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TRPGにおいてしばし見かける「みんなで同じ目的に向かって最大限に努力しなきゃだめだよ」という主張を最大化し、個人のこだわりを捨てさせるプレイングが意味するものについて

書くかどうかを迷い迷い、それでもなんとか筆を取った。
これはもしかしたら馬場理論と変わらない、ある種のプロパガンダとしての性格を帯びた論ではないか、と怯えながら。

「テメーの身勝手なキャラ性と、パーティーへの貢献、どっちが大事かなんてちょっと考えればわかるだろボケが!!!」という叫びを目にしてしまったからだ。

それは、多分私の、解決しないまま捨てた業であり、結束主義への滑走路でもある。

■TRPGとは何か

無謀な問いだ。おそらく、多くの先達が挑み、それなりの答えを出して、その報復の呪詛に散っていった。スフィンクスの問いに答え、その果てに盲る運命を選ばざるを得なかったオイディプス王のように。
この問いに確定した答えはない。おそらく未来の可能性と同じだけ解答が存在する、あとだしじゃんけんみたいなものだ。その都度適切に答え、その後に存在する可能性によって否定され続ける運命にある。
たぶん私も同じだろう。

TRPGには、知的遊戯であった時期もあれば、国家の未来を占う託宣であった時期もあり、競技であった時期もあるし、人間の脳と偶然による共同芸術であった時期もある。

おそらく、システムごとに異なる要件であり、システムデザイナーの断定的宣言(もしくは神託)にしか決定権はないし、それすらユーザーによって覆されうる木槿の花弁のようなものだ。
それでも答えようとするとき、いくつかの(この時代における)共通の前提条件が浮かび上がる。

1.複数の人間による共同作業である(セッション)

TRPGは(いまのところ)複数の人間による共同作業が主流だ。「素人質問で申し訳ないのですが人間の定義は」みたいな質問が来た場合は「本論中においてはハイデガーにのっとって可能性に向けて自己を投企する様存在と規定していますがその底流にはシェーラーの可能性の動物があるものとして了解いただけるかと思います」とか返答をする用意がある。
とりあえず、TRPGは、進行管理者(GM)と1人以上のプレイヤー(PL)が共同でおこなう作業である。GMを必要としない、もしくは非人間をGM代わりにして1人で遊ぶことができるシステムもあるけれど、一度それはおいておこう。

2.参加者全員が前提として共有し、了解するルールを持つ(ルール)

1を前提とする以上、必ず何らかのルールが必要となる。それは社会で共同生活するためのものの上に、一時的に共有されるものであるが、これがない限り参加者は同じスケールの作業を行うことができない。

3.何らかの架空のストーリー性を持つ(シナリオ)

大抵のTRPGはシナリオと呼ばれる架空のストーリー性を持つ。これは問題と置き換えてもいい。「道に良い感じの木の枝が落ちている」という状況設定だけで、ストーリーは発生する。TRPGとは1と2を前提にこの3を処理する作業だと言い換えてもいい。また、そのために各PLは2によって規定される架空のキャラクター(プレイヤーキャラクター・PC)を設定することになる。

4.何らかの乱数発生装置を利用する(判定)

大抵のTRPGはサイコロやカードなどの乱数を発生させる装置を使用して、3に対して行われた参加者の決定を2に従って処理し、結果を出力する。これは参加者の決定の絶対性を崩すものであり、これによりTRPGは無制限に「欲求された結果」へたどり着く事を保証せず、ある種の遊戯性を担保している。

5.遊戯である(ゲーム)

TRPGは、少なくとも、今の時代においては遊戯である。コミュニケーションのトレーニングシステムや状況シミュレーション、国家の未来を占う卜占、知的競技の何れでもない。1-4を前提とした遊戯である。

大抵のTRPGはこれら1-5を含有したものだろう。複数人で集まって架空の物語とルール、そして乱数によって現れる結果を共有する遊戯なのである。

■協調を強制するPL

TRPGにおけるシナリオは結果を持つ。それはPLにとって時には望ましく、時にはそうではないだろう。望ましい結果を迎えるためにPL達はルールを利用しながらPCを操作し、判断と決定を繰り返して判定を行い、状況を誘導する。

この「望ましい結果を目指すこと」はTRPGにおいては副次的でありながら、PLたちの最大の目的として共有されることが多い。PLたちはその点において運命共同体として、ある程度の協力体制を敷く。

しかし、しばしばであるが、この時点であるタイプのPLが発生する。今回扱う彼らは、ある意味においてもっともシナリオを重視し、親身に考え、そのなかで自分たちの考える「望ましい結果」を導き出すことに真剣な者たちだ(もしくは単にそれを導き出す過程に魅せられた者たちであるかもしれないが)。彼らはそのためにルールを最大限に活用することが多い。
そして彼らはこう主張する。

