【番外編】市役所のアジフライ
「横浜 たそがれ ホテルの小部屋」から市役所が見える。数年前に、桜木町の駅近くにできた新しい市役所である。32階の高層の事務所部分と少しとんがったような形になっている低層の議会部分とがある。著名な建築デザイナーが設計チームに加わっていて、いかにも横浜らしいお洒落な建物である。ホテルを出て、市役所に向かって歩くとみなとみらいに灯りがつき始めている。「街の明かりが とてもきれいね」と呟きながら市役所にたどり着いた。1階、2階にはテナントとして飲食店や物販店が入っているので、市役所とはいえ明るく華やかな灯りがついている。役所の中にも食べたり、買い物したり休憩したりするところが沢山あっても不思議ではない。ただ、通路などの共用部が立派すぎて少し落ち着かない。それでも、水辺沿いには今風のコーヒーショップがあって、都会らしい風景になっている。町なかに色々な機能があるのと同じで、大きな建物には用途に関わらず、いろいろな場所があった方がいい。その意味ではよくできていると思う。これが先例になって、これからの市役所はもっと賑やかになっていくに違いない。3階には市民ラウンジがあって、みなとみらいのビル群が見え、横浜の都市的な風景を楽しませてくれる。一方、市民が日常利用する市民課や税務などの窓口は4階以上にあって用事のある人しか上がれないようになっている。3階受付で入館手続きを済ませ、エレベーターホール手前にあるセキュリティーゲートを通って、上階の事務所ゾーンに上がることになる。最近の大型ビルには、保安上の理由から本当に用事のある人しか入れないようにするためのゲートを設置している例が多い。カードをかざすとフラッパーが開き、中に入れてもらえるようになるのだが、一般ビルは別として、市役所などというのはもう少し開かれていてもいいようにも思うのだが・・・。横浜には区があるので、多くの住民サービスは区役所が担っているのかもしれないなと思った。
「伊勢佐木あたりに 灯りがともる」時間だが、市役所で一杯飲むのもいいだろう。いわゆる市役所の食堂はないのだが、飲食テナントが入っているので、ビールは飲めそうだ。入りやすそうな店を探していると、1階に横浜中央卸売市場直送の店を見つけた。ブレースの鉄骨にハイボールのポスターが斜めに貼ってあったり、食べ物の名前と値段が書いた手書きの黄色い紙が何枚も貼ってあったりして、市役所らしからぬ雰囲気に惹かれた。オープン店舗なので入りやすい。
椅子に座って何を食べようかと、メニュー見る。とりあえず生シラスを肴にしてビールを飲みながら、いくつか並んでいるフライものからアジフライ600円を選んで注文した。もう一つ何か頼みたいと思い、机上のメニューから壁の黄色い紙に目を移した。ネギマ鍋1200円や牡蠣入り豆腐鍋1300円も美味しそうだ。ネギマ鍋のマには赤丸がしてあり、マグロのことだと説明書きが付いている。「マって何ですか。」と聞く人がいるのだろう。季節的には、牡蠣入り豆腐鍋が良さそうだ。生シラスの残りが寂しくなったころ、アジフライが到着した。
このタイミングを逃さず、牡蠣入り豆腐鍋を追加で頼んだ。テーブルに置かれたアジフライが、熱いうちに早く食べろと訴えてくる。中くらいのアジを三枚に下ろして二枚の身をカリッとした衣が包んでいて、美味しそうである。たっぷりとタルタルソースをつけて口に入れると、揚げたて熱々でしっかりとした身が歯を跳ね返してくる。全てをタルタルで味わった。まさか、横浜でこんなアジフライが食べられるとは思わなかった。続いて牡蠣入り豆腐鍋が追いかけてきた。運んできてくれた女性が「熱いから、気をつけてね。」と声をかけてくれた。水菜、絹ごし豆腐が目に入る。いい香りがする。品の良い味がついた出汁の一人鍋仕立てである。たっぷりの出汁に浸った豆腐と水菜の下に牡蠣の淡いぷりぷり色と黒のびらびら縁がちらちら見えている。鍋から豆腐と水菜そして牡蠣を適量、蓮華で掬って呑水に移す。穏やかな香りを鼻に入れ、箸で豆腐を半分に割って水菜と共に口に運ぶ。熱い豆腐が喉を過ぎる。次は水菜と牡蠣。牡蠣はなんとも言えない海の香りを運んでくれた。食材による歯応えの違いが変化を与えつつ、それぞれの役割を果たしている。そのバランスが、まさに味覚の琴線に触れる。これを何回か繰り返すうちに、出汁も含めて鍋は空になった。体があたたまる。冬は来ぬ、である。アジフライも牡蠣も横浜桜木町の市役所にいるとは思えない味だった。
