見出し画像

41. 銀座から築地のみちにみどりさす

高速道路に蓋をして、銀座から築地まで緑道を作る計画があるという。公園のような道、植栽やベンチやアートと一体となった歩きやすい空間になるといい。

41.銀座から築地のみちにみどりさす

 東京で初めて思い出ベンチが募集されたのは2003年である。日比谷公園に100基、井の頭公園に100基、併せて200基が募集された。日比谷公園の思い出ベンチは、1903年にできた日比谷公園の百周年記念事業の一環だった。日比谷公園ができるはるか前、徳川家康が江戸に城を作った頃には今の日比谷公園から丸の内あたりは日比谷入江と言われる海で江戸城の中濠と繋がっていた。今でも和田倉門という江戸城の門があるが、この和田は海に因む「わだつみ」の「わだ」だという。海上交通の荷上場として倉が立ち並んでいたことが名前の由来になっていて、この辺りが海に面していたことがわかる。家康は神田の山を削った土や濠を掘った残土で日比谷入江を埋め立て、入江の東にある江戸前島と繋げて陸地を広げた。江戸前島が今の銀座あたりである。埋立地である日比谷から丸の内には大名屋敷が並んだ。

 今でも日比谷あたりの標高は低い。日比谷公園の東側で2.2メートル、丸の内で3.4メートル程度である。いずれも埋立地らしい高さである。銀座の標高は4.3メートル程度で日比谷あたりよりもわずかに高い程度だから、江戸前島と言っても川から流れてきた土砂が堆積した砂洲程度だったのかもしれない。ちなみに江戸城本丸跡は約12メートル、皇居の中心部あたりで約27メートルというからいかにも武蔵野台地の東の端という数字である。海からだと見上げる高さになっている。しかし不思議なことに日比谷、丸の内、銀座あたりの地域には浸水の記録があまりないのである。東京理科大学の納富壮一郎は江戸時代の寛保、天明、弘化の隅田川の氾濫による浸水被害を分析して『江戸三大水害における江戸の被害と救済に関する考察』としてまとめているのだが、左岸側(東側)の本所、深川あたりが浸水被害を受けているにもかかわらず、右岸側(西側)の日本橋、丸の内、日比谷あたりにはほとんど浸水が見られないとして、

 「隅田川を中心として地図をみると、左岸側に被害が集中しており、右岸側では浸水した記録が残っている地域は比較的少なくなっている事がわかる。これは日本堤などの堤防を幕府が作り、両岸の堤防の高さを調節し、浅草方面の被害が小さく済むように考慮していた為と考えられる。」

 としている。日本堤は右岸にあって言問橋あたりから三ノ輪に向かう土手であり新吉原に行くための道筋だった。人の足でよく踏み固められたのである。左岸には桜で有名な墨堤が走っている。寛保、天明、弘化期に先立つ明暦には江戸で大火があり、そのあと防火対策として隅田川の左岸にも大名屋敷や町人の街を広げたのだが、幕府が意図的に右岸と左岸の堤防の高さを変えて、江戸城側の地域に浸水しないような対策を施していたのではないか。さらに言うと江戸城近辺の低地にある日比谷、丸の内の大名屋敷とそれらの人々の生活を支える浅草・日本橋・銀座界隈の土地を守ることを優先させていたのではないか、というのである。正否や是非は別にしても、徳川幕府は治水と合わせて埋立を都市拡大のツールとして活用して、現在の東京のもとを作ったのは間違いない。

 埋め立ては、日比谷入江のように山を削った土や、工事などの掘削残土を使うだけでなく、いろいろな形で行われた。江戸の6割を焼失した明暦の大火の瓦礫で作られたのが築地、墨田川河口の浚渫土で作られたのが月島、近代になると大都市が生み出す廃棄物が海上に投棄されるようになり、その廃棄物で埋め立てられたのが夢の島である。埋め立てはダイナミックな都市拡大の土木技術であることは誇って良いのだろう。ただ、一方で我々には土地を求めて飽くことを知らない時期があったと言うことも忘れてはならない。

 廃棄物で作られた埋立地を積極的にアート化したのが、札幌のモエレ沼公園である。イサム・ノグチが設計をおこなった。ノグチは、札幌市から提案された森に囲まれた他の2箇所の候補地を見て回った後、廃棄物で埋められているモエレ沼見てこの場所を選んだ。川村純一の『建設ドキュメント1988―イサム・ノグチとモエレ沼公園』を読むと、

 「すごく空が広い。ここには、フォルムが必要です。これは僕のやるべき仕事です。」

 と言ったと書いてある。川村は次のようにも続けている。

「森に囲まれた他の候補地とはあまりにもかけ離れたごみの山であったが、彼はこの敷地こそ自分に任された素材であると感じていたようだ。」

 イサム・ノグチは約190ヘクタールの公園を「全体を一つの彫刻作品とする」という思いで基本構想と模型、そしてスケッチを作った。しかし、イサム・ノグチが急逝する。後を引き受けたのが川村であり、イサム・ノグチ財団である。そして、ランドスケープデザイナーたちであり、札幌市の英断である。これらのエピソードは川村の本に詳しい。イサム・ノグチは、

 「庭が本物になるのに三十年かかる。庭を完成させるのは人間ではない。自然が自分でやるんですよ。」

 と言ったという。2005年のグランドオープンから、まだ19年である。本物になるまでにあと11年待たねばならない。

●『江戸三大水害における江戸の被害と救済に関する考察』 平成二25年度東京理科大学卒業論文 納富壮一郎(辻本研究室) 2014年
●『建設ドキュメント1988―イサム・ノグチとモエレ沼公園』 川村純一・斉藤浩二 構成:戸矢晃一 学芸出版 2013年

いいなと思ったら応援しよう!