「共同作業に参加した以上、より望ましい結果に向けて最大限の努力をする義務がある。その義務の前には個人のこだわりは捨てて、集団の目標の達成のために最適化しろ」

問題はその態度を他のPLにも強制し、妥協や他の態度を糾弾することだ。冒頭の叫びのように。本記事では彼らを仮に「協調強制型PL」と呼びたい。

■TRPGにおける結束主義

ここまで見ていると、この協調強制型PLの態度は問題があっても、主張には大きな間違いはないように思える。複数の人間が参加する共同作業であり、ストーリー性を持つものを処理するのであれば、各々に最善を尽くし、「望ましい結果」を導き出す義務がある、というのは妥当と言えるかもしれない。この共同作業が「望ましい結果」を導き出すためには各個人が各々の都合を捨てるのも仕方がないのではないか。
しかし、私はこの態度、この言説にある政治思想を思い出す。

自由とは義務のことであって権利ではない。

もはや個人の利益を目的とした経済ではなく、集団的利益を目的とした経済である。

120年前、イタリアのある政治家を震源として発信された、集団の利益のために個が存在するという主張を中心に、集団全体の結束と献身を呼びかけ、そして世界を変えた政治思想。その特徴からイタリア語のfasci(結束)を語源としてこの政治思想はこう呼ばれる。

ファシズム(結束主義)と。

協調強制型PLの言動は、ドイツ、イタリアをはじめとして世界中を混乱に至らしめた思想と相似の構造を含有しているのではないだろうか。

■TRPG結束主義への反論

現在、結束主義は研究され、その結果として、いまのところ民主主義を基調とした社会の中で生きることを私たちは選択している。
我々は国家の一員ではあるが、同時に自分自身の管理者であり、自身の幸福のために国家をはじめとした共同体に参加し、これを維持するといったような考えのもとに(ちょっとロック的)。
それを前提として、この協調強制型PLの言動をもう一度考えてみたい。

まず「より望ましい結果を目指すこと」は義務だろうか。
これは、それこそ「より望ましい」というだけで、義務ではないだろう。PLにはその結果を目指す自由もあり、同時にそれを拒否する自由もある。
その結果が魅力的であるからこそ、各PLは各個人の自由のもとに、それを支持し、協力体制を築く。そういった意味ではこれは自由の行使、各個人の権利の結果に近い。先に協力という結果在りき、ではない。

次に「共同作業に参加した以上、集団を優先し、個人のこだわりを捨てて最適化しろ」という部分だ。
共同作業である以上、確かに参加者はその作業に対してある程度真摯である必要はあるだろう。そういう意味において彼らの主張は間違ってはいないように感じる。しかし、その真摯さ、そしてそもそも共同作業に参加することへのモチベーションは一体どこから来るのだろうか?という問題を、彼らは考えていない。

これらの態度へのモチベーションは「報酬」であり、その報酬とは共同作業へ好きな態度で参加し、ある種の自己実現(幸福)を得ることそのものだ。
わかりやすく言えば、好きなキャラクターで、セッションに参加し、物語を体験することそのものが、TRPGにおける報酬の一つなのだ。
「より望ましい結果」を迎えることは確かに大切ではあるが、それは「おのれの望んだPCで」という前提がつく。そのために最適化しろ、こういう(強い)キャラクターで参加しろ、と強制することは参加者から報酬を取り上げることに等しい。「いい結果があるんだからいいだろ!」という彼らの言動は、やりがい搾取に近い。

最後にTRPGは成功を保証しない遊びである。これは判定という行為がある時点で確定している。確かに、シナリオの成功は楽しい。だがそれは絶対ではないし、絶対ではないところにTRPG独自の遊戯性がある。
それを無視して、確実に成功するためにあらゆる手を尽くし、前提を見失うことは、美しく、真摯であるかもしれないが、同時にダイダロスの警告を忘れて太陽へ向かって飛び立ったイカロスの運命を思い起こさせる。
TRPGは、物語の体験とそれに対する反応自体が主であり、成功は副次的なものである(と少なくとも筆者は考えている)。それを忘れ、成功だけを求めてしまった時、彼らの態度は私たちの上に現れるのではないだろうか。

■まとめ

TRPGにおけるキャラクター構築の最適論自体は、私は問題がないと思っている。やりたいものが、好きにすればよい。問題はその態度を他者に強制し、人格を無視し、一個の機能として扱った時に現れる、ある意味暴力的な結束主義だ。
私も、多分かつて同じことをした。そして、それを悔いている。何を言おうと、同じ穴の狢でしかない。

人が国を天国にしたいと思うそのことが、かえって国を地獄にするのだ

18世紀の詩人、ヘルダーリンの一節に、結論を仮託しよう。彼らと、それから私に。
あらたなTRPGを愛好する者たちが、同じ轍を踏まないよう、願いながら筆をおくことにする。

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