2023年始めに新しい長崎の市役所がオープンした。6階までの低層部と19階の高層部があって、最上階の19階には展望ロビーと屋上庭園がある。横浜と違って自由に19階まで上がれる。エレベーターでは、人懐こい口調で「上に行くの?」と地元の女性に話しかけられた。19階に上がると、当たり前だがすこぶる眺めがいい。周りにあまり背の高い建物がないので、19階まで上がれることには価値がある。長崎の全貌が360度見渡せる。長崎港や稲佐山、三菱重工のジャイアント・カンチレバークレーン、少し遠景だがグラバー園、軍艦島にも思いが飛ぶ。
地図を片手に景色を眺めていると、長崎の歴史も見えてくる。三菱重工造船所で戦艦武蔵が作られていた時には、造船所を棕櫚縄で隠したというから、さぞかし大変なことだっただろう。吉村昭の『戦艦武蔵』には、
「初めに考えられたのは、トタン板を周囲に張りめぐらして第二船台を遮蔽する方法であった。幅四〇メートル、長さ二七〇メートル、高さ三六メートルのガントリークレーンに沿ってトタン板の囲いをつくって覆ってしまうのだ。だが、この方法には基本的な欠陥があった。(中略)強風、殊に颱風などを受ければ、そのすさまじい風圧を全面にうけて、トタン板はたちまち剥がされ、吹き飛ばされて、船台は短時間のうちにむき出しにされてしまうだろう。」
とあり、最終的に風を通しかつ丈夫な棕櫚縄で作った簾が選ばれたのである。街の中には監視所ができ、憲兵などの見回りも強化されたという。その時代に19階建の建物があったら最上階に上がることはできなかっただろうし、エレベーターホールで待っているところで憲兵に捕まったかもしれない。平和な時代が何よりである。1階正面には大きくはないが吹き抜けがあって、その向こうに窓口カウンターが並んでいる。市民が気軽にアプローチできる4階までに、窓口機能が揃っている。特に1階には、市民との接点が多い住民相談課、自治振興課、交通事故相談所、福祉の相談窓口、中央地域センターがあって、吹き抜けの待合ロビーの前にそれぞれの部門のカウンターが並んでいる。横浜市役所とは違うところだが、市役所の原風景である。
何か食べるところはないかと「さがし さがし求めて ひとり ひとりさまよえば」、市役所の食堂が3階にあった。シンプルな内装はいかにも市役所の食堂だが、テラス席もあって気持ちが良い。食券の自動販売機に600円入れるとほぼ全部のメニューにランプがつく。鯨定食だけが、特別メニュー800円で一番高かったが、全体的にはとにかく安いのである。日替わりランチは八宝菜とアジフライで600円、トルコライスが600円、ちゃんぽん600円、長崎柚庵焼き600円、皿うどん650円、豆腐定食500円・・・・。どれにしようか迷う。「どうすりゃいいのさ 思案橋」と悩んで、小ぶりのアジフライが付いた日替わりランチにした。サンプルケースを見ると、アジフライは横浜と違って、三角に開いた尻尾付きのオーソドックスな形で小鉢に入り、「今日は、私、八宝菜のお供です。少し控えめにしております。」と語りかけていた。食券を買って、厨房カウンターで日替わりランチを受けとった。二股に分かれたアジフライの尻尾の姿がハートに見えて、なんとも愛おしい。
それでも分をわきまえた長崎市役所のアジフライの小鉢は、八宝菜のお皿の後ろにあって慎ましい。すでにソースがかかっているが、タルタルソースらしきものも添えられている。アジフライは冷めてはいたが、冷めても美味しいのがアジフライである。八宝菜、アジフライ、時々ご飯と味噌汁と、交互に食べていくと、最初に小ぶりのアジフライがなくなった。全部食べ終わった時には、八宝菜の味がアジフライの味を上書きしてしまった。横浜は、アジフライ単品で600円。長崎はアジフライを副菜として、八宝菜とご飯と味噌汁の定食で600円である。アジフライの置かれている立場が違うのである。長崎の名誉のために言っておくと、長崎は真アジの生産量が日本一なので、県内には「アジフライの聖地」を宣言している街もあるのだ。いつか、アジフライの聖地を訪ねなければならない。
