広報誌に掲載された特集「廻国・円空―加茂をとおりて―」には、美濃加茂市三和町の洞穴で彫られた馬頭観音像について近隣の方が親から伝え聞いた話が紹介されている。

「円空さんが馬頭観音の仏像を彫ったのは、洞穴に滞在中、おかゆを食べさせていただくなど世話をしてもらったことに対するお礼と、当家の愛馬の霊を弔うためだったようです。」

 円空が「生で食べるもののみをもらった。」とはいえ、やはり心のこもったおかゆは食べたのである。とすると、湯沢の人たちの手になる稲庭うどんを食べたと考えることに無理はない。

 江戸時代の漂白の人といえば菅江真澄もその一人である。円空の後、おおよそ120年経って秋田に入って、半生を秋田で過ごしたという。仏像ではなく、多くの記録を残した。司馬遼太郎の『街道をゆく29 秋田県散歩、飛騨紀行』によれば、

 「だれにたのまれたわけでもなく、領内の山々をくまなく歩いた。歩く・見る・記録する、ということだけが、彼の人生だった。その膨大な文章と挿絵は、かれの死後、秋田のひとたちが大切に保存した。」

 とある。菅江真澄は、膨大な記録のうち「増補雪の出羽路 雄勝郡二」稲庭の郷の項で、

 「佐藤氏五代目の吉左衛門が由理ノ本庄にいたりこれを糾(なら)ひ治て稲庭に帰り、とし月を経るまゝ心に切まかせて索けるほどに、今はたぐふかたなう其名聞こえたり。・・・もとも(原文のまま)小麦は三梨村の土毛にて、此小麦もまた世にまれなる麦といへり、さりければ麦により水により家によりて名品とはなりぬ。諸国にも出羽の仙北雄勝ノ郡の稲庭饂飩と人知れり。」

 と、地元の麦と水を使った稲庭うどんのことを書いている。菅江真澄も食べたのである。

●梅原猛『歓喜する円空』新潮社 2009年
●無名舎出版編『稲庭うどん物語』無名舎出版 2000年
●「廻国・円空―加茂をとおりて―」美濃加茂市『広報みのかも』2006年2月1日号に掲載。
●司馬遼太郎『街道をゆく29 秋田県散歩、飛騨紀行』朝日新聞出版 2009年
●「増補雪の出羽路 雄勝郡二」は、内田武志 宮本常一編『菅江真澄全集 第五巻』未来社 1975年 に菅江真澄の挿絵ともに収録。

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