梅田から南へ「こぬか雨降る 御堂筋」を7〜8分歩くと淀屋橋に着く。橋の北詰に大阪市役所があって、堂島川沿いに9階建ての姿を見せている。横浜や長崎のような新しい建物ではない。できてからもう40年くらいは経っている。御堂筋に面した正面入口の前には何かと話題の大阪万博のマスコット「ミャクミャク」が迎えてくれるのだが、なんと寝転んで手を振っているのである。寝ながら出迎え?と思うのは私だけだろうか。
中に入ると天井が高く広い玄関ホールがあるが、雰囲気が暗い。重々しく感じるのは今時のデザインではないということなのかもしれない。横浜や長崎に比べると、昭和の建物感は否めない。その奥にエレベーターホール ,右手には市民ラウンジがある。お洒落なカフェがあってもいいような場所だが、単なる休憩スペースという趣である。1階には、市民相談室・住民票戸籍関係のコーナや、都市整備局住宅部、会計室がある。2階には福祉局の生活福祉部・高齢者施策部、健康局の健康推進部、子ども青少年局の子育て支援部などが並び、低層階に市民生活に密着した部局が配置されている。ビル上階から街を眺めるような場所はないのだが、御堂筋を挟んで対面にはクラシカルなデザインの日本銀行があり、市役所の東にはこれもクラシカルな中央公会堂、中之島図書館が並んでいる。これらの建物の連なりが、中之島公園の見事な景観を作っている。横浜と長崎の市役所は、面積は143,000m2と52,000m2、高さは155mと91mとなっているが、大阪市役所は面積75,000m2、高さは約50mで、高さは一番低い。議場は8階に入っているが、あまり目立たない。外から見ると長方形の箱型で横浜、長崎とは印象が異なる。歴史的な景観を持つ中之島の風景を構成する建物としては、高層にするわけにはいかなかったに違いない。正面玄関からまっすぐ抜けて東側の玄関に出ると、大階段のある中之島の図書館が建つ。南側は並木と遊歩道があって土佐堀川へと視界が開いている。抜群の雰囲気である。
食堂は、地下2階にある。敷地の狭さもあって、地下に押し込められたのだろう。喫茶店もこの地下2階の奥まったところにある。なんとも気の毒な食堂や喫茶店である。土佐堀川沿いの遊歩道に面してあって然るべき店なのに残念である。食堂の入り口には「まいどおおきに食堂」の看板がかかっている。庶民的な感じの内装で、メニューも豊富である。しかも、フライものは揚げたてが並んでいる。アジフライや白身魚フライなどがステンレスの網かごに入って、各自が好きなだけ取れるようになっているし、足りなければすぐに揚げてくれて、テーブルまで持って来てくれる。煮魚や卵焼き、ナスの揚げびたし、肉じゃがなどの単品が並んでいて、好きな組み合わせにすることもできる。
アジフライは1匹120円と、安い。アジフライ2匹とキンピラゴボウと京漬物、味噌汁とご飯の組み合わせで750円の自選アジフライ定食である。アジフライは1匹しかなかったが「すぐ揚げますから」といって、パン粉のついたアジ2匹を目の前でフライヤーに入れてくれた。テーブルでお茶をいれて待っていると、小太りのお兄ちゃんが「お待ちどうさま」と言って、お皿に揚げたてのアジフライ2匹をのせて運んで来てくれた。キンピラゴボウ、味噌汁、アジフライが並ぶと、全体的には茶色っぽいのだが、京漬物の白彩が白と淡い緑で、ささやかに品格を添えている。
キンピラゴボウの素朴な田舎風と、揚げたてのアジフライ。山と海の味が調和したいい取り合わせである。開いたアジには尻尾がついていて、長崎と同じスタイルである。長崎よりはやや大きく、横浜よりは小さいアジフライを見つめながら、おもむろに味噌汁を飲んだあと、醤油で1匹目のアジフライを食べた。サクサク、ホロホロ、なおかつアツアツで美味い。うーん「やっぱ好きやねん やっぱ好きやねん」アジフライ。2匹目はソースをつけた。ソースをまとったアジは、名残惜しそうに私を見て、ソースの雫を一滴、涙のように尻尾からお皿に落とした。私も、2匹目のアジで「終わりかなと思ったら 泣けてきた」。もう1匹頼んでも良かったかもしれない。ただ、残念ながらタルタルソースがなかった。サクサク、ホロホロ、アツアツのアジフライにはタルタルソースも欲しかった。
浅田次郎は「アジフライの正しい食べ方」で、「しかし齢七十になっても、アジフライをどのように食べて良いのかわからぬ。」と書いている。食べ方といっても、アジフライ問題で常に議論となる「何をつけて食べるか」ということなのである。取材旅行先の佐賀関で「関あじフライ定食」を3人で食べ、醤油派、ソース派、タルタルソース派に分かれたといい、浅田次郎は醤油、男性編集者はソース、女性編集者はタルタルソースをつけたのである。3人の議論は平行線であった。後日、浅田次郎がかかりつけのマッサージ師にマッサージを受けながら「アジフライには何をつけるか?」聞くと、その女性マッサージ師は、「何もつけません」と答えたのである。
横浜から帰った次の日、大阪は阪急梅田駅改札内に長崎佐世保の名産品を売る店が出ていた。改札内のこのスペースは、各地の産物を扱うテンポラリーな使い方がされるのだが、今週は長崎佐世保の産物を販売していたのである。揚げたてのアジフライを売っていた。お店の前で長崎佐世保の幟を持っている人に「アジフライには何をつけますか?」と聞くと「マヨネーズです」と即答してくれた。ある女優が、何かのコマーシャルで「ポン酢でしょ。」と言っていたことを思い出した。やはり、人それぞれなのである。
ところで、横浜市役所と長崎市役所、大阪市役所のアジフライの違いは、アジや食堂運営者の問題ではない。食堂はいずれの市役所も民間事業者が運営しているのだが、長崎と大阪は市からの運営委託契約、横浜は賃貸借契約によって運営されている。運営委託の場合には、運営リスクの一部を市が負担する代わりに、営業時間や値段も含めて市から条件がついてくるし、賃貸借契約の場合には、運営リスクは一般的に食堂運営者が負うので、その自由裁量の幅は運営委託よりも大きくなってくる。運営方法の違いが、アジの大きさや値段だけでなく調理方法やメニューにも影響を与えるのは当然なのである。
食堂運営方式については、職員の立場、市役所利用者の立場、運営管理者の立場の違いからその評価も変わってくるのは当然だが、私のような市役所利用者としては、市役所でも美味しいアジフライを食べたいなと思うだけなのである。平松洋子は『あじフライを有楽町で』と書いているが、「市役所のアジフライも結構いける」と、平松洋子に書いてもらえるようになればいいな、と思う今日この頃なのである。
⚫︎『戦艦武蔵』吉村昭 新潮社 1971年・・・戦艦武蔵建造にあたって、三菱造船所対岸にあった香港上海銀行長崎支店やグラバー邸を含む外国人住宅は海軍に買収されて軍や警察関係の拠点となったが、アメリカ・イギリスの領事館はどうにもならず、監視強化で対応せざるを得なかったと書かれている。
⚫︎「アジフライの正しい食べ方」浅田次郎 日本文芸協会編集『ベストエッセイ2023』光村図書出版 2023年に掲載
⚫︎「横浜市新市庁舎商業施設運営事業(公募プロポーザル)」(2021年2月12日更新)の案内を見ると、1・2階のテナント区画を一括で運営する民間事業者が公募されたことがわかる。添付資料に「市庁舎商業施設に係るプロパティマネジメント業務委託契約兼定期建物賃貸借契約書(案)」があって、エンドテナントに転貸することができる、とされている。ちなみに、公募で選定された京浜急行電鉄がテナント区画のマネジメントを行なっている。
⚫︎平松洋子『あじフライを有楽町で』文藝春秋 2017年(初出は、2013年〜2014年にかけて週刊文春に掲載)・・・「とにかく、アジフライだ。人はアジフライを前にすると、なぜこんなに手堅い気持ちになるのでしょう。」と書き、とんかつやメンチカツなどが出てくると気持ちが高揚するが、アジフライを前にすると「安心するのです。」としている。